11.夜会の光と、揺れる影
王都の中心にそびえるヴェステリア公爵邸。
今宵、その大広間は燭台とシャンデリアに照らされ、柔らかな金の光で満ちていた。
流れるのは絃楽の調べ。
磨き込まれた大理石の床に、上質なドレスと礼装が優雅に映り込む。
香水と花の香りが混ざり合い、低く交わされる会話は、社交の場に特有の緊張と期待を含んでいた。
中央の広間を囲むように貴族たちが集まり、互いに近況を交わす傍ら、時折ちらりと視線を向けるのは、まだ現れぬ新顔たちだった。
──そして、そのとき。
階段の上から、一対の影が姿を見せた。
会話がふっと静まり、視線が自然と集まる。
男爵レオ・アッシュグレイヴ。
近年、戦場で名を馳せた“成り上がり”として名が広まりつつあるその男は、黒の礼装を纏い、精悍な顔立ちと堂々たる体躯で階段を降りてきた。
隣に並ぶのは、新たにその妻となった女性──パメラ。
深い赤紫のドレスが肌を透かすように艶やかで、胸元を飾る同色の宝石が、燭光に照らされて揺れる。
その場に相応しい貴族の夫人として完璧な装い。
けれど、彼の隣に立つことに、ほんの少しだけ胸がざわついた。
(……こんな気持ち、いつから覚えるようになったのかしら)
二人が広間に歩を進めると、場の空気がわずかに変わった。
誰かが口元を覆い、誰かが小声で囁き合う。
囁きは、ドレスの裾や扇の陰に隠れるようにして広がっていった。
「ヴェステリア公爵が直々に取り立てた成り上がり……って聞いてたけど、奥方がラングリー家の令嬢だったとはね」
「ラングリー家って、あの旧貴族派の? 一体どういう風の吹き回しなのかしら」
「でも、うまくやったものよ。あの粛清の時代を、どうにか切り抜けた貴族なんて珍しいもの。 娘を差し出して、家の安寧を買ったのだと思われても仕方ないわね」
「戦で名を上げた男に、旧家の血統を添える。……見る人が見れば、うまい取引だったってことでしょう」
「ま、あの娘は生贄よ。笑ってるけど、本当は何も選べなかったんでしょう」
声には驚きもあれば、皮肉もある。だが、それ以上に──好奇と戸惑いが交ざっていた。
レオはどの視線も意に介さず、まっすぐ前だけを見据えていた。
その横でパメラは、小さく、けれど丁寧に礼を返していく。
まるで──最初から、そこに居て当然とでも言うように。
ひときわ大きな燭台の下、客たちのざわめきの向こうから現れたのは、この夜会の主催者──ヴェステリア公爵だった。
濃紺の礼服には銀糸が織り込まれ、背筋の通った佇まいには名門貴族の風格が自然とにじむ。
その一歩が踏み出されたとたん、周囲の空気が静かに引き締まるのを、パメラは敏感に感じ取った。
公爵の視線がこちらへと向けられる。
その双眸は穏やかに笑みを湛えつつも、どこか測るような光を帯びていた。
けれど、敵意はない。ただ、好奇と期待を秘めた目──有能な者に向ける貴族らしいまなざしだった。
「アッシュグレイヴ男爵、そして奥方。今宵はようこそ」
柔らかい口調だったが、社交の場に慣れた者なら、その一言に込められた重みを感じ取れただろう。
「ヴェステリア公爵閣下、丁重なお招きに感謝申し上げます」
レオが一歩前に出て礼を取る。パメラもそれに倣い、穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。
「戦の名手が、実にお美しい奥方を迎えられた。……聞いていたより、ずっとお似合いですな」
「もったいないお言葉ですわ。光栄に存じます、閣下」
パメラは微笑みながら応じたが、内心では注意を払っていた。
公爵の言葉には、探るような意図はない。
けれど、あくまで“彼女がどんな器か”を見極めようとする静かな目があった。
「それにしても……ずいぶんと洗練されましたな、男爵殿。初めてお会いした頃の荒削りさが、今では見る影もない」
「妻が口うるさいもので。……多少は整えるようになりました」
レオの答えに、公爵はくつりと笑った。
「口うるさいご婦人は、家を導く星とも申しますからな。……それに、あなたが古き名門の娘を望んだと聞いたときは、少々意外でもありました」
一瞬、パメラの胸にわずかな波が立つ。
“望んだ”──その言い回しは、彼女の知らない部分に触れているように思えた。
けれど、公爵はそれ以上何も言わなかった。レオもまた、淡々と返す。
「過分な支援に、改めて感謝いたします。……おかげさまで、こうして並ぶことができました」
パメラは静かにグラスの縁に指を添える。
ヴェステリア公爵の目は細く笑っていたが、その奥には静かな観察の光が宿っていた。
何気ないやり取りのひとつひとつが、まるで試されているかのよう。
だからこそ、パメラは穏やかな笑みを崩さずに、言葉を重ねた。
「閣下のお言葉に、夫もきっと励まされましょう。わたくしの言葉より、ずっと効き目があるようですわ」
公爵は喉の奥で笑った。
「それは頼もしい奥方を得たものですな、男爵殿」
レオは肩をすくめるように、軽く一礼した。
「ありがたいことです」
形式通りのやり取りが交わされ、場は穏やかに流れていった。
けれどパメラの胸には、小さなざらつきが残っていた。
(……“望んだ”のよね)
彼がラングリー家の娘を。
自分は、たまたま選ばれたのではない。何かしらの意図があって、選ばれた。──そのことを、改めて意識させられる。
ふと横を見ると、レオは変わらぬ無表情でグラスを傾けていた。
どんな意図があったのかは、彼はまだ何も語らない。
──“望まれて”迎えられたはずなのに、最初に与えられたのは冷たい部屋と、無関心な態度だった。
まるで、すぐに手放しても構わないもののように。
どうして、この人はそんな風にふるまったのだろう。
問いかけは胸の奥に沈んだまま、言葉にはならなかった。
公爵との会話を終えたあと、パメラは少しだけ息を整えるために、レオとともに会場の端を歩いていく。
高い天井に音楽が響き、煌めくシャンデリアの下、誰もが微笑みを浮かべながら談笑している。けれど、そのざわめきの向こうに──確かに聞こえた。
「まぁ。まさか本当に、ここにいらっしゃるなんて」
艶のある、けれどどこか意地悪な響きを含んだ声。
その声に、パメラの背筋がすっと伸びた。
忘れたわけではない。忘れられるわけがなかった。
あの声は──ミランダ。
パメラから“お嬢さま”の座を奪った従妹。
ゆっくりと振り返る前に、もう確信していた。
姿が見えなくても、冷たい視線が、まっすぐにこちらを射抜いているのを感じる。
(……来たのね)
目の前の空気が、少しだけ硬くなる。
レオが隣で気配を察したのか、小さく視線を巡らせた。
「誰だ、あれは」
隣で聞こえた低い声に、心のどこかが落ち着いた気がした。
問いかけに、パメラは答えなかった。ただ、視線を前へと向ける。
──ミランダが、こちらへ歩いてくる。
夜会の華やかさが、別の意味での緊張に染められていくのを、パメラはひしひしと感じていた。




