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23.真実に手を伸ばす時

 まぶたを開けると、すでに日は高く昇っていた。

 カーテン越しに揺れる光が、ゆっくりと寝台に伸びてくる。


 どこか遠くで、鳥の声が聞こえた。

 それは夏の午後に似つかわしい、のどかで穏やかな音だった。


「……あら」


 パメラは静かに身を起こし、寝台の端に手をついた。

 体の芯が、思ったよりも軽い。眠ることで、ようやく全身のこわばりが解けたのだと実感する。


 扉がそっと開き、侍女のリリィが控えめに顔を出した。


「お目覚めですか。お加減は……?」


「ええ、大丈夫ですわ。少し寝すぎてしまいましたわね」


 パメラは微笑み、差し出されたお茶を受け取った。

 香ばしい香りが、覚めきらない思考にやわらかく染み込んでいく。


「旦那さまがお呼びです。下の書斎にて、お待ちとのことです」


「……そう。ありがとう、リリィ」


 身支度を整え、部屋を出る。

 屋敷の中には、いつもの静けさが戻っていた。


 書斎の扉を開けると、レオは机に肘をつき、考え込むようにして視線を落としていた。


「お待たせいたしました、レオさま」


 顔を上げた彼は、どこか思い詰めたような表情をしていた。

 だがパメラの姿を見ると、その目元がわずかに和らぐ。


「よく眠れたか」


「ええ。ぐっすりと」


 そう答えたとき、パメラの胸には確かな自信が宿っていた。

 眠りは、ただの休息ではなかった。再び前を向くための、助走だった。


 レオはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟く。


「……あの男、やっぱり怪しい」


「ヴェステリア公爵、ですわね?」


 パメラがやわらかく問いかけると、レオは頷いたものの、どこか迷いの色を残している。


「……あの人に利用されてるのは、最初から分かってた。俺は“旗”だ。新貴族派の理念を示すためのな」


 レオはテーブルの縁に指をかけながら、低く続ける。


「でも、それでいいと思ってた。結果を出せば、領地も爵位も得られる。公爵は厳しいが、見返りはきっちりよこす。そういう意味では、信頼してた」


 パメラは黙って耳を傾けていた。


「……ただ、考えてみれば、冷酷さも知ってたはずなんだ」


 ぽつりと漏れたその声に、彼の迷いがにじんでいた。


「躊躇も容赦もない。そういう場面、何度か見てる。だけど──」


 レオは目を伏せ、拳をゆるく握った。


「自分に“益”をくれる相手のことを、疑うのが怖かったんだろう。下手に疑えば、すべてが崩れる気がして。……無意識のうちに、目をそらしてた」


 静かな告白だった。

 言い訳でも自己弁護でもない。

 ただ、事実を受け入れようとする男の、誠実な言葉だった。


「公爵には、俺のことは“隣国の没落貴族の出”だと伝えていた。実際に母方の親戚がそっちにいるから、嘘ってほどでもねぇが……」


 パメラは少し驚いたように目を見開き、すぐに静かな微笑みに変える。


「……やっぱり、隠しきれないと、お思いでしたのね?」


「……ああ。仕草も、言葉も、染みついたもんはそう簡単には抜けない。だったら、嘘の中に少し本当を交ぜた方が通りやすいと思った」


「その判断、間違っていなかったのでしょうね。少なくとも、あの方は疑うどころか、都合のいい人物と判断したのでしょうから」


 レオは皮肉げに鼻を鳴らした。


「まったく、ろくでもねぇ眼力だ」


 レオの苦笑まじりの呟きに、パメラはふっと唇を緩めた。


「それでも、ヴェステリア公爵があなたを使える駒だと判断してくださったおかげで、私たちはこうしてこの屋敷にいるのですわ。……皮肉ですけれど」


「俺は“旗”だ。それは最初から分かってた。新貴族派の理念を体現する成功例──そういう立場をあいつは求めてた」


 レオは腕を組み、淡々と続ける。


「……俺は、復讐のために爵位を取った」


 そう告げたレオの声音には、濁りのない決意があった。


「ラングリー家が、アシュフォード侯爵家を密告した──ずっとそう思ってた。だから、あの家の娘を娶って、貴族としての立場から叩き潰すつもりだった」


 パメラは黙ってその言葉を受け止める。


「そのために、領地も爵位も手に入れた。必要な手順だった。……あの公爵に目をかけられることすら、利用するつもりでいた」


 けれど、とレオは目を伏せた。


「まさか、本当に潰したい相手が“そいつ”だったとはな。……恩人だと思ってた。けど、全部あいつが仕組んでたんだ」


 レオは拳をゆるく握り、低く呟く。


 パメラは、彼の横顔に確かな痛みを見る。

 どれほど冷徹にふるまうよう努めてきたとしても、胸の内では、裏切られる痛みを拒みたかったのだろう。

 たとえ憎しみを向けるべき相手と知っていても──自分が信じてしまった時間ごと否定するのは、どれほど苦しかったか。


(……レオさま)


 パメラは静かに目を伏せ、彼の苦悩を、そっと胸に受け止めた。


「……けど、それでも。目を背けてはいけないんだよな」


 絞り出すような声だった。

 パメラは胸の痛みを覚えながらも、彼の決意に寄り添うように口を開く。


「……アシュフォード侯爵家を“反逆者”に仕立てたのも、父上と兄君を処刑に追いやったのも──ヴェステリア公爵だった、ということですのね」


 レオは黙って頷いた。


「……そう。お前の両親も、同じように“消された”。あの男の手で」


「なるほど……やはり、そういうことでしたのね」


 パメラはふっと笑みを浮かべたが、その瞳は笑っていなかった。


「ずっと、知りたいと思っていたのです。父と母がなぜ、あのときに……どんな意図で、命を絶たれたのか」


 レオがわずかに眉を動かす。

 パメラは続ける。


「実のところ、わたくしの目的も“真実を知ること”でしたの」


「……目的?」


「あの屋敷での暮らしも、周囲の視線も、すべてそのために必要な環境だと割り切っておりました。遠回りでも、何かしらの痕跡を見つけられると信じて」


 淡々と語られる言葉の一つ一つに、芯の強さが宿っていた。


「ようやく、少し腑に落ちましたわ。父と母の死が、偶然ではなかった理由が」


 レオはわずかに顔をしかめ、低く呟く。


「……すまなかった。お前を、仇の娘だと思って……利用するつもりで、娶った」


 その声には怒りも憐れみもない。ただ、自分自身を悔いる重さがあった。

 パメラはゆっくりとカップを置き、首を横に振る。


「いいえ。それだけ本気だったということです」


「それに──結果として、わたくしも“この立場”を利用させていただいたのですもの。“使われた”とは思っておりませんわ」


 言葉に含まれる冷静な優しさと、明確な意思。

 それは仮面ではない、パメラ自身の声だった。


「今はただ──同じ敵を見て、同じ場所へ進む。それだけですわ」


 その言葉に、レオは何かを確かめるように彼女を見つめた。

 数秒の沈黙ののち、静かに頷く。


「……一緒にやるぞ。全部、暴いてやる」


(この手を取ることは、ただの共闘ではない。──運命そのものを、共に背負うこと)


 そう心に刻みながら、パメラはレオに向かって静かに頷く。

 言葉以上に確かなものが、今ふたりの間に結ばれた気がした。


 扉の外から、控えめなノックが響いた。


「失礼いたします。マルトン夫人がお見えです」


 その名を聞いた瞬間、レオが露骨に顔をしかめた。


「……またか。こんなときに何しに来やがった、あのババァ」


 吐き捨てるような声。低く抑えられていたが、明らかな敵意が滲んでいる。

 パメラはカップを口元に運びながら、そっと目を伏せた。


 旧貴族派に属してはいるが、すでに勢力を削がれつつある古株──マルトン夫人。

 この屋敷の前の持ち主、カーソン男爵家と懇意だったこともあり、未だに“格式”の名を盾にした社交を好んでいる。

 だが、その背には、かつてこの国の秩序を支えた者たちに共通する、簡単には折れない矜持が滲んでいた。

 侮れば踏み越えてくるかもしれない。──そんな本能的な警戒を、自然と抱かせる相手だ。


 パメラがこの家に嫁いできたばかりの頃、レオが外出しているすきに、ふらりと屋敷を訪れたことがあった。

 そのとき、陽の間に通された彼女は、飾り気のない茶器に鼻を鳴らし、パメラの控えめなドレスに遠回しな皮肉を飛ばしてきた。


 だが、パメラはただ静かに笑い、淡々とした言葉で応じる。

 結果、口では上回っていたはずの夫人が、どこか敗北したように馬車へと乗り込んでいったあの日──。


 レオは帰ってきてすぐ、門を出ていくその姿を目にし、ひどく訝しんでいた。

 その記憶がよみがえったのだろう、彼は吐息交じりに言い放った。


「追い返せ」


 その言葉を、パメラはやんわりと手を上げて制した。


「お待ちくださいませ。……わたくしがお呼びしましたの」


「……は?」


 レオの眉が跳ね上がった。


「何のつもりだ」


「カーソン男爵家の件について、少し話を伺いたいのです。夫人はその家と長く親交があったと耳にしておりますから」


 レオはしばし黙り込む。やがて、苦々しい声で呟いた。


「また“格式”だの“誇り”だの、うるさく言ってくるぞ。あの女が機嫌よく帰る姿なんて、想像もつかねぇ」


 パメラは微笑を崩さず、静かに席を立った。


「ええ。ですから、今度も機嫌よくはお帰りにならないかもしれません」


 その声音に、どこか含みがあった。

 レオは腕を組んでパメラを見やり、苦笑まじりに呟く。


「……敵に回さなくてよかった」


 レオの苦笑まじりの呟きに、パメラはふっと微笑んだ。


「そうおっしゃるなら、どうか最後まで──味方でいてくださいませね?」


 声音は柔らかかったが、その奥にあるものは、決して軽くはなかった。


 レオは少しだけ目を細めた。

 何も言わずとも、彼女の言葉の意味は十分に伝わっているようだ。


 そして、無言のまま立ち上がったパメラは、スカートの裾を整える。


「──では、応接室へ参りましょう。お待たせしては失礼ですもの」


 淡く香る紅茶の余韻が、ふたりの間にひとときの静けさを残していた。

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