02.歓迎なき結婚のはじまり
馬車は、舗装の甘い道を不規則に揺れていた。
カーテンの影が揺れるたびに、馬車の狭さが胸に迫る。
ポケットの中のひんやりとした願い石だけが、唯一の持ち物だった。
「もうすぐ、見えてくる頃かしら」
誰に聞かせるでもなく、そっと呟く。
もちろん返事はない。この馬車にはパメラ一人きりだった。
結婚の詳細も、相手の人柄も、ほとんど知らされていない。
名前と爵位と、“元傭兵の成り上がり者”という噂だけが、手持ちの情報だった。
けれど、それで十分。
──大事なのは、相手の本質を見極めること。
人は言葉より、仕草に真実を隠しがちだ。
声の間、指先の動き、視線の行方──。
パメラはそれを、何年もかけて屋敷の中で学んできた。
使われるのではなく、使うために。
命じられるのではなく、選ぶために。
今日から始まる新しい人生の舞台を前にして、パメラは心を静かに整える。
「ふふ……私がどんな花嫁に見えるかしらね」
小さく笑って、ドレスの裾を整える。
ミランダのおさがりであるこのドレスは、レースもリボンもくすんでいる。
けれど、視線の端に映る自分の姿は、少なくとも敗者には見えなかった。
やがて、馬車が止まる。
外から御者の声が聞こえた。
「アッシュグレイヴ男爵邸でございます」
パメラが身じろぎした直後、扉の向こうから低い声が投げかけられる。
「ぐずぐずしてる暇はねえ。降りるならさっさとしろ」
つっけんどんな声音に、ほんのわずかに眉が動いた。
けれど、パメラは静かに息を吐き、扉に視線を向ける。
扉が、重々しく開かれる。
まぶしい光の先に、男の影が立っていた。
背は高く、肩幅も広い。日焼けした肌に、黒鉄のような髪。
瞳は濃い赤紫。冷えた焔のような色をしていた。
──無表情。
それが、彼を見て最初に浮かんだ言葉だった。
まるで、何も感じていないかのような無機質な顔。
けれど、目は逸らさない。じっとこちらを見ている。
そして、彼は無言のまま手を差し出した。
鍛えられて硬いが、乱暴ではない手。
馬車から降りるために差し出されたその手は、不思議なほど自然で、そして静かだった。
(あら。これで“粗野な成り上がり”……?)
パメラはふわりと笑い、差し出された手を取った。
小さな靴が地に触れるまで、男の手は決して強くも弱くもなかった。
「……パメラ・ラングリーです。本日よりお世話になりますわ」
丁寧に裾を摘み、礼を取る。
その仕草に対して、男──レオ・アッシュグレイヴは一拍遅れて返した。
「レオだ。案内する」
低く、短い声が響く。
正式な名乗りを返す気はないらしい。
(ええ、やっぱり。簡単には本音を見せてはくださらないのね)
けれど、先ほどの一手がすでに言葉だった。
パメラは、ふわりとした笑顔の奥で、静かに駒を動かし始める。
レオが先に歩き出し、パメラもその後に続いた。
石畳の階段を上がり、男爵邸の重厚な扉がゆっくりと開かれる。
中から漏れる空気はひんやりとしていて、静まり返っていた。
使用人の姿はない。
主の帰還にも、新たな花嫁の到着にも、誰も顔を出さない。
(……お出迎えも、なし。わかりやすい歓迎のなさですこと)
広すぎない玄関ホールには、薄い陽光が差し込んでいる。
床は磨かれ、壁の燭台は整っていた。
だが、その整い方にはどこかよそよそしさがあった。
ただ義務として手入れされたような、冷えた無機質さ。
レオは一言も発さずに廊下を進み、邸の奥の一室の前で立ち止まった。
重たそうな扉を片手で静かに開け、中を指さす。
「ここを使え」
簡素な木扉の先にあったのは、小さな寝台と机、椅子ひとつの部屋だった。
暖炉こそあるが、装飾もなければ、花も香りもない。
だが、掃除は行き届いていて、窓辺には淡い色の新しいカーテンがかかっていた。
(……控えの間。いえ、仮の花嫁の部屋かしら)
使用人のいない屋敷、味気ない部屋。
必要最低限の用意だけはされている。だが、温もりというものがまるでない。
明らかに「部外者」として扱われている、と感じさせる冷たさだった。
それでも、馬小屋でも物置でもなかった。
パメラはくるりと部屋を見回し、ふわりと笑った。
「まあ、静かで落ち着いたお部屋ですこと。てっきり納屋かと思っておりましたのよ。……あら、冗談ですわ」
くすくすと笑いながらも、その目はレオを見つめている。
レオは返事をせず、ただ「荷は後で運ばせる」とだけ呟き、背を向けた。
そのまま立ち去ろうとした背中を、パメラは目で追う。
彼の足取りは重くも軽くもない。
どこまでも一定のリズムで歩いていく。
(足音が乱れていない。訓練された兵士のよう……でも、それだけじゃない)
ドアの閉まる音すら、静かだった。
扉が静かに閉まる音を背に、パメラは部屋の中央に立ったまま、ぐるりと視線を巡らせた。
小さな寝台。窓際のカーテンは新しいが、装飾はどこまでも控えめ。
書棚も飾り棚もない。まるで仮住まいのような空間だった。
──歓迎とは程遠い、明確な“冷遇”。
形式的なあいさつすら交わさないまま部屋に通され、使用人も出てこなかった。
この空気は、ただの政略結婚では説明がつかない。
(箔をつけたい成り上がりが、財政難の古い家の娘を娶る──)
よくある話だ。
パメラ自身、そういう目的でこの縁談が持ち上がったのだと思っていた。
令嬢としての格式だけが求められ、あとは飾り物のように扱われる、そういう役割。
けれど──何かが違う。
これは、利用というより、拒絶に近い。
よく整えられてはいるが、まるで感情の伴わない贈り物のよう。形だけの丁寧さが、冷たさをより際立たせていた。
「この人は、私との結婚を望んでいなかったのでは?」という予感が首をもたげる。
(……もしかして、押しつけられたのは、あの人のほう?)
ヴェステリア公爵の口利き──そう叔父は言っていた。
もしも、公爵の指示ならば、逆らえなかったとしてもおかしくはない。
パメラはそっと、ポケットに手を差し入れ、願い石に触れた。
この石を手にした頃は、自分にも夢があった。
だが今は、何もない。家も、立場も、財もない。
(……私は、どこからどう見ても“弱者”)
彼にとって、自分はいつでも片手で捻り潰せる存在。
たとえ彼が丸腰で、自分は剣を持っていたとしても、相手にならないだろう。
彼がどんなに油断していたって、まともにぶつかれば勝てるはずがない。
それは当然。常識。絶対の事実。
けれど──。
(だからこそ、この弱さこそが、武器になる)
誰にも期待されず、見下され、見逃される存在。
それは時に、最大の自由を意味する。
彼の目は、自分を値踏みした。
でもきっと、何の脅威にもならないと判断したはず。
だったらそのまま、そう思わせておけばいい。
──私の武器は、私自身。
たったひとつの、賭け金。
ベッドに腰を下ろし、手のひらに願い石を乗せる。
願いを込めて彫ったはずの石は、もはや何を願っていたのかも思い出せない。
彫りの浅くなった片面が、やわらかく光を返した。
「ねえ……賭けるなら、今だと思わない?」
誰に聞かせるでもなく、静かに囁いたその声は、ふわふわとした笑顔とはまるで別人の、冷めた芯を宿していた。




