31.守れた命、揺らぐ心
レオの剣が、一閃した。
振り下ろされた鋼の軌跡が、迫りくる刺客の刀を弾き飛ばす。
甲高い音が森に響き、すぐさま足元へと繰り出された蹴りが、敵の体勢を崩した。
倒れ込んだ男に止めを刺すことなく、レオはすぐさま次の動きへ移った。
剣の構えを反転させ、背後に迫っていた別の刺客の一太刀をぎりぎりで受け止める。
「……舐めた真似を」
低く吐き捨てると、わずかに身を沈めた。
次の瞬間、草を踏みしめる音もなく、黒い影が一歩踏み出した──はずだった。
だが、その動きよりも速く、レオの剣が刺客の懐を切り裂く。
相手の肩口が裂け、血が飛び散った。悲鳴を上げる間もなく、男の体は反動で木の根に倒れ込む。
パメラは少し離れた木陰から、その光景を見守っていた。
左腕を押さえながら、ミランダの肩を支えている。
「……あれが、レオさまの本気……」
その呟きに応じる者はいなかった。
けれどミランダも、膝を抱えたまま、泣くのを忘れたように息を呑んでいた。
──戦いの音が、少しずつ遠ざかっていく。
最後の一人を組み伏せたレオが、ゆっくりと振り返った。
「……パメラ」
その声に、パメラの背筋が自然と伸びる。
レオは一歩、そしてまた一歩と近づくと、剣を地面に突き立てるように下ろした。
深く息を吐き、ようやく顔を上げる。
「怪我は……どこだ?」
レオの声は、先ほどまでの鋭さとは打って変わり、かすかに震えていた。
パメラはそっと頷きながら、押さえていた左腕をわずかに浮かせる。
袖の下、白布が滲むように赤く染まっていた。
「かすっただけですわ。……ご心配なく」
そう言いながら、平静を装ってはいたが、その表情には薄く汗がにじんでいた。
痛みは確かにある。だが、それを一切表に出さない──それが彼女だった。
「かすっただけで、こんなに血が出るかよ……!」
低く、抑えた声でレオが呟く。
パメラの腕をそっと取ると、外套の端を裂いて即席の包帯を作り、迷いなく巻きつけた。
その指先が、ほんのわずかに震えていたことに、パメラは気づいていた。
「レオさま……」
「……こんなことになるなら、行かせるべきじゃなかった」
巻きながら、レオの声がかすかに低く落ちた。
それは自分への怒りであり、無力感であり──何よりも、彼女を失いかけた恐怖だった。
「あなたが向かわなければ、もっと多くの者が犠牲になったかもしれません」
パメラは、いつもの穏やかな声音で言った。
だが、その目はまっすぐレオを見つめていた。
「わたくしは……あなたを信じて行動したのですわ。だから──」
言葉の端が、少しだけ震える。
「来てくださって、ありがとうございます」
レオは何も言わず、彼女の手を包帯ごとそっと握った。
その掌の中に、小さく鼓動が脈打っている。
レオは、ためらうことなくパメラの肩を抱き寄せた。
その腕の力に、言葉では言い表せないほどの熱が込められているのを、パメラは感じた。
「……無事だったんだな」
かすれた声が、耳元に落ちる。
いつもより低く、かろうじて搾り出したような声だった。
パメラはそっとうなずき、レオの胸に額を預ける。
「……今朝、お前を一人で行かせたのは、間違いだった」
彼の息が、震えているように思えた。
普段は強引な男なのに、今だけはまるで何かに怯えるような声音だった。
「もし間に合わなかったらって……」
それ以上の言葉は、空気にかき消された。
けれどパメラには、伝わっていた。彼が、どれほどこの瞬間を恐れていたのか。
彼の腕が、少し強くなった。
「……もう二度と、こんな思いはしたくない」
その言葉に、パメラの胸の奥もわずかに疼いた。
今にも壊れそうなほど不器用で、それでもまっすぐな彼の想いが、肌を通して伝わってくる。
「ただ傍にいるだけじゃ、足りねぇ。……笑っててほしい。俺の隣で、生きててほしい」
声が震えている。
そして、震えていたのは自分の胸の鼓動も同じだった。
後方では、ミランダが身じろぎもせず、凍りついたようにその場に佇んでいた。
泣くことも、声を上げることもせず、ただ口を押さえ、縮こまっている。
レオは一瞥だけくれて、パメラに囁くように言った。
「こいつは……?」
「叔父さまに、差し出されかけたそうですわ。──あの方に」
パメラの言葉に、レオの眉がわずかに動く。
「……なるほどな。あいつも使えないと見なされたか」
パメラは頷きかけ──ふいに視線を遠くへ向けた。
「もう、選ばれることも許されないのですわ。……だから、始末されるだけ」
しんとした空気が森に降りる。
風が枝を揺らし、葉擦れの音が緊張の余韻を連れていった。
「……行きましょう。ここはもう、安全とは言えません」
パメラが立ち上がると、ミランダも遅れてよろよろと立ち上がる。
顔は涙と泥にまみれ、足もふらついていたが、パメラの手に触れようとした。
「……ごめん……あたし、もう、なにもわかんない……」
かすれた声に、パメラは静かに応じる。
「後悔するのは、命が残ってからで十分ですわ。──今は、生き延びることだけを考えて」
その声には、怒りも軽蔑もなかった。
ただ、冷静で、優しい決意だけが宿っていた。
屋敷へ戻ったときには、空はすでに茜に染まりかけていた。
昼間の刺すような陽射しはやわらぎ、夕暮れ前の風だけが静かに吹き抜けていく。
刺客による妨害で損傷した馬車も幸い大事には至らず、御者も軽いけがで済んだため、なんとか自力で屋敷まで戻ることができた。
だが、その穏やかな光景とは裏腹に、屋敷の中には一層の緊張が張りつめていた。
正面玄関で出迎えたリリィと数人の使用人は、パメラの血に濡れた袖を目にした瞬間、言葉をのんだ。
けれど騒ぐ者はひとりもいない。ただ表情を引き締め、迅速に手当の支度へと動いていく。
その傍らで、リリィたちがミランダを別室へと案内していった。
泥と涙にまみれた彼女は、もはや抗う力もなく、されるがままに身を任せていた。
(──せめて、今は休ませてあげなければ)
パメラは応接間へ運ばれ、椅子に座らされた。
肩に巻かれた包帯はすでに落ち着いていたが、服の裂け目から滲んだ赤が薄く残っている。
「毒はなかった。出血も浅い」
そう報告したレオの声は低く、硬かった。
窓の外では、陽が斜めに差し込み、赤銅色の影を長く引いている。
室内の灯に火がともる前の、境目のような時間。
不安と疲労が滲む空気の中で、静けさだけが重たく積もっていく。
パメラは、肩の痛みよりも、今なお胸の内に残る緊張を意識していた。
──あの瞬間、間に合わなければ本当に終わっていた。
レオは窓際に立ち、じっと外を見つめている。
夕陽がその横顔を照らしていたが、まるで表情の奥まで届かぬかのようだった。
「……お前を巻き込むつもりじゃ、なかった」
ぽつりと漏らされたその言葉は、いつになく低く、重たかった。
パメラは黙って、彼の背中を見つめていた。
屋敷の空気を動かさぬまま、ただ息を飲む。
「俺の見通しが甘かった。……詰所が襲われたのも、刺客が来たのも、全部つながってる。俺は気づくべきだった」
握りしめた拳が窓枠に沈む。
その指先が、かすかに震えていた。
「今朝、お前をひとりで行かせたこと、ずっと頭の中で繰り返してる。もし……間に合わなかったら、と思うだけで……」
レオはそこで言葉を切り、深く息を吐いた。
そして、絞り出すように続ける。
「……もう、やめた方がいいのかもしれねぇ。復讐も、黒幕を暴くのも……全部」
その背中が、沈黙の中で僅かに揺れる。
それは、迷いを押し殺そうとしても、なおこぼれ落ちる苦悩の色だった。
「今のままじゃ、お前を守りきれねぇ。こんなもののために、お前の命を賭けさせる価値が、本当にあるのかって……分からなくなってきた」
その言葉は、決断ではなかった。
ただ、揺らぎと、葛藤と、恐れの入り交じった告白だった。
パメラは、傷の痛みを忘れるようにゆっくりと目を伏せる。
けれど、胸の奥に宿っていたものが、静かに炎を灯していくのを感じていた。
「レオさま……」
パメラは、静かに口を開いた。
傷の痛みではない、もっと奥深いところで疼いていた何かが、ようやく言葉になろうとしていた。
「わたくし、怖いのです」
レオが、少しだけ目を見開く。
「あなたのような人が、隣にいてくださることが。……信じたくなることが」
声が震えていることに、自分でも気づいていた。
それでも、止めることはできなかった。
「いつからでしょうね。笑っていれば、可愛いと思われる。聞き分けがよければ、扱いやすいと思われる。──仮面のようにそういう自分を被って、生きるのが楽だと……思っていたのです」
けれど。
「あなたが、わたくしの“素”を見ようとするから、苦しくなるのです」
肩に置かれたレオの手が、そっと力を込めた。
「本当のわたくしなんて、誰も見たくないと思っていた。でも、あなたには……見てほしいと、思ってしまう」
パメラは、ゆっくりとレオを見上げる。
「……それが、いちばん怖いのです」
沈黙がふたりの間に落ちる。
夕陽が、応接間の窓辺を静かに染めていた。
刻々と赤みを深める光が、パメラの肩に巻かれた包帯の上へ、滲むように落ちていく。
傷の痛みはもう鋭くはなかったが、胸の奥に残るざらついた感情は、まだ癒えていなかった。
無言のまま、二人は並んでいた。呼吸の音さえ聞こえるほど、部屋は静かだった。
ティーカップの縁に指を添えたまま、パメラは思う。
今の言葉で、すべてが終わってしまってもいいと。けれど──そう願う自分の弱さを、許してはいけないとも思っていた。
そんなときだった。
レオが、ゆっくりと視線を向ける。
その顔にはまだ迷いがあった。だが、同時に、それを押し殺すような決意の色も滲んでいた。
「……パメラ。ひとつ、提案がある」
その言い方には、どこか痛みを孕んだ覚悟があった。
パメラはわずかに眉を寄せ、静かにティーカップを受け皿へ戻す。
薄い磁器が小さく音を立てた。
「提案……ですか?」
問い返した声は、落ち着いていた。
だが、指先の力がほんの少しだけ強まったことに、自分自身で気づいていた。




