28.仮面の夜に落ちた一滴
「……ずいぶんと、賑やかな幕開けですね」
その声は、あくまでも柔らかかった。
けれど、音楽が途切れそうになった会場の空気を、静かに、そして確実に制した。
階段の上から現れたのは──仮面の頂点に立つ男、ヴェステリア公爵。
深紅の仮面、黒と銀を基調とした礼装。仮面の下からのぞく目元には笑みが浮かんでいたが、そこに温もりはなかった。
彼は、ゆっくりとミランダの前に歩み寄る。
「お嬢さん──」
名を呼ぶことなく、彼は丁寧に口を開いた。
「どうか、少しお声をお控えになって。ここは“選ばれた方々”が静かに語らう場所。ご家族の情愛は、ときに賑やかすぎる余興となってしまいますからね」
やんわりとした声音には、刺すような鋭さはない。
だが、その一言に、誰もが理解した。
この場において、誰が主であるのかを。
ミランダはその意味を理解しきれないまま、唇を尖らせて黙り込む。
「ご無礼を……っ。あの、ミランダはまだ若く──」
ラングリー伯爵が慌てて言葉をつなげようとした瞬間、ヴェステリア公爵が静かに片手を上げる。
「どうか、ご心配なさらずに。ご令嬢がこれほどお父上を慕っておられるとは──微笑ましい限りです。……まさに、良き家風」
微笑を絶やさぬまま、公爵は一礼をしてその場を離れる。
──そのすべてが、完璧な幕引きだった。
舞踏会の空気が、ゆっくりと呼吸を取り戻すように動き始める。
けれど、先ほどまでの和やかな雰囲気とは、どこか違っていた。
仮面の奥で動く視線が、パメラをとらえる。
言葉には出さずとも、その表情はこう語っていた。
──あのラングリー家の娘が、こんな厄介な身内を抱えているとはね。
──お似合いだこと、あの成り上がり男爵と。
「……やっぱり、ああ来るか」
レオが低く呟いた。
「場を仕切るときの型がある。……あれは全部、計算だ」
パメラはそっと視線を巡らせながら、頷いた。
「噂では伺っておりましたけれど……まさか、あれほどとは」
「柔らかく微笑んで、場を凍らせる。あれが──ヴェステリア公爵」
その言葉の響きに、仮面越しであっても、パメラの指先がわずかに強張る。
「……けれど、あくまで今は穏やかに宥めただけ。こちらに明確な怒りは向いておりません」
「今は、な」
レオが短く返す。
「けど、あの目は覚えておいた方がいい。笑ってるようで、一切見逃さねぇ。あいつは……使えるかどうかだけで線を引く」
パメラはグラスを持ち直し、すっと姿勢を整えた。
「それなら、わたくしどもも使えるふりを忘れずにいましょう。──仮面の下で、余計な色を漏らさずに」
そのとき、背後から再び聞こえた甲高い声が、ふたりの会話を遮った。
「なーに澄ました顔してんのよ、あんた」
甲高い声が、絨毯の上をコツコツと響かせながら、無遠慮に近づいてくる。
仮面もなく、礼儀もわきまえず、ワインのグラス片手にふらふらと歩くその姿に、周囲の貴族たちは一斉に視線を逸らした。
関われば火の粉が降りかかると察した者たちは、仮面の下で沈黙を選ぶ。
パメラは、今度こそわずかに眉を動かした。
──また来たのね。
「どうして、あんたがここにいるのよ。こんな場所、あたしのほうがよっぽど似合ってるはずじゃない」
ミランダの口調には、明確な苛立ちと焦燥がにじんでいた。
「ほんのちょっと前まで、地味なボロ服着て、屋敷の隅でおとなしくしてたくせに……。それがなんで、あたしより先にこんなところにいるのよ!」
パメラは、変わらぬ微笑のままグラスを持ち直した。
仮面越しでも冷静なその様子に、ミランダはさらに声を上げる。
「なに? 自分は招待されたから当然って顔? そりゃあ、そうでしょうよ。だって、あんた、あの夜──」
「ミランダ」
パメラが、静かに名前を呼ぶ。
「なによ」
「その話、ここですることではありませんわ。……あなたのためにも」
「ふん、なに言ってんのよ。あたし、知ってるんだから。あの夜、こっそり実家に戻ってきて、お父さまとなにやら話してたこと。使用人たちが言ってたもの。“嫁いだ姪御が突然いらした”って!」
レオの指がグラスの縁で止まり、パメラの呼吸がほんのわずかに浅くなる。
「しかもそのあと、お父さま、使いを立ててたでしょ? “公爵さまにご報告を”って──」
──沈黙が、場を覆った。
誰もが言葉を飲み込み、仮面の下でわずかに呼吸を潜めた。
グラスを傾けかけた手が止まり、踊りの輪が、目に見えぬ鎖に縛られたかのように静止する。
空気そのものが、硬質な膜を張ったようだった。
言葉ひとつ、動きひとつで──この場の均衡が崩れる。
そんな緊張が、仮面の奥から滲み出していた。
ミランダは、まだ自分が何を言ったのか理解していない。
むしろ、自分こそが理不尽な扱いを受けた被害者であると言わんばかりだった。
「なのに、お父さまったら何でもないって。隠そうとするなんておかしいじゃない。あたしだって家の令嬢よ? それなのに、どうしてあんたなんかが──」
「ふむ」
その瞬間、空気を静かに断ち切るような低い声が場を制した。
仮面の貴族たちが、すっと身を引く。
そこにいたのは──ヴェステリア公爵。
いつの間にか、すぐ傍にまで来ていた彼は、仮面越しに穏やかな笑みを浮かべていた。
「まことに……家族というものは、よいものですな。愛が深ければ深いほど、言葉にも熱がこもる」
その一言で、誰もが息を止めた。
公爵はゆっくりと、ミランダに近づいていく。
「男爵夫人。……このように魅力的なご令嬢をお身内にお持ちとは、さぞ誇らしいことでしょう」
パメラは一歩下がり、仮面を傾けて恭しく一礼した。
「恐れ入ります。──家族というものは、ときに思いが強すぎて、周囲を忘れてしまうようですわ」
「そう……まったくもって、よくある話です」
ヴェステリア公爵は、微笑を浮かべたまま、まるで“許した”ような素振りで手を振った。
「娘御。どうか、この美しき夜の記憶が、よき教訓となりますように。……次に薔薇の館へ来られるときは、きちんと招かれてから」
ミランダは、唇を噛んだまま何も言えず、ただうつむいた。
その姿を見届けた公爵は、貴族たちに向かって滑らかに声をかける。
「皆さま、どうかお気になさらず。宴はまだ始まったばかり。どうぞ、今宵のひとときをお楽しみあれ」
再び音楽が滑らかに流れ始めた。
けれど、それは先ほどまでの軽やかさとはどこか違っていた。
仮面の貴族たちは、互いに笑顔を浮かべながらも、どこかぎこちなくグラスを掲げる。
足を運ぶ者たちの動きには、目に見えぬ慎重さが宿っていた。
──まるで、ひび割れた鏡を、割れたことに気づかぬふりで撫でるかのように。
銀薔薇の館は、仮面をつけたまま、偽りの舞踏を続けていた。
仮面の奥に隠された視線が、パメラを──レオを──静かにとらえ始めていた。
ふたりは笑顔のまま輪に溶け込んでいく。
扇を軽く揺らしながら、会話を交わし、微笑で返す。
だが、その内心は、もう“応対”ではなく“備え”に切り替わっていた。
「……叔父さま、持ちますかしらね」
パメラが仮面の奥で、ぽつりと囁いた。
声は穏やかだったが、息の色は薄く、重たい。
「無理だろうな。あいつ、あの公爵の目を見て立っていられるような肝はしてねぇ」
レオの声も低い。
まるで他愛ないことでも囁いているかのように聞こえながら、その実、刃のように研ぎ澄まされていた。
「問い詰められたら……口を割りますわね。あっさりと。あの夜のことも、きっと」
「“なかったことにする”って約束すら、どうせ忘れたふりをするだろう。……自分を守るためなら、あいつは何だって差し出す」
パメラは一度目を伏せ、それからゆっくりと口を開く。
「なら、わたくしたちはもう、時間を失いかけていますのね」
「そうだ。もう猶予はねぇ。何を探っていたかを調べるのは、公爵にとって時間の問題だ」
「しかも、疑われるのは、わたくしたちだけではない。──真実そのものが、追われ始める」
レオがわずかに息を吐いた。
それは吐息というより、腹の奥にしまっていた剣の鞘が軋むような音。
「……引き返すなら、今だぞ」
その声に、パメラは扇を閉じて顔を上げた。
「それは、わたくしが言うべき台詞ですわ。──あなたが“これ以上は危ない”と思っておられるのなら」
レオの口元が動く。けれど、すぐに沈黙が落ちた。
仮面越しに交わされる視線。
それは仮面の奥の、ほんとうの顔を見つめるような沈黙だった。
「……あなたと一緒に来たのですもの。わたくしは、最後までご一緒いたしますわ」
パメラの声はやわらかく、それでも迷いのない調子だった。
「あの春、何があったのか。誰が、父と母を……そして、あなたの家を……」
声がかすかに震える。
「──知りたいんですのよ、どうしても」
レオの表情がわずかに揺れた。
けれど、それはほんの一瞬。すぐにいつもの冷静な顔に戻る。
「なら、腹をくくるしかねぇ。俺たちが先に手を打たねぇと、奴に飲み込まれる」
「はい。……お互い、仮面の奥に刃を忍ばせて、舞い続けましょう」
音楽が再び調子を変え、舞踏の拍が早まっていく。
まるで、この夜会そのものが、ふたりの内側に潜む焦りを映し出すようだった。
──時間がない。
疑念は生まれ、追跡は始まり、そして、真実へと続く扉が──刻一刻と閉じかけている。