12.静かなる再会、囁かれる過去
ミランダがこちらに近づいてくるのを見た瞬間、パメラは胸の奥にわずかな波紋が広がるのを感じた。
記憶のなかの彼女と、今目の前にいるその姿は、何ひとつ変わっていなかった。
きらびやかなドレスに身を包み、顎を少し上げた態度。あの頃のように、傲慢さと見下しをそのまま顔に貼りつけている。
「まぁ……やっぱり、あなたでしたのね。まさか本当にここにいらっしゃるなんて」
艶やかな声に潜むのは、嘲りと驚きの入り交じった響き。
予想外の再会に、明らかに動揺しているのがわかった。
「ご無沙汰しております、ミランダ。……お変わりなさそうで、何よりですわ」
パメラはにこやかに応じた。丁寧な言葉に、皮肉をひと雫だけ含ませる。
ミランダの目が、そのすぐ隣に立つ男へと向けられた。
そして──その瞬間、目に見えて固まった。
長身に黒の礼装を纏ったレオは、無言で立っているだけで場の空気を支配する存在感を放っていた。
鋭さを含んだ深紅の瞳、整った彫りの深い顔立ち。誰よりも堂々とした立ち姿。
それが、元はミランダに持ちかけられていた縁談の相手だと理解したとき、彼女の目がわずかに見開かれた。
──悔しさが、隠しきれず滲んでいた。
「……あら。成り上がりの方にしては……ずいぶんと、立派なご様子ですのね」
言葉を繕おうとしたのか、皮肉を込めるつもりだったのか。
だがその声は、思いのほかかすれていた。
「初めまして。男爵レオ・アッシュグレイヴです。ご挨拶の機会をいただき、光栄に存じます」
レオが静かに一礼した。
動作は簡潔で無駄がなく、だが完璧に洗練されていた。
まるで、貴族社会に長年身を置いてきた者の所作のように。
「……ミランダ・ラングリーですわ」
一方のミランダは、慌ててスカートの裾をつまんだ。
だがその礼は浅く、手元も目線も不安定だった。
──比較すれば明らかだった。
礼儀作法においてすら、彼女はレオに劣っていた。
そしてそのことに、ミランダ自身も気づいてしまっている。
「……奥方が礼儀に厳しいもので。多少は身なりにも気を遣うようになりました」
そう続けたレオの言葉に、パメラはそっと微笑んだ。
レオが礼儀を身につけたのは、付け焼刃で教わったからではない。
それは生まれ育った背景に深く根ざしているもの。彼の素地の良さが、こうしてにじみ出ているのだ。
そして──それを「妻から教わった」と口にすることが、どれほどの遠回しな示威となるか。パメラはよくわかっていた。
「ふふ……そう。礼儀の心得も身につけられているなんて、意外ですわね」
ミランダは無理に笑った。
だがその言葉の薄っぺらさは、レオの重厚な所作と並べば一層際立ってしまう。
あの頃と同じように、口だけは達者でも──今のミランダには、何ひとつとして本物がなかった。
(きっと、今ごろ気づいているのでしょうね。自分が手放したものが、どれほどの価値を持っていたかに)
パメラは胸の奥で静かにそう思いながら、ひとつ呼吸を整える。
「ミランダこそ、すてきなお召し物ですわ。とても華やかで──まるで今宵の主役のよう」
「えっ、あ……ありがとう……?」
微笑みとともに返された褒め言葉に、ミランダが戸惑ったように返す。
その返しにすら、わずかな間があり、会話の型も心得ていないことが露呈する。
(礼も、言葉も、視線も。もう、どこを切り取っても──わたくしが、あなたの下にいた時代ではありませんのよ)
そんな言葉を、パメラは一切表情に出すことなく、ただ優雅に佇んでいた。
ミランダの視線がもう一度、隣のレオに向けられる。その目の奥に、飲み込めぬ悔しさが滲んでいた。
立場の差は、もはや笑みひとつで語れるほど、歴然としていた。
しかし、それ以上何も言うことなく、ミランダはドレスの裾を引きずるように去っていく。
その背を見送りながら、パメラは小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます、レオさま」
「礼を言うことか?」
「ええ。とても、気分がよろしゅうございますわ」
ふわりと微笑むパメラに、レオは眉をひそめつつも、どこか満足げに頷いた。
ミランダが立ち去ったあとも、夜会は終始、華やかな空気に包まれていた。
パメラとレオは貴族たちに軽く会釈しながら、自然と談笑の輪に加わっていく。
「今年の花々は、開きが早いですね。南庭の藤も、もう咲き始めたとか」
「まあ……昨年より二週間も早いのではありませんか? 王立園芸団体の温室ですら、対応に追われていると聞きましたわ」
貴族たちは春の花や庭園の話題に笑みを交わし、グラスの傾きを揃えながら、軽やかな声を響かせる。
パメラも笑顔で応じながら、その中の一人──白髪の老侯爵が話の流れをすっと変えるのを感じ取った。
「春の訪れが早い年というのは……得てして、大きな節目が訪れるものですな」
唐突にも思えるその言葉に、場がわずかに静まった。
老侯爵はゆっくり杯を回しながら、低い声で続けた。
「七年前の春も、そうでした。穏やかで、あたたかくて──けれど、アシュフォード侯爵家が粛清されたのも、あの春でしたな」
その名が出た瞬間、パメラの指先から体温が抜けたような感覚に包まれた。
場の空気もまた、ひそやかに引き締まる。
別の貴婦人が、息を潜めるように声を重ねる。
「ええ、あれは……驚きましたわ。まさか名門中の名門が……」
「そうそう。反逆などとは、到底……。でも、実際には色々な噂があって……」
はっきりした証拠も根拠も出ないまま、さまざまな推測と尾ひれがついた話が交わされる。
だが、パメラにとってはどんな噂話よりも、ただひとつの事実が胸を刺した。
(……あの年、わたくしの両親も亡くなった)
偶然にしては、出来すぎている。だが、何も証拠はない。ただ、記憶に焼きついた“違和感”がある。
急な病とされたが、死の前後の対応はどこか不自然で、誰も多くを語ろうとはしなかった。
思わず、隣に立つレオに目をやる。彼の横顔は変わらない。けれど、その瞳の奥が、ほんのわずかに陰ったように見えた。
(……聞こえていた。やはり、無関係ではない)
レオが反応したことに、パメラはすぐに気づいた。
だが、問いただすことはできない。
社交の仮面を被ったまま、誰もが穏やかに笑うこの場では、どんなに鋭い疑念も、ただ胸の奥に押し込めるしかなかった。
そのときだった。
「……アシュフォード侯爵家といえば、次男坊がいましたな。流行り病で亡くなったとされていたが、どこかに生き延びていた……などという噂も、一時期ありましたぞ」
意地の悪そうな口調で割って入ったのは、パメラも名を知る中級貴族の一人だった。
顔には笑みを浮かべているものの、その目はあからさまにレオを見据えている。
「レオポルド、という名でしたかな。──レオさま。似ていらっしゃるような……気のせいですかな?」
会話の輪に、ざわりと波が立つ。
パメラの脳裏に、一瞬だけ鋭い光が走った。
その言葉には、確たる証拠も裏付けもない。ただ、成り上がりの男爵の足を引っ張りたいという悪意があった。
けれど、レオはそれに乗らなかった。
視線を合わせることもせず、淡く口角を上げるに留めている。
代わりに──パメラが一歩、優雅に前に出た。
「まぁ……名門のご子息と似ているだなんて、それは夫にとっても光栄なことでしょうね」
朗らかな声。優美な微笑み。
けれど、その言葉の裏には、確かな鋼の意志が込められていた。
「似ている、というご印象は人それぞれですもの。お気持ちはわかりますわ。記憶というものは、時に美化されてしまいますし」
パメラの言葉に重ねるように、ひとりの老貴族が口を開いた。
「レオポルドさまが幼い頃にお会いしたことがあるが……彼は、もう少し柔らかな髪色をなさっていたと記憶しております。あれは……そう、土の香りがしそうな茶でな……それに、小柄だったような……」
その言葉に、場の緊張が、すうっとほどけてゆく。
レオの髪は、深く沈んだ黒鉄色。いかなる光の下でも、赤味や茶味を帯びることはない。
体躯も堂々たるもので、小柄とは言い難い。
「……おや。そうでございましたか」
男の眉が、わずかに動く。
「ご記憶違いということでしたら……こちらとしては、何もお気になさらずに」
パメラは柔らかく微笑み、男に軽く会釈を送った。
「きっと、夫の振る舞いが立派でしたからこそ、名門のご子息を思い出されたのでしょう。そう思えば、むしろ光栄なことでございますわ」
逃げ道は、確かに用意されていた。
そのうえで──“もうこの話は終わりです”と告げるだけの静かな圧が、そこにはある。
男はそれ以上言葉を継げなかった。
グラスを持ち直し、気まずそうに微笑んで話題を逸らす。
その姿を見送りながら、レオが低く呟いた。
「……助かった」
「ふふ、どういたしまして」
パメラはくすりと微笑み、何気ない仕草で彼の腕にそっと手を添える。
「あの方には、お心遣いに感謝しませんとね。おかげで夫の品位が、改めて証明されましたもの」
その優雅な言葉のなかに、鋭さを含ませる余裕を忘れずに。
パメラはそっと、胸の奥で息を吐いた。
男は足を引っ張りたいだけで、たまたま話に出てきたアシュフォード侯爵家の次男坊を持ち出しただけだろう。
しかし、パメラの胸には、ひとつの引っかかりが残った。
確証のある話ではなかった。
あの男が口にしたことは、成り上がりを妬んだだけの軽口にすぎない。根拠もなく、ただレオの足を引っ張ろうとした──それだけのこと。
けれど、妙な胸騒ぎがあった。
いい加減で、無責任で、根も葉もない話。なのに、それでもどこか──。
(……でたらめのなかに、ほんの一片だけ、真実が交じっていたような気がする)
笑顔は崩さないまま、グラスの中身をひと口含む。
冷えた飲み口が、今なお微かに熱を残す胸のざわめきをなだめるようだった。
夜会はまだ終わらない。
けれど、パメラのなかでは、もう別の舞台の幕が上がり始めていた。




