26.その手に仮面を、胸に真実を
それは、昼下がりのことだった。
使用人がノックを控えめに鳴らし、レオの書斎にひとつの封筒を差し出した。
漆黒の上質な紙に、銀の封蝋──中心には一輪の薔薇が浮き彫りにされている。
レオはそれを受け取った瞬間、小さく息を吐いた。
「来たか」
ぽつりとこぼした言葉に、背筋がすっと伸びる気配があった。
パメラが隣に立ち、封筒をそっと覗き込む。
「銀薔薇ですのね」
「間違いねぇ。年に一度の、あいつらが気取る共存の舞台……今回は逃げ道なしだな」
レオは封を割り、中の羊皮紙を取り出す。動作は慎重だった。
そこに記されていたのは、簡潔な文面だった。
《男爵レオ・アッシュグレイヴ殿
銀薔薇の夕宴へのご招待を申し上げます。
選ばれし者としての一夜に、是非の返答は要しません。
仮面をご持参のうえ、当夜のご参列をお待ち申し上げております。》
「……“返答は要しません”、ですって?」
パメラが読み上げる声に、かすかに皮肉がにじんだ。
「前回は、“独り身ゆえ”って理由で断れた。あいつらにしてみりゃ、まだ仕上がってないと思ってたんだろう」
レオは苦笑交じりに肩をすくめた。
「だが今回は違う。爵位を得て、ラングリー家の娘を娶り、舞台も整った。“準備は済んだろう?”ってな」
「つまり……今回は、逃げる選択肢は残されていない」
「そういうことだ。行かなきゃ、従順じゃないと見なされる。使えねぇってレッテルを貼られる」
レオの声には、低く抑えた棘があった。
「仮面舞踏の建前なんて、最初から飾りにすぎねぇ。誰が誰かなんて、みんなわかってる。共存を演出するための小道具さ」
パメラは封筒の縁をそっとなぞりながら、微笑を浮かべた。
「それなら、わたくしたちも使いましょう。その小道具を。仮面という名の剣として」
「剣か……ふさわしいな」
レオの瞳に、わずかに光が宿る。
その夜、ふたりは並んで衣装室を訪れた。
壁には幾つもの箱が積まれ、職人から取り寄せたばかりの仮面が並んでいる。
金細工に漆を施したもの、羽飾りをあしらった華やかなもの、白磁のように滑らかな質感のもの──どれも美しく仕立てられているが、何ひとつとして軽い遊びでは済まない空気をまとっていた。
「仮面なんて、こうして見ると滑稽だな」
レオが棚のひとつに手を伸ばしながら、ぼそりと呟いた。
「誰が誰かわかってるくせに、わざわざ顔を隠す。……それでいて、見せたい自分を選ぶんだから、まるで中身を飾るための飾りだ」
「ええ。でも……何を飾るかは、自分で選べますわ」
パメラは数ある仮面の中から、ひとつの白い仮面を手に取った。
すっと伸びた流線型の輪郭。目元には極細の銀糸が織り込まれ、右の頬には白薔薇を象ったレリーフが添えられている。
控えめながら、どこか芯の通った美しさを湛えたそれは、まるで彼女の佇まいそのものだった。
「白薔薇、か」
レオが仮面を眺めながら呟いた。
「派手じゃねぇが、目を引く。……いかにも、お前らしいな」
「そう思っていただけるのなら、うれしゅうございます。薔薇には品がありますもの」
パメラは何気ない調子で仮面を目元にあて、鏡に向かってそっと首を傾けた。
その仕草には、誰にも真似できない気品と、どこか遠い含みがあった。
「見えなくなるのは、ほんの少しの表情だけですわ。大切なことは……仮面の奥に、ちゃんとありますもの」
「……そういうとこだよな、お前は」
レオが、皮肉とも賞賛ともつかぬ声で笑った。
「……じゃあ、俺はこれにするか」
彼が選んだのは、漆黒の革に銀を走らせた、鋭い輪郭の仮面だった。
片方の目元がやや鋭角に切り上がり、狼の面影を思わせる意匠。どこか、ひとを威圧するような鋭さがあった。
「誰もが仮面をかぶる宴なんだ。だったら、牙も少しは覗かせたほうが面白ぇだろ」
パメラは、仮面を掲げたレオを見上げて、わずかに笑みを浮かべた。
「……そうなりますと、わたくしは狼にさらわれた薔薇ですわね」
レオの口元がわずかに動く。
「……そのわりに、妙に堂々としてる薔薇だな」
「咲いてしまったものは、もう元には戻れませんもの。せめて枯れるまでは、美しく振る舞いたいのです」
その静かな言葉に、レオは何も言わずに仮面を手の内に収めた。
朝の空気はまだひんやりとしていた。
屋敷の前に黒塗りの馬車が用意され、従者たちが無言で見送りの列をなしている。
石畳の上に馬の蹄の音が響き、空には薄雲がかかっていた。
レオとパメラは並んで玄関から姿を現した。
ふたりともまだ仮面はつけていないが、手には昨夜選んだ仮面が収められた箱をそれぞれ抱えている。
「お支度、整いました」
リリィが深く一礼し、馬車の扉を開ける。その隣に立つ案内役の従者が恭しく頭を垂れた。
「男爵様、奥方様。“銀薔薇の夕宴”へのご案内にあがりました。ご出発のご準備、いかがいたしましょうか」
「問題ない」
レオが短く返し、馬車に乗り込む。
差し出されたその手に、パメラは静かに自分の手を重ね、裾を持ち上げて続く。その所作は優雅で、どこにも迷いの影はなかった。
馬車が動き出し、ゆっくりと領地の屋敷をあとにする。
「いよいよですわね」
パメラがふとつぶやいた。
窓の外には朝靄の名残を抱いた森が続き、先の見えぬ街道が伸びている。
「王都までは一日がかりだ。会場はその近郊、貴族の離宮らしい」
レオが馬車の揺れに身を預けながら、淡々と口にする。
「招待状には詳しい場所が書かれていませんでしたのに……ずいぶんと情報通でいらっしゃるのですね」
パメラが微笑みながら、手元の仮面を軽く指先で撫でた。
「何人か、知っていそうな顔ぶれがいたからな。念のため、確かめておいた」
「さすがですわ。……わたくしなど、ただの噂話で想像しているばかりですもの」
その口ぶりは控えめながら、仄かな含みをもたせていた。
「見せつけるには最適な場所──そういう噂、確かに耳にしましたわ」
レオは小さく笑った。
「お前の噂話は、妙に信ぴょう性がある」
「偶然、耳に入っただけですのに。不思議ですわね」
ふたりは互いの顔を見ず、ただ仮面に目を落としたまま、穏やかに言葉を交わす。
「……怖くは、ありませんか?」
パメラの問いかけは、声も表情も変わらず、まるで天気でも尋ねるかのようだった。
レオは腕を組んだまま窓の外を見ていたが、やがてぽつりと答えた。
「少しはな。相手は全員、笑いながら腹の中を探ってくるような連中だ。……仮面の下の顔まで、じっくり覗かれる気がする」
「でも、覗かれるのなら、こちらも美しく整えておきませんと。せっかくの舞踏会ですもの」
パメラは淡く微笑んだ。
「……やっぱりお前は怖い」
「まぁ。そう思われるのは、少し心外ですわね」
レオは口元をわずかに緩めた。
「何があっても、離れるな」
「ええ。けれど、仮に離れたとしても──見失われませんように。目立つように、よく磨いてまいりましたの」
馬車のなかに、柔らかく笑いが満ちる。
道中、ふたりは時折言葉を交わしながら、仮面を手にしては指先でなぞるようにしていた。
日が傾きはじめた頃、馬車が止まった。
窓の外に広がるのは、森の奥に忽然と現れた白亜の建物。陽の光が最後の輝きを落とし、高い窓に灯された明かりが、離宮全体を淡く金に染めている。
階段の前に立つ仮面の従者が、ふたりの到着を迎えて深く一礼した。
「男爵レオ・アッシュグレイヴさま、奥方さま。ようこそお越しくださいました。選ばれし者の夜会へ──」
レオが無言で手を差し出す。
パメラはその手をとり、裾を整えて階段を上った。
足元に薔薇の花弁が数枚、風に舞っていた。
仮面はまだつけていない。
けれど、その足取りも眼差しも、すでに舞台の一歩手前にあった。
ここは、仮面が踊り、言葉が刃となる舞台。
パメラとレオの一夜が、今、静かに始まろうとしていた。