17.過去に触れる扉
初夏の朝。庭を渡る風はやわらかく、茂った木々の葉が光を受けてさわさわと揺れていた。
パメラは静かに一枚の手紙を、書斎の机の上に置く。
それは、ラングリー家から届いた金銭援助の要請文。
格調を装った言い回しや、家族の絆を持ち出す常套句が並んでいたが──中身はただひとつ、「金をよこせ」という要求に他ならなかった。
封筒も便箋も、あえて開いたまま、視線を惹きやすい場所に置いておく。
何気ない顔で通りすがる者の目にも留まるように。
侍女には、さりげなく一言だけ告げた。
「旦那さまにはまだお見せしていませんの。……ご迷惑をかけたくなくて」
それだけで充分だった。
パメラの置き土産は、そうして確実にレオのもとへ届くよう仕組まれていた。
玄関前の広間でケープの留め具を整えていると、廊下を通りかかった若い召使が足を止める。
パメラはふと思い立ち、小さな封筒を懐から取り出す。
「ちょうどいいところに。こちら、途中で届けていただけますか?」
そう言って手渡した封筒は、さりげない筆致で書かれた近況報告──礼を欠かぬ程度の内容にとどめられている。
だが、宛先の人物ならば、込められた意味に気づいてくれるはずだ。
「ご無理は言いませんわ。お時間のあるときで構いませんの」
召使はうやうやしく受け取る。
宛先を見て、一瞬だけ目を見開いたものの、何も問うことなく頷いた。
(……これで、第二の道も用意できましたわ)
そう思いながら、パメラは深く息を吸い込んだ。
(……ただの道具なら、きっと来ない。でも──)
もしも彼が、本当に自分を“パメラ”という一人の人間として見ていてくれるのなら──。
きっと、手紙を読めば動いてくれるはず。
それが“愛”でなくても、“信頼”でなくても。
ただ、少しでも心を寄せてくれているのなら。
その賭けに、勝算はあった。
勝ち負けの問題ではないと分かっていても、パメラはそれを“自分の賭け”と呼んでいた。
自分の想いを、信じたかった。
(来なければ──それも答え。……それだけのことですわ)
微笑をひとつ、いつも通りに整えると、パメラは荷物を手に屋敷を出た。
振り返ることはしなかった。
馬車のなか、車窓を抜ける風がカーテンを揺らす。
初夏の陽差しはまだ柔らかく、草木の匂いが微かに混じっていた。
揺れる景色を眺めながら、パメラはかすかに息を吐く。
この道を通るのは──ほんの少しだけ、胸の奥がきしむほどに、久しぶりだった。
(あの家を“実家”と呼べなくなって、もう七年……)
形式的にはラングリー伯爵家の娘。
けれど、自分の居場所はとうにそこにはなかった。
あの日からずっと、冷遇され、無視され、娘でありながら“家の外”に押し出された存在。
今は違う。
パメラは「アッシュグレイヴ男爵の夫人」として、この道を戻っている。
それがどれほど皮肉に満ちているか、よく分かっていた。
自分を見捨てた者たちが、今度は金の匂いに釣られて、尻尾を振って迎え入れようとしている。
(……それで十分ですわ。むしろ、都合がよろしい)
欲しいのは、情ではなく情報。
真心ではなく、口実。
彼らが差し出してくる隙を利用し、真実に近づくための一歩にすぎない。
風が窓を叩くように吹き抜け、カーテンが波打つ。
その揺れに目を細めながら、パメラは静かに背筋を伸ばした。
(あの家の中に、すべての答えがあるとは思っていませんけれど……)
それでも──探らなければ、進めない。
たとえ、どんな過去が待っていようとも。
ラングリー家の屋敷は、数か月ぶりに訪れたにもかかわらず、どこか見覚えのないものに変わっていた。
門扉の金具には赤錆が浮き、正面玄関の扉も塗装が剥げかけている。庭の薔薇は刈られたまま手入れされておらず、外観からして既に貴族の邸としての威厳は失われつつあった。
それでも、扉は開いた。
「おお……これは、パメラ。よう来てくれた。久しいなあ」
出迎えたのは、ラングリー伯爵家現当主──パメラの父の弟であり、彼女を冷遇した張本人である男だった。
年を取ったのか、あるいは窮乏のせいか、顔は痩せこけ、髪には白いものが交じっていた。だが、目の奥にある打算と自己保身の色は、変わっていない。
「お久しゅうございます、叔父さま。お元気そうで、何よりですわ」
パメラは柔らかく微笑みながら、上品に一礼した。
使用人に荷を預け、応接間へと通される。家具の配置や壁の絵はほとんど変わっていないのに、空気だけが違っていた。淀み、停滞し、ひどく居心地が悪い。
応接間に入ると、叔父は目を細めてパメラを見やった。
その目の動きに、パメラはすぐ気づく。視線は彼女の纏う外出着──上等な生地と仕立てを一目で見抜いたようだった。
ほどよく絞られたウエスト、繊細なレースのあしらい、控えめながら上品なアクセサリー。派手さを抑えた装いは、むしろ上流の格式を印象づける。
叔父の口元が、かすかにほころぶ。
いかにも、自分が優位に立ったつもりの、それだった。
その様子を目にしながら、パメラは胸の内でそっとため息をついた。
(……ええ。そうでしょうね。わたくしが“うまくやっている”とでも、思っていらっしゃる)
ふわりと笑みを浮かべながら、パメラは椅子に腰を下ろす。
叔父の舌が滑るのを、ただ静かに待つつもりだった。
「いやあ、見違えたな。まるで別人じゃないか。あの頃は、まだ小娘だったのに……今やすっかり奥さまだ。ふふ……いやいや、大したものだよ」
声には親しげな響きを込めているつもりなのだろう。だがその実、どこか見下したような口ぶりだった。
(あの頃のわたくしが、“何も知らない娘”に見えていたのなら……今も、きっとそうなのでしょうね)
従順な姪が、成功を手土産に戻ってきた──叔父は、そんなふうにしか捉えていない。
目の前で紅茶を注がれても、警戒心のかけらもなく、にこにこと笑い続けている。
だが、パメラのほうは違った。
注がれた紅茶には、手をつけない。香りを確認するふりをしながら、内心では相手の様子を冷静に観察していた。
(ここで油断を見せてはだめ。あくまで、“心細くて頼ってきた娘”の仮面を、最後まで)
今はまだ、始まりにすぎない。
核心に迫るのは、もう少し先でいい。
(この家に埋もれた秘密──必ず、暴き出してみせますわ)
パメラは微笑を崩さずに、静かに視線を伏せた。
時計の針が刻む音だけが、彼女の決意に静かに応えていた。




