19.信じた一夜
客間の窓は曇り硝子で覆われ、外の景色はほとんど見えなかった。
格子のような飾りが重なって、光はごくわずか。部屋の隅には蝋燭が灯されていたが、その火は小さく、空気に滲むように揺れている。
寝台に腰かけ、パメラは静かに手を組んだ。
頬に張りつくような緊張は、夕刻の応接間でのやり取りから続いている。
(……やはり、気づかれましたわね)
自分が何かを探っているということに。
叔父は最初こそ上機嫌で、昔のように姪を見下ろすような視線だった。けれど、アシュフォード侯爵家の名を出した瞬間、空気が変わったのは間違いない。
あのとき、叔父は確かに口を滑らせた。
そして、その“誰かに言われた通りにした”という言葉に、自ら慌てた。
(今ごろ、焦っておいででしょうね……)
廊下から足音がする。遠ざかっていく音だ。
靴音は一定で、急いでいるようでいて、妙に慎重だった。
(……誰かを“走らせた”。やはり)
この扉の内側からでは確かめようがない。
けれど、パメラには確信があった。
叔父のような男が、即座に判断を下せるはずがない。
誰か、相談すべき相手がいるのだ。
そして、その“誰か”が──あの年の粛清に関わっていたのだとすれば。
(けれど、まだ“あの方”が黒幕だと断言はできません)
疑わしい人物はいる。けれど確証はない。
むしろ今は、“叔父が誰に繋がっているのか”を見極めることが肝要だった。
火が一瞬、揺らいだ。
風の気配はない。けれど、部屋の温度がほんの少しだけ沈んだ気がした。
(今夜を越えられる保証は、どこにもありませんわ)
自分の存在が、“まだ使える道具”なのか、それとも“処分すべき障害”なのか。
叔父はまだ、決めかねている。
だからこそ、指示を仰ぎに人を走らせた。
それまでのわずかな時間が、パメラに与えられた猶予だった。
(……レオさま。お気づきになってくださるでしょうか)
彼は、鋭い人だ。
パメラが纏う笑顔の仮面、その奥に秘めたものに、誰より早く気づいてしまう人だった。
(わたくしが何も言わず、ただ実家へ向かった。……それだけで、違和感に気づいてくださると、信じています)
それは祈りであり、賭けだった。
けれど、そう信じるに足る“何か”が、レオにはあった。
パメラは、指先にそっと力を込める。
ドレスの縫い目に隠された、小さな“願い石”を握りしめた。
かつて、幼い日──心を込めて刻んだ、ただひとつの願い。もはや記憶の底に沈んでしまった願いは、思い出すことさえ許されない。
それでも──今は、それにすがるしかなかった。
(……どうか)
扉の外で、ふと気配が動く。
立ち止まっている。見張りなのか、あるいは──ただの監視か。
どちらにしても、長くはない。
(時間がない……)
パメラはそっと寝台に身を横たえた。
絹の裾がかすかに揺れる。天井の飾り模様が、仄暗い影となって浮かび上がる。
眠るふりをするには、胸の内が静かすぎた。
(どうか──レオさま。お気づきになって)
閉じたまぶたの奥で、冷たい焦りがじわじわと広がっていく。
この一夜が、自らの選んだ“道”の正否を決める、一線になるかもしれなかった。
*★*――――*★*
レオは、執務室の扉を開けたまま、使用人の言葉を反芻していた。
「──奥さまなら、今朝、おひとりで外出されましたの。行き先は……ご実家だと」
「……ラングリー家、だと?」
絞り出すように繰り返した声は、低く沈んでいた。
ラングリー家。それは、レオにとって“敵の名”だった。
その家の娘が、よりによって──よりにもよって、黙って戻ったというのか。
「なんでそんな勝手な真似を……!」
拳が机を叩く直前、慌てて間に入った侍女が、そっと一枚の便箋を差し出してきた。
「こちら……書斎に置かれておりました。きっと、奥さまは旦那さまにご迷惑をかけたくなくて……」
その手紙は、見覚えのある封蝋で綴られていた。ラングリー家の印──中を開けば、金銭援助の要求が並んでいる。
格調を装った文体。家の名を背負う娘への期待。
だが、要約すればただ一言。「金をよこせ」。
レオは無言のまま手紙を置いた。
怒りの熱が、皮膚の下を這う。けれどその炎の正体は、単なる怒りだけではない。
あいつは──パメラは、何も言わなかった。
この手紙を見せず、言い訳もせず、ただ黙って姿を消した。
(黙って、あんな場所へ戻るなんて……)
屋敷は、妙に静かだった。
パメラがいないだけで、使用人たちの足取りさえ重い。誰もが、どこか心ここにあらずの様子だった。
(……すっかり、この屋敷を掌握していたんだな、あの女)
いつの間に、こんなにも空気を変えたのか。
ふわふわした笑顔の裏で、どれほどの計算を巡らせていたのか。
(あいつは弱者の皮を被った、計算高い獣だ)
そう言い聞かせるように、レオは心の中で呟く。
だがその“獣”は、一度だって、彼の足を引っ張るような真似をしなかった。
──むしろ、立ててくれた。
評判を上げるようにふるまい、自分の利益を得るついでに、レオをも“よき夫”として見せる。
そのやり方は、抜かりなく、見事だった。
……そして、思い出す。
屋敷に来たばかりの頃のパメラは、明らかに痩せていた。
着慣れていないドレスの下から浮かぶ肩の細さに、当初は「貧相な育ち」としか思っていなかった。
だが、夜会で出会ったあの女──ミランダ・ラングリーは、違った。
肉付きのよい顔に、勝ち気な目元。贅沢な暮らしぶりが容易に見て取れる外見だった。
(あの女、自分のことをパメラより上だと思ってやがった)
そのくせ、品格もなければ気品もない。
ああいう女が、姉に当たる者を大人しく立てるとは思えない。
(……もしかすると、パメラは)
そう思った瞬間、レオは思考を遮った。
もし、あの女が虐げられていたとしても──それでも、ラングリー家の娘であることには変わりない。
(あいつは、仇の娘だ)
それでも、どうしてだろう。
思い浮かぶのは、笑顔だった。
新調したドレスに袖を通し、くるりと一回転して見せた日のこと。
作り物ではない、素の笑顔。
その一瞬が、どうしようもなく胸に残っている。
あれはただの仇だ──そう言い切れない自分がいる。
レオは、立ち上がった。
「……迎えに行ってくる」
誰に向けたでもないその言葉を、侍女は小さく目を見開き──けれど、何も問わずに見送った。
レオはそのまま、外套を羽織って屋敷を出る。
夜気のなか、馬の蹄が石畳を叩く音だけが、静かに響いていた。




