18.問いの罠、答えの代償
紅茶に口をつけるふりをして、カップを軽く傾ける。
湯気の向こうに見える叔父の表情は、どこまでも油断に満ちていた。
「して、どうだね。男爵家での暮らしは。やはり傭兵あがりでは、粗野なところも多いか? ああ、もちろん、ご立派なお方なのだろうが……なんというか、こう、貴族としての気品というのは、やはり──ねえ?」
笑いながらも、下に見ていることを隠そうともしない声音。
パメラは微笑を崩さずにいたが、胸の内では静かに温度が下がっていく。
「とてもよくしていただいておりますわ。……わたくしなどにはもったいないほどに」
「おやおや、それは結構なことだ」
口先だけの応対。だが、叔父の目が一瞬だけ細くなる。
パメラの言葉を額面通りに受け取っていない証だった。
「まあ、とはいえ──何でも気兼ねなく話せるご夫婦というのも、そうそうあるまい。……今回のようなことは特に、な」
にやにやとした笑みの奥に、探るような色が滲む。
「それで……ご主人には、本当に何も仰らずに?」
「はい。あまりにお恥ずかしくて、主人には切り出せませんでしたの」
わずかに俯き、目を伏せる仕草。
気弱な娘を装った声音に、叔父の口元がほころぶ。
「そうかそうか……そうだろうとも。まさか自分の実家が、娘に金の無心をするなどとは、な……。いやいや、無理もない、無理もない。なに、わしは気にせんよ。お前が顔を見せてくれただけで十分だ。やはりなあ、血のつながりというのは、何にも代えがたいものだ」
「ふふ。そう思っていただけて、嬉しゅうございます」
話は、わざと本筋を外すように、穏やかに、だが着実に進められていた。
パメラは変わらぬ笑顔の奥で、確実に罠を張り巡らせていく。
紅茶の湯気を目元に感じながら、パメラはふわりと微笑んだ。
「そういえば──」
何気ない独り言のように切り出した声には、柔らかな抑揚があった。だがその瞳は、細やかな観察を怠らない。
「お父さまとお母さまが亡くなった春のこと、あまりよく覚えていないのです」
テーブル越しに座る叔父の手が、かすかに止まる。
「ほら、あの春は、いろいろと騒がしかったでしょう? あちらこちらで人の入れ替わりがあって、召使も馬車も、すっかり新しくなって……」
カップを手に取る仕草も優雅そのもの。だが紅茶には口をつけず、言葉だけをそっと置く。
「まるで、あらかじめすべて整えられていたように、すらすらと」
「そ、そうか……? いや、偶然だよ、偶然」
叔父が笑いながら応じるも、その目は落ち着きを欠いていた。
「偶然。そうですわね」
パメラは優しく頷く。
「……でも、偶然にしては、あまりに出来すぎていた気がして。ときどき、夢に見るのです。──あの春のこと」
叔父は、明らかに居心地悪そうに体を揺らした。
「ちょうどその頃でしたわね、アシュフォード侯爵家の件も」
「っ……」
言葉を継ぐ前に、叔父の唇がぴくりと動く。
「名門でいらしたのに、突然“反逆”の罪で粛清されるなんて。あれも、誰かが詳しい情報を差し出したからこそと聞きました」
紅茶を揺らす音が、静かに部屋に響く。
「おそらく、かなり近しい立場にいた方ではありませんと、あれほど正確な密告は難しいでしょうね。……ねえ、おじさま?」
そう言って、あどけないような笑みを向けた。
その瞬間、叔父の手がびくりと震えた。
「……ち、違う、わしは……ただ、あのときは、言われた通りにしただけで……っ」
パメラの瞳が、かすかに見開かれる。
「──あら。どなたに?」
問いは、ごく自然に紡がれた。だが、その一語で、空気が張り詰める。
叔父ははっとして、口を噤んだ。
顔が青ざめ、冷や汗がこめかみをつたう。
「……おまえ……最初から……」
呻くような声だった。
だがパメラは何も責めることなく、あくまで笑みを崩さない。
「わたくし、ただ知りたかっただけですの。あの春、何があったのか。──それだけ」
紅茶を手に取る。けれど、またしても口はつけなかった。
パメラが静かに視線を落とした、そのときだった。
「……せっかくだ、泊まっていけ。久しぶりに家族水入らずで話そうじゃないか」
叔父の声には、不自然なほどの親しげな響きがあった。
パメラは一瞬だけまつげを伏せ、それから、にこりと微笑みを浮かべる。
「……まあ。よろしゅうございますの?」
「もちろんだとも!」
叔父は妙に大仰に頷き、すぐさま使用人を呼びつけて何やら指示を飛ばし始めた。
──まるで、自ら引き止めることで、自分の立場を保とうとするかのように。
(……本音は、わたくしをこの屋敷に留めておきたいのでしょう)
パメラは表面上、従順な微笑をたたえたまま、内心で静かに息を吐いた。
──これでよかった。
この手で確かめた。彼の口から引き出した、真実の一端。
あとは、しかるべきときに、しかるべき人に届けばいい。
(……レオさま。どうか、お気づきになって)
窓の向こう、初夏の陽が落ちかけていた。
けれど、その光よりも、パメラの微笑は静かに、そして確かに、強く灯っていた。
応接間を後にすると、叔父はしきりに使用人へ指示を飛ばしていた。
急ごしらえの客間を整えさせるためらしいが、その声音には、どこか上ずった焦りが滲んでいる。
必死に歓迎の体裁を整えようとしているのが、かえって不自然だった。
(……今さら取り繕っても、遅うございますのに)
パメラは微笑を崩さず、静かに歩を進めた。
「食事は控えめでいい。湯も、ぬるめで構わん。……いや、あえて粗末にする必要はないが……その、気を回しすぎるのもどうかと思ってな……」
その言葉の端々に、パメラはひそやかに眉をひそめた。
それは“もてなし”というにはあまりに不自然で、時間を稼ぎたい者の姿に思えたからだ。
(……やはり、わたくしを泊めること自体、予定にはなかったのでしょうね)
客間に通されると、簡素ながらも清潔に整えられていた。
だが、窓には格子のような飾り、扉には内側から開けるにはやや重すぎる古びた錠。
見た目を整えてはいるものの、閉じ込めることも可能な造りだと、パメラはすぐに気づいた。
侍女が湯を運び入れ、寝具を整える間も、パメラは終始穏やかな微笑を崩さなかった。
だがその胸の奥では、鋭い緊張がわずかずつ積もっていく。
(……すぐに毒を盛るような真似はなさらないでしょう。でも、叔父さまは迷っておいでです)
あの応接間でのやり取り。
アシュフォード侯爵家、そして“粛清”の年に言及したときの叔父の反応。
あの男は、間違いなく何かを知っていた──そして、うっかり口にしたことに、あとから気づいて狼狽した。
今、彼のなかで保留されている。
自分はただ金を引き出すための娘なのか、それとも──もっと厄介な存在か。
(わたくしが“主人には何も告げずに来た”と信じているうちは、まだ利用価値を残してくださる。けれど……)
このままでは、いずれ“処分すべき存在”になるだろう。
そうなる前に、パメラには確かめたいことがあった。
(──きっと、叔父さまは誰かに指示を仰ぐはず)
あの動揺のしかたは、知らなかった者のものではなかった。
自分の立場だけでは判断をつけかねている──だから、上にいる誰かに判断を仰ごうとするだろう。
(その“誰か”こそが、アシュフォード侯爵家を陥れた黒幕に通じているはずですわ)
すべてを暴くには、まだ材料が足りない。
だが、それを掴む機会が、この一夜に訪れるかもしれない。
寝具に身を横たえるふりをしながら、パメラはそっと天井を見上げた。
重く沈む天蓋の布が、まるで天を覆う帳のように感じられた。
(わたくしは“黙って来た従順な娘”──それが、唯一の盾です)
今はまだ動かず、ただ見極める。
叔父がどこへ、誰に、助言を求めに行くのか──。
それがすべての鍵になると、パメラは確信していた。
夜の帳が、静かに屋敷を包んでいく。
その静けさは、やがて訪れる嵐の気配を孕んでいた。
扉の向こうで、誰かの足音がかすかに止まる気配がした。
──この屋敷で、何かが動き出そうとしている。




