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24.かつての棘、いまは灯となりて

 応接室の扉が静かに開け放たれた。

 中ではすでに、マルトン夫人がひとり椅子に腰を下ろしている。

 変わらず豪奢な装飾を身にまとい、つま先まできっちりと磨かれた姿。

 だが、背筋を伸ばすその姿には、どこか誇りと張り詰めた意地のようなものが滲んでいる。


 レオとパメラが連れ立って入室すると、夫人はちらりと視線を向け、鼻を鳴らした。


「わざわざ、わたくしをお呼びつけになるなんて──奥方さまも、ずいぶんご立派になられたものですこと」


 開口一番のその言葉に、レオがぴくりと眉を動かす。

 だが、パメラは微笑を崩すことなく、丁寧に一礼した。


「お忙しい中、すぐにお運びいただけて、恐縮しておりますわ。……お手紙を出したばかりでしたのに」


「ふん。どうせ暇を持て余しているだろうと、思われたのかしら?」


 そう言いながらも、夫人は用意されたカップに手を添える。

 その所作には、律儀さと負けず嫌いが同居していた。


 レオも控えめに頭を下げて挨拶を返す。


「遠いところを、わざわざ」


「まったくよ。野良犬が飼い主に尻尾を振って、立派な犬小屋に住まわせてもらったと思ったら……今度は番まで宛がわれたんですってね」


 レオの口元がわずかに引きつったが、言い返すことはなかった。

 マルトン夫人の“飼い主”という表現が、誰を指しているかは言うまでもない。

 その空気の中、パメラが軽くスカートを整えて、ひと呼吸置く。


「……では、失礼して」


 静かに腰を下ろすと、レオもそれに倣い、パメラの隣へと座った。

 二人の動きに、どこか呼吸の揃った一体感があった。


「……あの折は、お立ち寄りいただきありがとうございました。おくつろぎいただけましたかしら?」


 柔らかな声音でそう告げるパメラに、マルトン夫人の眉がわずかに動いた。


「あら、まあ……随分と丁寧なお礼ですこと」


 夫人はカップを取り上げ、口元に運びながら視線だけをパメラに向ける。


「そうね、あのときは、“どこのどなたかしら”と思いましたけれど……その後、社交界で耳にしましたの。ラングリー家の娘、ですって?」


 パメラはうっすらと笑みを浮かべる。


「ご存じでしたのね」


「ええ。“売られてきた”と聞きましたわ。まあ、大変だったことでしょう」


 口ぶりは柔らかだったが、確かに“揶揄”の棘があった。


「ええ。本当に、大変でございましたわ」


 しかしパメラは、その言葉をまるで“事実”のようにさらりと受け流す。

 その瞬間、夫人の視線がわずかに揺れた。


「でも、こうして今は居場所を与えていただき、日々を穏やかに過ごしておりますの。屋敷も、とても居心地が良くなりました」


「……ふん。調子の良いこと」


 マルトン夫人はふいにソーサーの上のカップに手を伸ばし、紅茶に口をつけた。

 それ以上の皮肉は、なぜか続かなかった。


 パメラは、カップの縁に指を添えたまま、ふと視線を落とす。


「夫人は、以前この屋敷の持ち主であったカーソン男爵家と、親しくされていたと伺いましたわ」


 マルトン夫人の指が、ほんのわずかに止まる。


「……まあ、古い付き合いでしたから。ご当主の父君の代から、ね」


 表情に変化はなかったが、声の調子がわずかに低くなる。


「今ではもう、あの名を口にする者も少なくなりましたけれど……」


「けれど、それだけのご家門が、なぜ急に取り潰しの憂き目に遭ったのか──わたくし、ずっと気になっておりまして」


 パメラは、やわらかな声音のまま、夫人の目をまっすぐに見つめた。


「もちろん、軽々しく噂話を広めるつもりはございません。ただ、事実として……何が起きたのかを知っておきたいのです」


 マルトン夫人はカップをソーサーに戻し、しばし沈黙する。


「……口に出すべきことかしらね、これは」


 そう呟いたが、その声はむしろ“語りたい”という思いの裏返しのように響いた。


「経済の乱れ、支援先の選定ミス、古い制度の温存──言われている理由はそれなりにありまのよ。取り潰しに正当性があったと、建前では」


 夫人は一度目を伏せ、それからやや投げやりな口調で続けた。


「けれど──あの当主は愚直な男でした。時代には合わなかったけれど、民を顧みずに贅を尽くすような者ではなかった。少なくとも、誇りはあったのよ」


「誇り、ですのね」


 パメラの声に、夫人はほんのわずかに目を細めた。


「ええ。それが時代に合わなかったのかもしれませんわ。効率だの変革だのを掲げる連中にとっては、ああいう人間は邪魔だったのでしょう」


 レオの横顔が、わずかに険しさを帯びた。


「つまり、狙い撃ちにされた……?」


 マルトン夫人は首を振らなかったが、肯定もせずにそっとカップに目を落とした。


「私には分かりません。ただ──決定があまりにも早すぎた。それだけは、今でも腑に落ちていないのです」


「……何か、きっかけのような出来事でもあったのかしら?」


 パメラが問いかけると、マルトン夫人は少し考える素振りを見せ、それからぽつりとこぼした。


「……ええ。ご当主が、新貴族派の集まりに顔を出すようになったのです」


「新貴族派に?」


 パメラが思わず声を漏らす。マルトン夫人はうなずきながら、カップを指先で回した。


「守るためだったのでしょう。家を、領地を、人を……彼なりに。あの方は不器用でしたから、うまく立ち回れなかった。けれど、信念だけは、決して捨てなかった」


「……それが、裏目に出たのね」


「ええ。結局、ご当主は心労がたたって倒れ、そのまま病で……」


 そこで夫人は、言葉を切る。パメラが胸元に手を添えると、マルトン夫人は続けた。


「夫人は、屋敷を追われました。かつての友人たちも助ける余裕がなく……修道院に身を寄せましたが、ほどなくして──亡くなりました」


 静かな声だったが、その一言には重く鋭いものがあった。


「そんな末路……」


 思わずもらしたパメラに、レオが低く呟く。


「……救いがなさすぎるな」


 その声音には、普段の荒々しさが影を潜めていた。マルトン夫人は、ちらりとレオを見やる。


「あなた、そういうふうに語るのね。……意外ですわ」


「野良犬でもな、礼儀くらいは叩き込まれて育った」


 レオはわざと不遜に言い放ったが、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ翳りが走った。

 パメラにはわかった。


(……重ねているのですね。カーソン家の末路と)


 己の誇りを守りきれず、無念のうちに潰された家族。

 それは、レオにとって決して他人事ではない。

 己の生まれた家──アシュフォード侯爵家の、あの春を、きっと思い出している。


(……どんな泥にまみれようと、仇を討つためなら、すべてを呑み込んで──それが、レオさまの生き方だったのですね)


 パメラは、そっとカップを持ち直した。

 目の前の男の静かな苦悩に、胸の奥でそっと手を伸ばすような思いを抱きながら。


「──わたくしには、まだあなた方が信じられるとは言い切れませんのよ」


 声には、迷いと、そしてほんのわずかな苦みが滲んでいた。


「旧きものを信じる者として、ラングリー家の娘にほんの少しの好意はあります。けれど、あなたたちはヴェステリア公爵が与えた屋敷に住まう者。そして、今も彼の庇護を受けているように見える」


「俺たちが誰の手の者か、って話だな」


 レオは低く、しかし真っ直ぐに言い切った。


「……疑われるのは当然だ。だが、それでも知りてぇんだよ。ここに何があって、何が葬られたのか。カーソン家がどうして潰されたのかを」


 その声音には、いつものような飾り気のなさと、どこかに静かな怒りのような響きがあった。


「マルトン夫人。わたくしたちは、公爵の思惑に踊らされていたとしたら──それを断ち切る覚悟があります」


 パメラが、まっすぐに夫人を見つめる。


「ですから……どうか、わたくしたちに、真実を辿る機会をいただけませんか?」


 マルトン夫人は、視線をパメラからレオへと移し、そしてまたパメラに戻した。


「……カーソン夫人は、屋敷を出る直前に、わたくしに手紙を寄越されました」


 マルトン夫人はゆっくりと指先を重ねる。


「当たり障りのない文面でしたけれど──最後にこう書いていました。“この家が、信じるに足る者の手に渡ることを祈っています”と」


 息を吐き、夫人は立ち上がる。


 「今はまだ、足るかどうかの答えは出ておりません。けれど──希望くらいは、持っても罰は当たらないでしょうね」


 そう言って、マルトン夫人はゆっくりと扉のほうへと向きかけ──ふと、足を止めた。


「……北棟の西側に、使われていない扉がひとつ、あると聞いておりますわ」


 そのまま、振り返らずに続ける。


「誰も鍵を持たず、扉の先には何があるのかも分からないと。わたくしも先代の夫人から一度だけ聞いただけの場所」


 そして、彼女は一拍置いて言った。


「ま、ただの物置かもしれませんけれど。お好きに、どうぞ」

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