29.選別の目に晒されて
舞踏会の音楽が再び滑らかに流れ出すと同時に、パメラとレオは仮面のままゆるやかに会場を横切った。
何事もなかったかのように談笑を続ける仮面の貴族たち──だが、そこに潜む視線の温度は冷たく、測るようなものへと変わっていた。
会話に交じるのもほどほどに、パメラはひとつ息を吸い、レオに視線だけを送る。
「──今が、頃合いですわね」
「ああ。長居するほど、足をすくわれる」
パメラが軽くグラスを置き、レオも頷いてその隣に立つ。
ふたりは静かに、だが確固たる意志をもって会場を離れた。
エントランスの扉が開き、ふたりが外へ出ようとしたそのとき──。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
甲高い声が背後から響いた。
ふたりが振り返ると、赤いドレスを着たミランダが、ひとりだけ場違いな足取りで追いかけてくる。
肩で息をし、口元をわななかせながら、パメラの背中をにらみつけていた。
「何よ、さっきから偉そうに……っ。あんた、あたしのこと……!」
何かを言いかけたその瞬間、パメラがふと振り返った。
仮面はつけたまま、けれどその目元に宿る光だけで──ミランダの足が、わずかに止まる。
「……ねえ、ミランダ」
パメラは、あくまでも微笑を崩さずに、柔らかく口を開いた。
「たとえばですが、“屋敷の中にある秘密”を誰かに教えたとしますわよね。悪気はなかったとしても──そのせいで“誰かが死ぬかもしれない”としたら、あなたはどうなさいますの?」
「……な、なによそれ。意味わかんない……」
ミランダはむくれたように返すが、その声にはわずかな怯えが交ざり始めていた。
空気の質が変わっていることに、彼女なりに気づいたのだろう。
パメラは微笑のまま、ゆっくりと扇をたたむ。
「お気をつけ遊ばせ。世の中には、“知らないほうがよいこと”が、ございますのよ」
その声は静かだったが、決して軽くはなかった。
ミランダが言葉を返す前に、レオが無言で馬車の扉を開く。
パメラはスカートの裾をつまみ、優雅な所作で乗り込んだ。
冷たい夜気のなか、扉が静かに閉じられる。
馬車が石畳の上をゆっくりと進み出すと、ふたりの間に沈黙が落ちた。
仮面を外したパメラは、胸元にそっと手を添え、わずかに息を吐いた。
「……あの子、気づいていないのでしょうね。自分が誰の首に縄をかけたのか」
レオは隣で腕を組み、前方のカーテン越しに夜の闇を見つめている。
その横顔は、今にも何かを断ち切ろうとしている剣のように、張り詰めていた。
「ああ。けど、気づかれないからって安心はできねぇ。……あの公爵はもう、お前の叔父もお前も“目に留めた”」
「ええ。それに──叔父さまが口を割った可能性も、もう疑えませんわね」
パメラの声音は静かだったが、その指先には力がこもっていた。
「あの春のこと。父と母の死。アシュフォード家の粛清。そして、ヴェステリア公爵」
「お前がその全てに近づいてるって、悟られちまった」
レオの言葉に、馬車の中がしんと静まり返る。
車輪の軋む音だけが、しばらく空気を揺らしていた。
「……悔しいですわ」
ぽつりと、パメラが呟いた。
「証拠も、証言も、不確かなものばかり。あの方と対峙するには、あまりに頼りない。なのに、こちらはすでに疑われる側──動けば狙われ、黙っていても始末される」
「そういう相手だ。……口先じゃ共存共栄を謳いながら、いらねぇ駒は笑って切る」
レオが低く言い放ったその言葉に、パメラは瞳を伏せたまま応じた。
「では、どうしましょうか。レオさま」
問いかけというより、確認だった。
「お前は?」
「……わたくしは、父と母を葬った真実を知りたい。そして、あの春、すべてを失った“誰か”の名誉が回復されるのなら──それを選びたいですわ」
静かに告げたその言葉に、レオの目がわずかに揺れた。
「なら、探るしかねぇな。奴が何を隠したがってるか。どこを消そうとしてるのか」
「わたくし、思い当たる方がひとりだけいますの」
「……マルトン夫人、か」
パメラは頷いた。
「カーソン夫人からの手紙を託された方。──あの方なら、もう少し深く、事情をご存じかもしれません」
「今なら、あいつも警戒してる。正面から探りを入れるのは危ねぇ。けど……マルトン夫人なら、誰に話すべきかを選んでくれる」
レオの言葉に、パメラはほっと小さく微笑んだ。
その笑みはまだ緊張を帯びていたが、仄かに希望の灯がともっていた。
「それに、もしカーソン男爵家が潰された理由に、今と同じ構図があるのだとしたら……」
「鍵は、その過去にあるってことだな」
ふたりは顔を見合わせた。
馬車は夜の街道を、静かに走り続けている。
けれど、その車輪の音が向かう先には──沈黙を破る手がかりが、きっとある。
*◆*――――*◆*
舞踏会の余韻が消えたあと、仮面の館は静まり返っていた。
奥まった書斎の扉が閉じられ、蝋燭の光が長い影を床に落とす。
ヴェステリア公爵は仮面を外し、静かに机に置いた。
その表情に、夜会の柔らかな微笑はもはや残っていない。
銀の縁取りが施されたグラスを傾けながら、静かに言葉が落ちる。
「……余計な声は、時に毒となる」
従者が静かに控えたまま、言葉を待つ。
「ラングリー伯。問いかけには素直だった。差し出すべきものを差し出し、余計なことは言わなかった。……だが」
グラスの液面が、わずかに揺れる。
「問題は、娘だ。招かれてもいない場に現れ、“知らなくていいこと”を知られたことを、そのまま口にした」
視線がゆっくりと宙をなぞる。
「……姪が“何かを探っていた”という事実まで、素直に暴いてくれた。なかなか、よくできた道化だ」
「──ご処置を?」
従者の声は落ち着いていた。
公爵はわずかに笑みを浮かべる。だが、それは情のない仮面のような微笑だった。
「まずは、父のほうだ。あれだけ口を割っておきながら、娘の振る舞いまで見逃していたとなれば──責任は重い」
仮面を指先で転がすように持ち上げる。
「名を汚す必要はない。だが、“沈黙の保証”くらいはしてもらおう。……表からは、静かに消える形でな」
「承知いたしました」
そして──
「姪のほう。……あれは、まだ仮面を被っている。牙を見せていない分、今はまだ使えるかもしれない」
グラスを机に戻すと、カチリと乾いた音が響いた。
「芽吹く前に摘むもよし。……咲かせてから折るのもまた、趣がある」
「……ご判断を仰ぎます」
公爵は静かに頷いた。
「いずれにせよ、見張っておけ。薔薇の香りに毒が混じる前に、剪定の準備は整えておくことだ。そうだな、まずは……」
蝋燭の炎が揺れた。
仮面の下、その目には一切の情がない。