16.崩せない日常、壊したくない願い
書斎の窓を開け放つと、昼の余韻を残した風が、帳のようにカーテンを揺らした。
レオは椅子に深く身を預け、無言のまま天井を仰ぐ。
──パメラは、何も聞いてこなかった。
屋敷でのやり取り、紅茶を挟んで交わした言葉。あれはただの世間話ではない。
彼女は察している。いや──きっと、とっくに気づいている。
(あの敏い女が、気づかないはずがない)
それはあの夜会のときにも、はっきりと感じた。
アシュフォード侯爵家の粛清に話が及び、ある男が、わざとらしく次男レオポルドの噂を持ち出したとき──。
パメラは、絶妙な切り返しで場を収めた。
根も葉もない噂。成り上がりの足を引っ張ろうとする、ただの嫌味。
だがその中に、紛れもなく真実があったことを──彼女は見抜いていた。
けれど、何も問わなかった。
噂を否定も肯定もせず、ただ微笑の裏で自分の正体を、気配ごと隠してくれただけだ。
(……どういうつもりだ)
苛立ちにも似た感情が、胸の奥でわずかに泡立った。
それは、彼女の沈黙に対する怒りではない。
むしろ──戸惑い。揺らぎ。
言葉ひとつで崩れてしまう均衡を、あえて守ろうとする姿勢に、心がかき乱される。
(この結婚は、復讐のためだったはずだ)
アシュフォード侯爵家。
王にも忠義を尽くしてきた家は、ある春の日、突然“反逆”の罪を着せられ、一族ごと粛清された。
裏には密告があり、その中心にラングリー家がいた──そう信じている。
だからこそ、ラングリー家の娘を娶った。
奪われた誇りを、その娘に負わせることで償わせるため。
支配し、従わせ、手の中で思い通りに操ることで、あの一族を静かに潰していくつもりだった。
──けれど、どうしてだろう。
思い返すのは、ある日の記憶。
新調したドレスを身に纏い、くるりと回って見せた彼女の姿。
刺繍とビーズが光を受けてきらめき、香水がほのかに香るその瞬間。
彼女は、初めて“素の笑顔”を見せた。
作り物でも、仮面でもない。
まるで──ただの娘として、夫に褒められて喜んだだけの、あたたかくて無垢な笑顔。
(……あれが、まずかった)
あれを見て、何かが狂い始めた。
ただの復讐の道具だったはずの女に、情が生まれてしまった。
いや、情などと軽く言えるものではない。
(……あんな顔を、俺の前で見せるんじゃない)
そう思っても、脳裏に焼きついたあの笑顔が、どうしても消えてくれない。
彼女が笑うたび、胸が軋む。
傷ついていないふりをするたび、罪が積もる。
やがてそのうち、こんな想いがよぎる。
──いっそ、過去も復讐もすべて投げ捨てて、彼女と本当の夫婦として、生きていけたなら──と。
「……馬鹿か、俺は」
レオは顔を覆い、浅く息を吐いた。
そんな資格はない。
この名を名乗ることも、誰かを幸せにすることも、とっくに許されていない。
(それでも、あの温もりに、手を伸ばしてしまう自分がいる)
たったひとりの女が、何も問わず寄り添ってくれた。
あの夜。
背を向けた自分のそばに、黙っていてくれた、その姿があまりにあたたかくて──。
だからこそ、今もひどく、こわかった。
(もし、すべてを話したら──あいつは、俺を、どう見るだろう)
*★*――――*★*
昼下がりの陽が、陽の間に柔らかな光を落としていた。
窓辺のレースカーテンがゆらゆらと揺れ、その向こうで小鳥のさえずりが聞こえる。
春は、穏やかに屋敷を包んでいた。
けれど──。
(……何かが、確かに変わり始めていますわね)
パメラは、静かにカップを持ち上げた。
香る紅茶の湯気が頬を撫でる。けれど、その視線は遠く、窓の外に注がれていた。
レオの変化は、ごく僅かなもの。
表情の端。視線の揺れ。言葉の選び方。
けれど彼は、確かに迷っていた。揺れていた。
それは、パメラにとっても同じだった。
夜会のことを、思い返す。
アシュフォード侯爵家。七年前に粛清された、名門貴族の名。
そして、あの場で次男レオポルドの名を持ち出されたときの、レオの反応──。
彼は、一瞬だけ呼吸を止めた。
(きっと、あの方は……)
確信とは言えない。けれど、限りなくそれに近い実感がある。
レオがその出自を隠しているのなら、パメラのほうから踏み込むべきではない。
けれど──。
(真実を知らずに、側にいることもまた、礼を欠く気がしますの)
彼がなぜ、自分を選び、そして遠ざけたのか。
その理由を知らずに「夫婦」として笑い合うのは、どこか違う気がした。
パメラは、テーブルの端に置いた手紙に目を落とす。
それは、実家──ラングリー伯爵家から届いた書状だった。
「奥さま、ご実家からお文が届いております」
そう言って侍女が手渡してくれたとき、既に予感はあった。
封蝋の印を見たとき、それは確信に変わった。
──資金援助の要求。
文面は丁寧を装いながらも、内容は要約すれば「金をよこせ」だった。
だが、それでいい。
パメラにとっては、それが口実になる。
(わたくしが、ラングリー家の中を探る機会になるのなら──)
アシュフォード侯爵家の粛清と、両親の死。
どちらも、同じ年の春だった。
偶然にしては、あまりに符号が多すぎる。
(もし本当に、ラングリー家が密告に関与していたとしたら……)
それは、パメラの中にある“娘”としての思いと、“夫人”としての覚悟を揺らす。
レオは、パメラを復讐のために迎えたのかもしれない。
自分という存在が、彼の過去の痛みに加担した一族の象徴であるのなら──。
(それでも、わたくしは……)
穏やかな日常が続いている。
使用人たちはよく働き、屋敷には笑い声が満ちている。
暖かな部屋。焼き菓子の香り。夕餉の支度をする音。
この空間が、レオの心を少しでも和らげているのなら。
(この穏やかな日々が、どうか、壊れませんように)
ただ、それを願っている。
(……けれど、守るためには、過去を知る覚悟も要る)
そしてそのために──必要なことを、自分の手で始めるつもりだった。
(怯えてなど、いられない。手に入れたこの温もりを、守るために──)
「……少し、荷をまとめておいてくださいませ」
振り返ったパメラの声は、柔らかいが揺るぎなかった。
今はまだ、問いただす時ではない。けれど──黙っているだけでは、何も守れない。
「近々、実家へ向かいますわ」
それは、過去を確かめに行く旅。
そして、これからの未来を選び取るための、最初の一歩だった。




