20.あなたが名前を呼ぶ夜
夜が更けても、部屋の外に変化はなかった。
扉の前には見張りの気配。窓には格子。どこにも逃げ道はない。
パメラは寝台に腰掛け、薄暗い室内を見つめていた。
──まだ何もされていない。だが、それがかえって不気味だった。
叔父は迷っているのだ。自分をどう扱うか決めかねている。
けれど、もし黒幕から“始末しろ”と命じられたら……。
そんな考えが脳裏をよぎるたびに、喉の奥が冷たく締めつけられるようだった。
それでも、表情は崩さない。崩してしまえば、終わる気がしたから。
廊下で足音が止まる。誰かが立ち止まった気配がある。
その次の瞬間、怒声が響いた。
「妻を出せ! どこに閉じ込めた!」
低く、太い声だった。
はっと息をのむ。
──レオ。
名前が浮かんだ瞬間、胸の奥が熱を帯びて跳ねた。
来てくれた──その事実だけで、張り詰めていた心が、ほんの少し緩んだ。
けれど、この扉の向こうにいる限り、彼の手は届かない。
パメラは起き上がり、寝台の脚を蹴って重たい音を鳴らす。ついでに椅子を倒し、わざとらしいほどに騒ぎを起こした。
廊下の気配が一瞬跳ねた。
「……パメラ!」
鋭い声が、扉の向こうから響く。
──パメラ。
初めて名前を呼ばれた。その一語に、胸の奥が熱く揺れた。
扉が強く揺れ、軋む音を立てる。
「……鍵が、かかってるのか。なら──」
数秒後、重い衝撃音とともに、蝶番の軋む音が鳴り響いた。
扉が跳ね上がり、勢いよく開かれる。
舞い込んだ冷たい夜気の中、外套を翻しながらレオが立っていた。肩で息をし、鋭い眼差しで部屋の中を見据えている。
その姿を見た瞬間、張り詰めていたものが音を立てて崩れた。
足元がふっと浮くような感覚。胸がきゅう、と痛んだ。
何か言おうとして、言葉が出ない。
レオがすぐに歩み寄り、じっとこちらを見つめた。
「……震えてるじゃねえか」
低く、驚いたような声で言われて初めて、自分の手がかすかに震えていることに気がついた。
意識したとたん、震えが止まらなくなる。
パメラは戸惑い、胸元で手を重ねた。だが、それをレオがそっと包むように取った。
「もう大丈夫だ、パメラ」
そう言って、彼の腕が優しく背中に回される。
ひんやりとした外套の感触に触れた瞬間、心の奥底に沈んでいた恐怖がふっと溶けていく。
──来てくれた。
その安心に、じんわりと涙がにじんだ。
低く囁かれた声は、あまりに優しかった。堪えていた涙が、喉の奥までこみ上げる。
パメラはそっと目を閉じ、レオの胸元に額を預けた。
「……迎えに来てくださって、ありがとうございます」
「遅くなった」
短く返されたその言葉だけで、すべてが報われるような気がした。
「初めて、名前を呼んでくださいましたわね」
「……そうだったか?」
気まずそうなレオの声に、ふっと力が抜けるようだった。
彼の胸に顔をうずめたまま、口元が自然と緩む。
しかし、二人だけの時間はあっけなく終わりと告げた。
物音に気づいて、数人の使用人が廊下に駆け寄ってくる。やや遅れて、叔父も現れた。
「な、なんだねこれは……いや、これはその、急な──」
うろたえる声を、パメラが遮った。
「ふふ。ごめんなさい、わたくしが黙って出てきたものですから。夫が心配して迎えに来たのですの。ちょっと焦って、粗相をしてしまったようで」
唇に微笑を浮かべ、肩をすくめてみせる。
「お詫びに、夫も改めてご挨拶をと思いますわ。──場所を移しましょう?」
何食わぬ顔で仮面をかぶり直すと、レオは何かを察したらしく、無言で頷いた。
「あ、ああ……」
叔父も断る隙を見出せず、三人はそのまま応接室へと歩を進める。
応接室へと移動した三人は、それぞれの席についた。
叔父は落ち着かない様子で椅子に座り、視線を泳がせている。
そんな中、レオが口を開いた。
「……使いの者なら、目的地にはたどり着けない。俺が途中で捕まえたからな」
何気ないように言ったその一言に、叔父の肩がびくりと跳ねた。
パメラもまた、一瞬だけ目を伏せ──すぐに、すべてを理解した。
(……“何かを嗅ぎつけた”という知らせは、届いていない。今なら……)
その判断が、即座に行動へと結びつく。
カップに視線を落としたまま、静かに言葉を紡いだ。
「叔父さま。今日のことは、“なかった”ことにいたしましょう」
柔らかく、けれど逃げ道を塞ぐような声音だった。
「わたくしが黙って出て行き、夫が心配して迎えに来た──。それだけの話で、よろしいですわね?」
叔父は口を開きかけたが、何も言えず、ただ汗ばむ額をぬぐうばかりだった。
パメラはゆっくりとカップを置き、顔を上げる。
「……このままでは困りますの」
視線がまっすぐに叔父を射抜く。
「わたくしが“何かを嗅ぎつけた”と、あの方に知られれば──狙われるのは、わたくしだけではございません」
声の調子は穏やかだったが、その奥に潜む冷たさが室内の空気を凍らせる。
「おじさまこそ、都合よく“処分”されるのではなくて?」
「お、おまえ……なにを……」
叔父は焦りながらも、どこか納得しているようでもあった。
それだけ冷酷な相手だとは、わかっているのだろう。
「どなたの指示かは伺いません。でも、一つだけ、教えていただけませんか」
静かに問いを重ねる。
「──父と母を葬ったのは、叔父さまですか?」
叔父の顔色が見る間に青ざめる。
「ち、違う……違うとも……。わたしはただ……あの方の言う通りに……!」
震える声での弁明は、説得力のかけらもなかった。
パメラは微笑みを浮かべたまま、目を伏せて息を吐いた。
(──やはり、この人だったのですね)
たしかに、叔父には直接手を下すような度胸はなかっただろう。
けれど、兄夫婦の死を招いたのが彼であったことは、もはや疑いようがなかった。
「……わかりました。今は、それ以上はお尋ねいたしません」
ゆるやかに顔を上げて、言葉を紡ぐ。
「お互いに、“何も知らなかった”。“何も起こらなかった”。──そういうことで、よろしいですわね?」
「……お、おう……。そうだな……」
ようやく絞り出すように返された言葉は、震えていた。
「ああ、そうそう。扉は壊しちまったからな」
そのとき、レオが懐から小袋を取り出し、無造作に卓上へ放る。
中からは、金貨が転がるような音がした。
「貴族さまの屋敷じゃ安物は使わねぇだろ。足しにでもしてくれや」
ぞんざいな口調に、鼻で笑うような皮肉が滲んでいた。
パメラは立ち上がり、スカートの裾を整えながら振り返った。
「それでは、おじさま。今夜のことは──どうか、お忘れくださいませね」
レオがその手を取る。
何も言わずに並んで歩く二人の背を、叔父は追うこともできず、ただ唇を噛んで立ち尽くしていた。




