13.眠れぬ夜に紡がれる記憶
静まり返った回廊の先、重厚な扉が開かれると、甘い花の香が鼻をかすめた。
通されたのは、公爵家の離れにある客間──というには贅沢すぎる寝室だった。
天井まで届く天蓋付きの寝台がひとつ、部屋の中央に据えられている。象牙色のレースが揺れ、羽毛を詰めた掛け布がふんわりと膨らんでいた。
「まあ……素敵なお部屋ですわね」
「おいおい、よりにもよって寝台がひとつかよ……」
レオがあからさまにため息を漏らした。
夜会の後、一泊してから帰ることになっている。そのために案内された部屋だ。
「……俺はソファでいい。そっち、使え」
「あら、一緒には寝ませんの?」
「……一緒に寝たいのかよ」
「レオさまがお求めとあらば。妻の務めですもの」
「……もう少し肉がついたら考えてやるよ。そんな身体じゃ、その気になれねえ」
「まあ、ひどい」
パメラは頬をふくらませた。見せかけの拗ね顔は、いつもの“愛らしい令嬢”の仮面。
彼が初夜に自室を訪れたとき、本気で組み敷くつもりだったことくらい、察している。
けれど、彼は途中でやめた。パメラがわずかに探りを入れた瞬間、それ以上踏み込んでこなかった。
以来、彼が夜に訪れたことはない。
「……いいから寝ろよ。明日も早ぇ」
レオはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言い放った。
その言い草は素っ気ないが、言葉の端に、わずかに揺れる気配があった。
夜の寝室に満ちるのは、ただ静けさだけだった。
蝋燭はとっくに消え、天蓋の向こうの闇がゆっくりと深まっていく。
けれどパメラは、まぶたを閉じて眠るふりをしながらも、意識の一部を隣の気配に向けていた。
レオの寝息は聞こえなかった。
ソファに身を預けているはずなのに、寝返り一つ打たず、ただ静かに気配だけを残している。
(眠ってなどいませんのね)
パメラは、薄く笑った。
初夜のあの夜と同じ。彼は動かず、けれど、意識だけを部屋に漂わせていた。
あの夜──彼は間違いなく、自分を“抱くつもり”で現れた。
けれど、パメラが問いかけを投げたその一瞬、レオは迷い、そして退いた。
その一歩を踏み出せなかった男の姿が、妙に心に残っている。
意外だったから。けれど、それだけではない。
(あの人は、わたくしを見ていましたわ)
仮面の奥。笑顔のそのさらに奥。
彼の目がほんの一瞬、真剣に自分を見たのを、パメラは確かに覚えている。
それがどんな感情だったのかは、わからない。
支配か、警戒か、あるいは──。
ただひとつ確かだったのは、あの目に浮かんだ迷いの色が、なぜか今も、自分の胸に残って離れないということだった。
そして、パメラは夜会での出来事を思い出す。
──アシュフォード侯爵家。
その名を耳にしたとき、確かにレオの瞳が揺れた。ほんの僅かな、けれど見逃せない変化だった。
(もし、レオさまが……アシュフォード侯爵家の次男であるなら)
すべての辻褄が合ってしまう。高位貴族のような所作。洗練された礼儀。貴族社会に染まることへの違和感のなさ。そして、時折見せる、深く隠された哀しみの影。
ただ、あの話に続けて語られた、老貴族の記憶がある。
「レオポルドさまは、柔らかな茶の髪をしていた。土の香りがしそうな色で、小柄な方だったと記憶しております」
その記憶が、パメラの思考に楔を打ち込んでいた。
今のレオの髪は、黒鉄色。背も高く、筋肉質で、どう見ても小柄には見えない。だとすれば──あの話は勘違いか、あるいは、別人の記憶だったのだろうか。
(それとも……)
ふと、別の記憶がよぎる。
灰色の石。彫刻刀。願いを語った小さな声。
──願い石の少年。
パメラがまだ幼い頃、名も知らぬまま過ごした、ただ一度きりの出会い。
彼の髪も、確かに茶色だった。年上だと聞いていたけれど、小柄で──当時の自分よりも少し大きいくらいだった。
けれど、茶色い髪の少年など、この国にいくらでもいる。小柄な男の子も、珍しくはない。
(……それに、願い石の少年がアシュフォード家の子息だなんて、そんな)
パメラはそっとまぶたを閉じた。
思い出は甘く、曖昧で、今の現実とは重ならない。
──けれど、現実もまた、簡単には割り切れなかった。
ラングリー家の娘を望んだのは、レオ。
そして彼を後押ししたのは、新貴族派筆頭のヴェステリア公爵だった。
旧貴族派の落ちぶれた家の娘を、新貴族の旗手が推したという構図は、あまりにも奇妙だ。
しかも──。
望んだはずの自分に対して、レオの態度は冷ややかだった。
まるで形式だけを整え、最初から関わりを断つことを前提としていたかのように。
けれど、彼は力づくで遠ざけようとはしなかった。
居場所を奪うことも、声を封じることもできたはずなのに、それをしなかった。
自分が屋敷での立場を確立し、周囲に根を張っていく様子を、レオは無言のまま許していたのだ。
──本当は、とても優しい人。
不器用で、情に流されやすい。
だからこそ、パメラはその優しさに気づき、そして──付け込んだ。
自分がここにいる理由。
自分がこの人に対してやろうとしていること。
そのすべてに、どこか後ろめたさを感じながら、それでも、パメラは退かなかった。
それでも、時折見せる真剣な眼差しと、抑え込まれた迷いが気になって仕方がない。
その理由を自分はまだ、うまく言葉にできない。
そして、夜会で語られたもうひとつの名前──アシュフォード侯爵家。
旧貴族派に属し、かつて粛清された一族。
その名を耳にしたとき、レオの瞳がわずかに揺れたのを、パメラは見逃さなかった。
些細なことばかり。
けれど、それらがどこかで繋がっている気がしてならない。
すべてが繋がるようで、すべてが霧のなかに消えていく。
だが、確かに何かが動いているのは感じていた。




