14.すれ違いの朝、寄り添う夕暮れ
──朝が来た。
柔らかな陽が、カーテン越しに寝台を照らしていた。
けれどパメラのまぶたは、朝の光に応えることなく、静かに閉じたままだった。
眠れなかったわけではない。
ただ、意識の奥がずっと水底のように揺れていた。
昨夜のこと。言葉にしなかった間合い。互いに距離をとることで、何かが保たれた夜。
ソファで背を向けて眠るレオの背中が、まだそこにある。
ゆるく脱ぎ捨てた上着が、少しだけ床にかかっていた。
(……何も聞かない。それが、わたくしの答え)
問い詰めることも、追いつめることも、今の彼には望まれていない。
だからこそ、何も問わずに“夫人”でいる。それがパメラなりの距離の取り方だった。
寝返りを打つ音がして、ソファの男が身じろぐ。
「……起きてたのか?」
掠れた声が、思いのほか近くから届いた。
寝起きのせいか、それとも昨夜のせいか、レオの声音には少しだけ迷いが交ざっていた。
「ええ、少しだけ。おはようございます、レオさま」
「……ああ。おはよう」
短く返される挨拶。それでも、言葉を交わすだけで、今は十分だった。
レオが寝台の脇に視線を向ける。
その視線の先で、パメラは上体を起こし、さらりと髪を撫でつけて微笑んだ。
「おや、寝癖がございますわ。……よろしければ、整えて差し上げましょうか?」
「……いらねえよ。自分でやる」
「まあ、残念」
そう言って笑う声に、毒も皮肉もなかった。
レオは目を細めてから、低くつぶやいた。
「……よく眠れたか?」
問いの意図は不明瞭だった。気遣いか、それとも確認か。
けれどパメラは、あえて答えをぼかしたまま、静かに答える。
「ええ。レオさまがそばにいてくださったおかげで、安心して休めましたわ」
事実とも嘘とも言えない言葉。
それでも、レオは何も言い返さず、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
「……先に支度する。着替えと水は手配させる」
そう言って、レオはソファから立ち上がった。
寝癖のままの髪をかき上げながら、戸口へ向かう背中は、どこかぎこちなく──だが、逃げるようでもなかった。
パメラはその背中を見送り、ぽつりと小さく息を吐いた。
(不器用な旦那さま、ですこと)
けれどその背中が、昨夜より少しだけ近くに感じられたのも、また確かだった。
支度を整えて廊下に出たとき、ふいにパメラはスカートの裾を軽く踏み、よろめいた。
慣れないドレスと朝のぼんやりした足元が、わずかな隙を作ったのだ。
「あ──」
バランスを崩した瞬間、すぐに腕を伸ばしたのはレオだった。
がし、と細い腕を掴み、そのままぐいと引き寄せる。
気づけば、パメラはレオの胸元に小さく収まる形になっていた。
間近に感じる鼓動と、かすかに残る石鹸の匂い。
互いに驚き、動けずにいる。
「……大丈夫か」
低く落とされた声が、耳に落ちた。
「え、ええ……ありがとうございます」
パメラは慌てて姿勢を立て直すが、心臓の高鳴りはなかなか落ち着かなかった。
その拍子に、ポケットの中から何かが滑り落ちかける。
──願い石。
「あ……」
咄嗟に手を伸ばす。レオも同時に動き、二人の指先が石の上でふわりと触れた。
掌よりも冷たい、けれどどこかあたたかい感触。
一瞬だけ、視線が絡まる。
パメラのはしばみ色と、レオの深紅。
何かが、わずかに震えた気がした。
「……」
レオは何も言わずに、石をそっとパメラの手に押し戻す。
指先がかすかに触れたまま、ふと動きを止めた。
──ほんの一瞬。
けれど、それだけで、掌に熱が広がっていく気がした。
パメラが驚きに目を瞬かせると、レオはわずかに息を詰めた気配を見せ、慌てるように手を離した。
「……足下に気をつけろ」
掠れた声が、さっきより低く落ちた。
パメラは胸の奥がかすかに疼くのを感じながら、静かに石を握りしめた。
──夕刻。赤みを帯びた陽が、屋敷の屋根に長い影を落としていた。
男爵邸が近づくにつれ、馬車の揺れにも心が穏やかになっていくのを、パメラは感じていた。
この場所に“戻ってくる”という感覚が、胸の奥にゆっくりと広がっていく。
「おかえりなさいませ、旦那さま、奥さま!」
正面玄関には、いつものように使用人たちが並んでいた。
ひときわ張りのある声で挨拶したのは、侍女のリリィだった。
パメラは笑顔を見せる。
「ただいま戻りましたわ」
扉が開かれ、香ばしい焼き菓子の匂いと、よく手入れされた木の香りがふんわりと鼻をくすぐった。
夕方の少しひんやりとした風が、レースのカーテンを揺らし、廊下に長く影を引いていく。
パメラは回廊をゆっくりと歩きながら、ふと足を止めた。
金色に染まる床に目を落とし、窓の外へ視線を向ける。
「……やはり、このお屋敷、造りがとても丁寧ですわね」
背後で控えていたリリィが、小さく首を傾げた。
「ご不便な点などございましたか?」
「いいえ、そういうのではなくて……新興の爵位にしては、ずいぶん格式があるように感じまして。柱の彫刻や扉の象嵌、床の合わせ目に至るまで、まるで──もっと古い貴族の邸宅のようですもの」
パメラの言葉に、リリィは静かに微笑んで答える。
「ええ。こちらは、もともとカーソン男爵家の邸でしたから」
「……カーソン男爵家?」
「はい。古くからの家柄で、由緒ある旧貴族派の一つでございました。ですが、数年前に……」
言いよどんだ言葉の先を、パメラは目で促した。
「──急な取り潰しで、跡継ぎもなく……今では、家名も残っておりません」
「まあ……」
パメラは思わず扉の装飾に目をやった。
そこに彫られた、繊細な葡萄の蔦。
夕日を受けてきらめく様子が、まるで記憶を語りかけてくるようだった。
「……たしか、陽の間を改装したときに、古いリボンを見つけてくださったのも、あなたでしたわね?」
「はい。あれは、前の奥さまがお使いだったものかと。大切に保管されていた様子でした」
「ふふ……思い出の品だったのかもしれませんわね。贈り物か、ご自身の……」
パメラは微笑みながら言い、ふと気づいたように尋ねた。
「あなたのご家族は?」
「母が、カーソン家に仕えておりました。私も幼い頃に何度か、母に連れられてここへ。……あの頃の面影が、今もたくさん残っておりますの」
そう語るリリィの横顔は、どこか懐かしさと静かな誇りを帯びていた。
(この屋敷にも、きっと……守られてきた歴史と記憶があるのね)
パメラはそっと頷いた。
西の空に溶けていく陽の光が、スカートの裾を柔らかく照らしていた。
パメラはふと、もう一度ゆっくりと屋敷を見回す。磨き上げられた床、優雅な柱、手入れの行き届いた廊下──どこもかしこも、控えめながら気品に満ちていた。
リリィがほんの少しだけ口元をほころばせた。
「……この屋敷、思い出が詰まっておりますの。幼いころ、奥さまのようなすてきな方がいらっしゃるとは思いもしませんでしたけれど」
「まあ……それは、光栄ですわ」
パメラは静かに微笑み、やがて歩き出す。
廊下の先、食堂の前で扉が開く気配がした。
姿を見せたのは、レオだった。着替えを済ませたらしく、黒の上着を軽く羽織っている。
「……先に通るぞ」
「ええ、気をつけて。……階段、少し滑りますから」
「……足下に気をつけろ。──朝のお前みたいにな」
ぽつりと、からかうように落とされた言葉に、パメラは一瞬きょとんと目を瞬かせた。
すぐに、じわりと頬が熱くなる。
「まあ……覚えておいででしたの?」
問いかけに、レオはそっぽを向きながら、ぼそりと呟いた。
「忘れられるかよ……飛び込んできやがって」
ぶっきらぼうな言葉の裏に、どこか戸惑いの気配が滲んでいる。
それでも、わずかに口元が緩んでいるのが見えた。
パメラの胸が小さく跳ねる。
──けれど、それ以上、何かが交わされることはなかった。
何でもない挨拶。けれど、それは確かに“この家の主と夫人”としての、自然なやり取りだった。
レオの視線が、ほんの一瞬だけパメラの頬に触れて、それからそらされる。
「……屋敷のこと、気に入ってるみたいだな」
「はい。とても、居心地が良うございますのよ」
パメラの答えに、レオはふっと短く鼻を鳴らしただけだった。
けれど、その横顔はどこか柔らかく見えた。
その後ろ姿を見送りながら、パメラは小さく息を吸い込む。
屋敷に満ちたあたたかな空気が、胸の奥の硬さを少しだけ溶かしていく。
──まるで、忘れていた何かが、目を覚まそうとしているように。
風が揺れた。葡萄の蔓の彫刻に、夕陽が最後の輝きを落としていった。




