27.銀薔薇は仮面の裏で咲く
館の扉が音もなく開くと、冷たい空気とともに、仄かに薔薇の香が漂ってきた。
金の燭台に火が灯され、天井には仮面を象ったシャンデリアが吊るされている。
壁を彩る緋色のタペストリーには、銀の刺繍で交わる薔薇と剣の紋が描かれていた。
音楽が流れている。けれど、どこか張り詰めていて、華やかさのなかに沈黙の圧が潜んでいた。
──ここが、銀薔薇の夕宴。
年に一度、新貴族派によって開かれる、選ばれた者たちの夜会。
建前は旧貴族と新貴族の共存共栄。
しかしその実態は、使える者と使えぬ者を見極め、選別する場にほかならなかった。
パメラは、入り口の鏡で最後に姿を整える。
白い仮面をそっと目元にあて、紐を結ぶ指先には一点の迷いもなかった。
鏡に映るのは、白薔薇を象った仮面の奥で、冷静な光を湛える瞳。
薄紅の唇が、仄かに弧を描く。
「仮面は、整いましたわ」
レオもまた、自らの顔に漆黒の仮面をつけていた。
狼を思わせる鋭い輪郭に、銀の線が静かに光る。
彼がそのまま手を差し出せば、パメラは何のためらいもなくその手をとる。
二人が歩み出すと、会場の空気が僅かに揺れた。
無言で交わされる視線。
仮面の奥に隠された表情は見えずとも、意図と立場は読み合っている。
“成り上がりの男爵”と“旧家の娘”。
今宵、その組み合わせは誰の目にも強烈だった。
──だからこそ、気を抜く暇はない。
銀薔薇をかたどった壁飾りの下、最初の一礼を交わすと、ふたりはゆるやかに場へと溶け込んでいく。
「まずは……挨拶ですわね」
パメラが低く囁くように言った。
「貴婦人の戦いってやつか」
レオが皮肉めいた口調で返すも、足並みは揃えている。
彼は護衛のように振る舞いながら、パメラの切り込みを見守る体勢をとった。
ふたりはまず、近くにいた初老の男爵夫妻へと近づいた。
「ご機嫌麗しゅうございます。──お変わりなくお過ごしのようで、何よりですわ」
パメラの声は、あくまで上品で優雅だった。
「これはこれは……今はアッシュグレイヴ男爵家の奥方でしたね。お噂はかねがね」
初老の婦人が微笑みながら扇をかすかに揺らす。
その一振りに、“あなたがここにいることは知っていた”という暗示がこめられていた。
「お噂といえば……先日、王都の法改正案で、新貴族派の方々がずいぶんと活躍されたとか。ご親戚もご関係で?」
さりげない世間話のように織り込んだパメラの言葉に、男爵婦人の指がわずかに止まった。
「あら、まあ。少しだけ、関わっておりますのよ。うちの甥が──あの方の侍従を務めておりましてね……」
──あの方。
その一言で、パメラは情報をひとつ拾った。
誰とも名を出さずとも、中心がどこにあるか、皆が知っている。
別の会話に切り替え、ふたりは次の輪へと滑るように移った。
今度は若い伯爵令息と、その妹とおぼしき令嬢。
「お初にお目にかかります。お見事な仮面……さすがは王都の方々ですわね」
「いえいえ、こちらこそ。アッシュグレイヴ男爵殿とその奥方がご出席と聞いて、ずいぶん話題になっておりましたよ」
令息の声は柔らかく、だがその目は鋭い。
話題になっていた──それはつまり、試されているということでもある。
「まあ。わたくしどもなど、まだまだ馴染みの浅い身でございますのに……。それでも、ひとつだけ気になっていたことがあって」
パメラが、ほんのわずかだけ声を落とす。
「この銀薔薇の夕宴は、毎回顔ぶれが違うと聞きましたの。……たとえば、どなたが今夜いないのかしら、と」
その言葉に、妹とおぼしき令嬢が、わずかに目を伏せた。
「まあ……それを口にされる方は珍しいわ。……でも、確かに今回は、ご招待が控えられた方もいらしたようですわね」
「控えられた、というのは……」
「……ご判断の早い方がおいでになるのです。何か兆しを見て、使えないと判断すれば、次はございません」
その声音には、明確な警告がこめられていた。
レオがわずかに表情を引き締めるのを感じながら、パメラは静かに一礼する。
「ありがとうございます。わたくし、まだまだ知らぬことばかりですもの」
社交の輪をいくつか抜けた頃、パメラはふと足を止めた。
仮面の奥で、まなじりをわずかに持ち上げる。
──あれは。
重厚な紺の礼装に、獅子をかたどった深緑の仮面。
どれほど仮面で顔を隠そうとも、あの背筋、歩き方、無理に張られた肩の線──忘れるはずがない。
ラングリー伯爵。ミランダの父にして、パメラの叔父。
そして──あの夜、自らの罪を、震える声でこぼした男。
動きに落ち着きがなく、酒のグラスを持つ手もわずかに震えている。
パメラとレオの姿をちらと見た瞬間、彼は明らかにわかるほど目を逸らした。
(……そんなに怯えた顔をなさっては、かえって目立ってしまいますのに)
この場で“何かあった”ような態度を取れば、それこそ“何かあった”と周囲に示してしまう。
それが誰よりも危険な人物──ヴェステリア公爵に届けば、標的になるのは彼だけでは済まない。
「……まずいですわね。あれでは“何かある”と、言っているようなものですわ」
パメラが小さくつぶやく。
「お前があれだけ“なかったこと”にしてやったのにな」
レオが静かに返す。
ふたりの会話は、決して目を合わせずに交わされた。
「ええ。ですから、理由を用意して差し上げなければなりませんわ」
パメラの声は穏やかだったが、仮面の奥の瞳には冷静な光が宿っていた。
ふたりは仮面のまま会場を回り込み、伯父の背後からふわりと近づく。
タイミングを見計らい、パメラがそっと声をかけた。
「叔父さま。……お加減はいかがですの?」
唐突な呼びかけに、叔父の肩がぴくりと震えた。
だがすぐに、無理やり笑みを作って振り向く。
「お、おお……パメラ……いや、アッシュグレイヴ男爵夫人。これは、これは……ご機嫌麗しゅう」
声が上ずっている。
パメラは変わらぬ笑みを浮かべたまま、周囲に聞こえるようなやや通った声で続けた。
「最近、体調を崩されたと耳にしましたの。今夜のご出席も、無理を押してのことと伺っております。……ご無理なさいませんように」
叔父が、かすかに目を見開いた。
その一言が、今夜の様子に対するあらかじめの弁明であることを、即座に理解したのだろう。
そして、その優雅すぎる配慮に、なおさら表情がこわばる。
「……あ、ああ。そうなんだ。ちょっと、風邪をこじらせてな……咳も長引いておって……」
うわずった口調のまま、彼はグラスを置いた。
額にかいた汗を、ハンカチで慌てて拭う。
「叔父さま、それなら……今夜はあまりお話をなさらないほうがよろしいですわ。喉に障りますし、何より──ご自愛なさって」
パメラは、まるで心から気遣う姪のような微笑を浮かべた。
その一言に、ラングリー伯爵の肩から力が抜けるのがわかった。
──逃げ道を与えたのだ。
これで、彼は何も語らなくてよい。語れないのではなく、体調が理由で言葉を控えているのだと、周囲にも印象づけられた。
パメラが一歩引くと、レオも軽く会釈だけして何も言わない。
それが逆に、男爵の無関心を演出していた。
そのままふたりは、その場をすっと離れる。
「……お見事だな」
小声でつぶやいたレオの声に、パメラはほんの少しだけ、笑みの角度を深めた。
「ええ。“黙っている”という演技すら、おじさまには難しいようでしたから」
けれど──。
その言葉の余韻が消える前に、場の空気を裂くような高い声が、会場全体に響き渡った。
「お父さま!」
凛として、しかしあまりにも生々しいその叫びに、会場の音楽がかすかに揺れた気がした。
コツ、コツ、と場にそぐわぬヒールの音が、赤い絨毯を無遠慮に打つ。
誰よりも先にパメラが振り返った。
仮面の奥、目の色が一瞬だけ強くなる。
──ミランダ。
金茶の髪を揺らし、宝石をこれでもかと飾った派手なドレス。
仮面はつけておらず、表情を隠す術も心得もないまま、彼女は会場の中央へと踏み込んできた。
「どうして、わたくしを連れて来てくださらなかったのですか、お父さま!」
ミランダの声が、場の静けさをざらりと裂く。
次の瞬間、空気が重く、鈍く、押し沈んだ。
周囲の仮面が、一斉に視線を送る。
誰もが、言葉を飲み込んでいる。
この場に“招かれていない”者がいること──それだけで、舞踏会の均衡は崩れはじめる。
叔父は動けなかった。
すでに恐れを帯びていた彼の足下が、ミランダの声によって完全に凍りついたのだ。
「ミランダ……っ」
パメラが前に出ようとしたその瞬間、もうひとつの声が場を制した。
「ふむ……」
低く、柔らかく──けれど誰よりも響く声。
静かに、そして必然のように。
館の奥、天井近くから吊るされた仮面のシャンデリアの下──階段の影から、ひとりの男が現れた。
まるで、この混乱すら最初から知っていたかのような、ゆるやかな足取りで。
──ヴェステリア公爵。
銀薔薇の夕宴、その頂点に立つ者が、ゆっくりと舞台の中央へと歩み出してきた。