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天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ  作者: 葵 すみれ


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10.目を逸らした、その理由

 屋敷の朝は静かに始まった。

 磨かれた廊下を、ふわふわとした女たちの笑い声が転がっていく。厨房からは甘い菓子の香り。

 小鳥のさえずりと共に、今日もこの屋敷は平和らしい。


 レオは執務室の窓を少し開けたまま、書類に目を通していた。

 けれど、視線は紙面をなぞりながらも、耳の奥に残る声が気になっていた。


 ──ドレスが届いたらしい。しかも、随分とはしゃいでいた。


「奥さま、夜会に出られるんでしょう? うふふ、きっとお似合いになりますわね」


「生地も刺繍も一級品。あんなに上等なの、見たことありませんもの」


 部屋の外を通りかかった使用人たちが口々に言っていた。

 中にはこんな言葉を投げかけてきた者までいた。


「旦那さま、どうか奥さまをお守りくださいませね。社交界なんて、魑魅魍魎の巣窟ですから」


 そのときは「ああ」とだけ答えて流したが、内心では思わず唸った。


(いや、あいつが魑魅魍魎だろ)


 思わず出かかったその言葉を飲み込み、代わりにペンを握り直す。けれどインク壺の縁に引っかかった手が、そのまま止まった。

 まるで、紙面の文字が急に読めなくなったようだった。


 ふと、使用人の言葉が脳裏をよぎる。「どうか、お守りくださいませ」。

 あのふわふわと笑う女を、誰かが傷つけるかもしれない。


 ──いや、それは困る。


 気づけば立ち上がっていた。書斎の扉を押し、廊下へ出る。

 理由は……知らない。ただ、届いたドレスとやらを、あの女が本当に身に纏っているのか、確認したくなっただけだった。


 廊下の奥から足音が近づいてくる。

 軽やかで、踵の高さと質の良い革靴の音が交ざった、聞き覚えのあるリズムだった。

 けれどなぜか今日は、いつもよりもずっと胸に響いた。


 角を曲がって現れたのは──やっぱり、あいつだった。


 深い赤紫のドレスに細かな刺繍とビーズが光を受けてきらめいている。ほどよく絞られたウエストと、なめらかな生地の流れ。

 軽く巻かれた髪が肩で揺れ、かすかに甘い香水の香りがした。


 見慣れたはずの顔なのに、やけに見慣れない。


「あら、レオさま。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですわね」


 変わらぬ笑顔で、いつも通りの声で。けれど纏う空気だけが、確実に違っていた。

 まるで──本当に、天真爛漫な令嬢みたいだった。


「……それが、さっきのドレスか」


「ええ。仕立てたばかりなんですの。驚くほど軽くて、動きやすいんですよ」


 嬉しそうに話しながら、彼女はくるりと回って裾を揺らしてみせた。動きが自然で、どこにも不格好なところがない。演じているのではなく、初めからこうであるかのように。


(……何なんだ、こいつ)


 視線を逸らすつもりが、どうにも離せなかった。


「……似合ってる」


 口にしてから、しまったと思った。

 言うつもりじゃなかった。けれど、嘘でもない。


「まあ」


 彼女はぱちりと瞬きし、少しだけ驚いたように目を丸くした。そのあと、ふわりと笑みを浮かべて、深く頭を下げる。


「ありがとうございます、レオさま。お褒めいただけて嬉しいですわ」


「褒めたつもりはねえ」


 不機嫌そうに返して歩き出す。けれど、すぐに呼び止められた。


「レオさま」


 立ち止まると、パメラはほんの少しだけ視線を落としていた。伏し目がちに微笑むその姿に、さっきよりもずっと“女”を感じて、妙に落ち着かない。


「……少しだけ、楽しみにしていたんですの。レオさまが、どんな顔をなさるのか」


 その言葉が、胸に引っかかった。パメラの装いは、社交界のためだけではなかった。


「わたくし、あまり華やかな場所には慣れていませんから。だから、せめて恥をかかないようにと……ちゃんと見ていただけるように、少しだけ、頑張ってみましたの」


 それは、彼女なりの気遣いだったのだろう。誰かに着飾ってもらうのではなく、自らの手で“夫人”になろうとしていた。


「……目立つと思った。それだけだ。あんな格好で現れたら、誰だって目を引く」


「ふふ。それなら安心ですわ。夜会では、目立った者勝ちですものね」


 パメラはくすりと笑った。

 その笑顔を見ると、なぜか胸が疼く。


 レオは視線を外して、黙って歩き出す。

 彼女の香りと、残る気配だけが背中に張りつくようだった。


 執務室に戻ったレオは、深く椅子に腰を下ろした。


 手元には書類の山がある。目を通すべき文書、署名すべき契約、確認すべき報告。しかし、視線は紙に落ちることなく、どこか宙をさまよっていた。


(……何をやってるんだ、俺は)


 思えば、朝からおかしかった。使用人の「奥さまをお守りください」発言に過剰に反応し、興味のないふりをしながらドレスの話を耳に留めて、あまつさえ様子を見に出向いた。


(ただのドレスだ。たかが衣装ひとつ、似合ってようがどうでもいい)


 そう言い切ろうとした。けれど──似合っていた。見違えるほど、目を奪われた。

 くるりと回るその仕草。眩しすぎる笑顔。

 言葉を選ばずに言えば──とびきり、綺麗だった。


 目を逸らしたのは、気恥ずかしさのせいだった。

 それを素直に認めたくないから、目立つだの何だのと誤魔化したのだ。


(……あんな顔、初めて見た)


 軽やかで、柔らかくて、それでいて胸に引っかかる。

 敵意も打算もない、素の笑み。あれを自分に向けて見せたのだと思うと、妙に心がざわつく。


(仇の娘に、何を期待してる)


 そう、思い直そうとした。何度も、何度も。

 だが、記憶にこびりついたあの笑顔は、どうしても消えてくれなかった。


(……やっぱり、あいつは危ない)


 本気で踏み込んだら、もう後戻りはできない。

 けれど、その一歩を、今まさに踏み出しかけている気がして──息が詰まりそうだった。



*★*――――*★*



 部屋に戻ったパメラは、ドレスを丁寧に脱いで鏡台の前に座った。

 ドレスの感触がまだ体に残っていた。滑らかな生地、軽やかな裾、繊細な刺繍。仕立て屋が丹精を込めたと語っていたのも納得できる出来映えだった。


 鏡越しに見える自分の姿をそっと見つめる。


(ちゃんと、着こなせていたかしら)


 ──レオさまの目には、どう映ったのだろう。


 そんなことを考えてしまった自分に、ふっと眉が下がった。

 期待していたわけではない。けれど、言葉をかけられたとき、心が小さく跳ねたのは確かだった。

 似合っている、と。短く、それだけを。


(何を考えているのかしら……)


 自分の思考に、ふっと苦笑を浮かべる。

 この結婚は、悲惨な環境から抜け出すための手段に過ぎなかったはずだ。

 そして、真の目的への賭け。


 レオが自分を冷遇しようとしていることは、すぐに気づいた。

 だが、パメラは己の弱さを武器に、賭けに勝ち続けてきた。

 今や正妻の立場をものにして、屋敷で最も日当たりの良い部屋で穏やかに暮らしている。


 暖かい部屋、美味しい食事、使用人たちとの関係も良好。

 これから社交という“戦場”に赴くのも、緊張こそあれど不安はない。どうにか切り抜けてみせるという自信がある。


 だが──レオが自分のことをどう思っているのか。それを考えると、少しだけ臆病になってしまう自分に驚く。


 考えるまでもない。

 彼は最初から、自分の本性に気付いていた。

 優雅に微笑みながら毒を忍ばせる女──きっと、そう見えているのだろう。


 けれど、それだけではないのではと思ってしまう。

 彼が残してくれた短い言葉──それは、毒にも武器にもならない、ただの言葉。それなのに、胸に残っている。


(……らしくありませんわね)


 声に出さずにそう呟く。

 けれど、胸の奥に灯った火は、確かに存在していた。

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