03.名ばかりの夫婦、その第一夜
夜が深まり、部屋の蝋燭が細く燃えていた。
炎の揺らぎに合わせて、レースのカーテンが揺れる。
静かな夜だった──だからこそ、少しの物音もよく響いた。
結婚式らしきものは、なかった。
神官が一人立ち会い、互いの署名を記した結婚誓約書が交わされただけ。
指輪も祝詞もなく、客人の笑い声もなかった。
それでも、あれは確かに婚姻だった。法的にも、形式上も。
──そして、たったそれだけで、私は“あの人のもの”になった。
扉が、音もなく開かれる。
レオ・アッシュグレイヴが、何の予告もなく現れた。
だがその足取りは荒々しく、重い革靴の音が床を打つ。
男はわざと無言を貫き、冷えた視線のまま、無表情で見下ろした。
「言っておくが、俺は形式に興味はねぇ。名家の令嬢が何を望もうと、知らん」
低く、荒れた声。
初夜にしてはあまりにもぶっきらぼうな、突き放すような言葉だった。
だが、パメラは動じなかった。むしろ、楽しげに目を細める。
「あら、まあ。レオさま、どうぞお入りになって」
まるで散歩帰りの知人でも出迎えるかのように、パメラはベッドから立ち上がる。
ドレスの裾を軽く摘まみ、おっとりと一礼。
「ご挨拶の代わりにお茶でもお出しできればよかったのですけれど、あいにく何もなくて。……このお部屋、意外と寒いですのね」
肩をすくめて笑い、窓辺をちらりと見やる。
「でも、大丈夫。わたくし、冷えるの慣れておりますのよ。屋敷ではいつも台所の奥でしたから」
なんでもないことのように、そんな一言をぽろりと落とす。
驚いたのか、レオの視線がわずかに揺れた。
(あら、気づかれました?)
パメラは笑ったまま、何食わぬ顔でベッドに腰を下ろす。
すそを整え、きちんと足を揃え、にこにことレオを見上げる。
「レオさま。お名前、ちゃんとおうかがいしてもよろしいかしら? レオさま、でよいのですよね?」
一拍置いて、続ける。
「紅茶と一緒ですわ。お名前も、由来も……ちゃんと知りませんと、味が変わってしまいそうですもの」
くすくす、と小さく笑って、髪を耳の後ろへ流す。
細い手首が蝋燭の灯りに照らされて、淡く光る。
そして、しれっとした声色で、さらりと告げる。
「“そのようなこと”をなさるなら……せめてお名前だけでも、きちんと知っておきたいと思いまして」
ふわふわとした口調で、ふわふわととんでもないことを言う。
けれど、瞳の奥だけはふわふわしていなかった。
レオがなにかを言いかけて口を閉じるのを、パメラは目の端でしっかり見ていた。
(ねえ、どうします?)
彼が動けば、受ける覚悟はある。
止められるとは思っていない。
でも、動かないのなら、それはそれで──。
「……レオでいい」
それだけを落として、レオは立ち上がった。
パメラは口元に手を添えて、微笑む。
「あら、おやすみのキスはいただけませんの?」
冗談のように、甘えるように。
けれどその声音の奥に、探るような針を一筋、交ぜ込んで。
レオは一度だけ振り返った。
目が合う一瞬、彼の指先がわずかに揺れる。
けれど何も言わず、手を握りしめるようにして、扉の外へ出ていった。
蝋燭が揺れた。
その火が、パメラの頬を淡く染める。
閉じた扉の向こう側を、パメラはじっと見つめた。
彼の背中が残した沈黙が、部屋の空気をゆるやかに震わせる。
──あの人は、まだ何も見せていない。
だからこそ、知りたくなる。
仮面のまま、微笑んで。
パメラは、次の一手を静かに思い描いた。
*★*――――*★*
扉を静かに閉じたあと、レオは手を離すのにわずかに時間がかかった。
手のひらがじんわりと汗ばんでいたことに気づいて、眉をひそめる。
こんなはずじゃなかった。
──あれで、夫婦になったつもりか。
式も、指輪も、祝宴もない。
神官が形式的に立ち会い、署名を交わしただけの婚姻。
互いの意思も、感情も、どこにも必要とされていなかった。
(紙切れ一枚。……それで十分だろう)
そう思っていたはずだった。
感情など、必要ない。
この結婚は、目的のための取引にすぎない。
なのに──。
(……何を考えてる、あの女は)
ふわふわとした笑顔。
間延びした声音。
空気を読まない天然令嬢──のはずだった。
だが。
あの一言。
「お名前も、由来も……ちゃんと知りませんと、味が変わってしまいそうですもの」
それはまるで、“本当のあなたを見せて”と告げる誘い文句のようだった。
そして、極めつけは。
「おやすみのキスはいただけませんの?」
軽い冗談、という風を装ったその一言。
けれど、彼女の目は冗談を言う目ではなかった。
確かに、笑っていた。
でも──笑っているのは“仮面”のほうだ。
それがわかってしまった自分が、腹立たしい。
(気づいてる。あいつは、自分がどう見られているかを、完璧にわかってる)
だからこそ、隙を演じ、弱さを武器にする。
あの女は自分の価値と脆さを、天秤にかける目をしていた。
なのに。
なぜ、あのとき……手を伸ばさなかったのだろうか。
脅して、組み伏せて、思い知らせるはずだった。
どちらが主で、どちらが従か。
それを初夜のうちに、刻みつけるつもりだった。
けれど──できなかった。
あの柔らかい声と、笑顔の奥に潜む冷たい意志が、刃のように自分を見透かしてくる気がして。
レオは廊下の柱に拳を当てて、息をひとつ吐いた。
心がざわついている。
(……利用するだけだ。あれは、仇の家の娘だ。この結婚も、ただ──過去に決着をつけるための一手にすぎない)
けれど、心のどこかが、静かに反論していた。
──本当にそうか?
あの瞳の奥には、敵意も傲慢さもなかった。
ただ、ひたむきに何かを見極めようとする光──まるで、かつてどこかで見たような。
(……いや。違う。それは、気のせいだ)
自分を惑わすな。
あれはただの女だ。目的のために“使い切る”はずの存在だ。
それでも。
今夜、あの仮面の奥に見えたものが──妙に、胸に残っている。
──勝ったのは、あの女だ。
それを認めたくない自分が、いちばんたちが悪い。