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天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ  作者: 葵 すみれ


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30/41

30.命を狙われるということ

 朝の空気は澄んでいたが、屋敷の中には妙な静けさが漂っていた。

 銀薔薇の夕宴から戻ってまだ一夜が明けただけ。けれど、その一夜は、まるで数日分の重さを纏っていた。


 食堂には二人分の朝食が用意されていたが、ティーカップの紅茶はすでに少し冷めかけていた。

 パメラはカップを手に取りながら、ゆるやかに言葉を紡ぐ。


「……今日は、マルトン夫人のお邸へ伺う予定でしたわよね」


 レオは椅子に座ったまま、黙って頷いた。

 昨夜の仮面越しの応酬、ミランダの乱入、そして公爵の視線──すべてが、脳裏を離れずにいる。


「だったんだが……状況が変わった」


 そう言ってレオは立ち上がり、上着を引き寄せる。


「領内西の詰所が襲撃された。守備隊が混乱してる。けが人も出たらしい。今朝方、使いの者が駆け込んできた」


「……誰の仕業か、わかっていらっしゃるのですか?」


「今のところは盗賊か獣の仕業って話になってるが……たぶん、偶然じゃねぇ」


 レオの口調には、明確な警戒の色があった。


 パメラは静かに頷くと、ティーカップをそっと置いた。

 微睡みのように残っていた疲労が、冷たい現実によって霧散していく。


「マルトン夫人のもとへ伺うのは、わたくし一人で向かうべきですわね」


「いや、本来なら俺が同行すべきだ。だが……」


 レオは言いかけて唇を引き結び、息を吐く。

 迷っているのではない。分かっているのだ──二手に分かれるしかないことを。


「……マルトン夫人は、今、数少ねぇ味方といえる存在だ。時間を置けば、向こうがどう動くかわからねえ」


「ええ。わたくしも、そう思っておりました」


 パメラの返事は淡々としていたが、その声にこもる緊張は確かだった。


 レオは頷いたのち、扉の外へ向かって歩き出す。

 そのとき、廊下の先からひとりの使用人が早足でやってくる。


「旦那さま……!」


 呼び止める声はかすかに揺れていた。

 何かを言いたげなその表情に、パメラは目を細める。


 けれどレオは、その前をすれ違いざまに通り抜ける。


「あとにしろ。すぐ戻る」


「……はっ、かしこまりました」


 使用人は一歩下がり、目を伏せる。

 だがその仕草の奥には、ただならぬ緊張が滲んでいた。


 パメラは一度レオの背を見送ったのち、そっと椅子を引いて立ち上がる。


「あなた……何か、気にかかることがあるのですか?」


 小さく声をかけると、使用人は一瞬迷ったように息をのみ──それでも意を決したように、顔を上げた。


「奥さま……確証はないのですが、ここ数日、屋敷の一角で誰かが様子を探っているような気配がございました」


「気配……?」


「はっ。下働きの者に交じって、見慣れない顔がいたと……。古株の者たちが、何かおかしいと気づいたようで。今朝、その者も姿を消していたと……」


 パメラは静かに息を吐き、指先でカップの縁をそっとなぞった。


「……お話、ありがとうございます。レオさまが戻られたら、わたくしからも申し上げますわ」


「はい……お気をつけて、お出かけくださいませ」


 パメラは軽く頷くと、リリィに目を向ける。


「支度を。……屋敷を出る準備をいたしますわ」




 揺れる馬車の中で、パメラは窓の外を見つめていた。

 車窓の外には、初夏の木洩れ日が揺れている。空は晴れているはずなのに、胸の奥には薄雲のような不安が拭えなかった。


(……マルトン夫人は、どこまでご存じかしら)


 銀薔薇の夕宴で起きた一件。

 ミランダの不用意な発言──それをきっかけに、すでに何かが動き出している気がしてならない。


(わたくしも、動かなくては)


 そう思った矢先、御者が馬を引いて馬車を停めた。


「奥さま。人影が──路肩におります。……おや?」


 パメラがカーテンを開くと、木陰の下に、ひとりの少女がうずくまっていた。

 森の道はまだ朝の光を帯びていたが、その中に佇む少女の姿は、まるで夜に取り残されたようだった。

 破れたドレス、片方脱げた靴、泥まみれの裾──そのすべてが、彼女がどんな夜を過ごしてきたかを物語っていた。


「……ミランダ?」


 窓からその姿を見つけたパメラが馬車を停めさせると、ミランダはゆっくり顔を上げる。

 赤く腫れた目は、昨夜から一滴も眠れていないことを物語っていた。


 パメラが差し出した手に、ミランダは戸惑いながらもすがるようにしがみついた。

 馬車に乗せると、彼女は息も絶え絶えに、かすれた声を吐く。


「……逃げてきたのよ。あたし……昨夜のあと……お父さまが……」


 途切れ途切れの声に、パメラは静かに頷くようにして促す。


「公爵さまに許してもらうには、誰かが責を負うしかないって……。あたしを、差し出すって……娘を……!」


 声が震える。だがその目には怯えよりも、どこか納得のいかない怒りがあった。


「それで、夜のうちに馬車で逃げ出したの。けど、今朝……御者はいなくなってた。車輪も壊されてて……捨てられたのよ、あたし……!」


「……ミランダ……」


「行くところなんてないのに、あたし……!」


 ミランダは泣きながらパメラにすがりついた。

 泥と涙でぐしゃぐしゃになったその顔に、かつての“高慢なお嬢さま”の面影はなかった。


「落ち着いて、ミランダ。……まずは深呼吸をなさって」


 パメラは膝を折り、彼女と視線の高さを合わせる。だが、ミランダの肩は震え、息はうまく整わない。


「──父が、あたしを差し出したのよ。何もかもあたしのせいにして、自分だけ逃げようとしてたの……! このままだと、ほんとに殺されるかもしれないのに……!」


 喉を詰まらせながら、ミランダは縋りつくように泣き続けた。

 パメラは腕をそっと回し、背を撫でてやることしかできない。


(叔父さまはミランダすら切り捨てたのね……少し意外とはいえ……あの方ならやりかねないと納得できますわ)


 パメラはそっとため息を漏らす。


「ひとまず……落ち着いて話せる場所を探しましょう。そうすれば、次にどうするかも……」


「だって……だって……!」


 言葉はすぐに崩れ、また新たな涙に変わる。


 ──しばらく、ミランダは泣き止まなかった。


 パメラがその背を撫で、崩れそうな体を支え続けるあいだにも、日差しはじわりと傾いていく。

 何度か声をかけても、ミランダは怯えきった子どものようにただ震えていた。


(……レオさまに、連絡を入れたいところですが……)


 視線を周囲に走らせても、使いの者がすぐに見つかるような場所ではない。


(──今は、この子を落ち着かせるのが先ですわね)


 ようやくミランダの呼吸が落ち着いてきた頃、パメラはそっと彼女の肩を離す。


「……ミランダ。ここで泣いていても、何も始まりませんわ。まずは、落ち着ける場所へ向かいましょう」


「……どこに……?」


「うちの屋敷です」


「え……?」


 ミランダが顔を上げた。


「あなたをこのまま一人にするわけにはいきませんもの。家族に裏切られた者を、そのままにはしておけませんわ」


「……あたし……?」


 ミランダの顔に、一瞬戸惑いが浮かぶ。だが、次の瞬間、力なく頷いてパメラに身を預けた。


「……ありがとう……」


 御者に指示を出し、馬車が再び動き出す。森の道は徐々に揺れを強め、二人を屋敷へと連れ戻すはずだった。

 けれど──その静けさは、長くは続かなかった。


 パメラがふと視線を上げた先、森の縁に不自然な揺れがあった。

 茂みの奥、木々の影がわずかにざわめき、何かの気配が──動いた。


(……何か、いる……?)


 直感が、首筋を冷たく撫でた。


 次の瞬間、草むらの奥から黒い影が飛び出してくる。

 顔を覆い、武器を手に、無言で一直線にこちらへ向かってくる姿は、まるで“殺すため”だけに現れた者のそれだった。


「ミランダ、伏せて!」


 パメラが叫び、御者に命じる。


「進めてください、できるだけ早く!」


 パメラの声に、御者は鞭を振るって馬を急かす。馬車はがたつきながらも速度を上げ、林道を駆け始めた。


 だが、前方の藪からひとつの影が飛び出した。手にしていた金具のようなものを、無言のまま馬車の進路へ放り投げる。

 車輪の軸に何かが絡んだ音がして、馬車が激しく揺れた。

 片輪が外れたのか、車体が傾き、御者が体勢を立て直そうと手綱を必死に引く。


「奥さま、車輪が──!」


「このまま……っ、行けるところまで!」


 だが、前進はもはや困難だった。木の根に引っかかるようにして馬車が停まり、衝撃に合わせて車体がきしんだ。


「……止まった……?」


 ミランダが怯えた声で囁く。

 パメラは窓越しに外を見て、表情を引き締めた。


「……ミランダ、出るわよ」


「え、出るって、こんな……!」


「ここでじっとしていても、包囲されるだけですわ」


 パメラはドアを開き、素早く周囲を見渡した。

 森の影には、無言のまま近づいてくる男たちの姿。

 そして──車輪の根元、倒れ伏した御者の姿も目に入る。


(……血は流れていない。おそらく、気絶しているだけでしょう)


 それを確認する暇もないまま、パメラは即座に判断を下す。


「走れるなら、走って。無理なら、私の影に隠れて」


 言い終えるか終えないかのうちに、何かがこちらに向かって放たれた。

 閃いた銀の光──短剣だ。


 パメラが振り返るよりも早く、刃は肩口をかすめて通った。


「……っ!」


 薄く裂けた袖の下、皮膚に走る冷たい痛み。

 生ぬるい感触が広がり、白い布を赤く染めていく。


「いや、いやああっ……!」


 ミランダが泣き声をあげ、足をもつれさせて転びかける。

 パメラは咄嗟にその腕を引き寄せ、草むらの陰へと体を伏せさせた。


「しっかりなさい。泣くのは後ですわ」


 森が軋む。追手が距離を詰めてくる音が、すぐそこまで迫っていた。


(間に合わない……このままでは──)


 そう思ったそのときだった。

 森の奥から何かが駆ける音がした。

 小枝を砕き、蹄が地を打つ音。


 草を裂いて現れたのは、黒い馬。

 そして、その背には──風を裂くように、ひとりの男がいた。


 「──伏せろ!」


 低い叫びが空気を叩き、直後、馬が勢いよく前脚を突き出して突進する。

 ひとりの刺客が踏みつけられるようにして弾き飛ばされた。


 馬を飛び降りるようにして着地した男の外套が、斜めに風を切って翻る。

 そのまま迷いなく長剣を引き抜き、次の刺客との距離を詰めた。


「レオ……さま……!」


 パメラの声が、かすかに震える。

 彼は返事をする代わりに、剣を構え直し、ゆっくりと背を預けるように彼女の前に立った。


「……血が──くそ、どこまで……っ。下がってろ。すぐ終わらせる」

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