01.私に残された、たったひとつの賭け金
──勝てると思っているわけではない。
でも、賭けなければ何も変わらないことを知っている。
微笑みながら、牙を研ぐ。
それが、今の自分に許された唯一の生き方だった。
奪われたものを取り戻すために。
壊された家を、ただの墓標にしないために。
パメラ・ラングリーは、薄暗い納戸のような部屋でスプーンを鏡代わりにしていた。
銀の表面に映るのは、金糸のように細く整えられた髪と、何も知らないふりをするはしばみ色の瞳。
「可愛らしい顔ね。……でも、ただの飾りじゃ生き残れない」
誰に聞かせるでもなく、そっと呟いた。
パメラの部屋には、鏡がない。
宝石箱も、ドレスも、靴も奪われた。
ラングリー伯爵家の長女でありながら、今の彼女は家の中で最も要らない存在とされている。
だが、パメラにはひとつだけ残っていたものがある。
──自分自身。
仮面を被り、笑いながら牙を研ぐ、自分自身だけ。
それが、今のパメラにとっての唯一の賭け金だった。
「やあ、今日も可愛らしいね。お気楽そうな笑顔に癒されるよ」
裏門から薬草を届けに来た商人が、そんなことを言った。
パメラは微笑んで、商人の差し出した薬草の包みを受け取る。
「ありがとう」
「そんな扱いを受けても笑顔を絶やさないなんて、本当に立派だね。……ねえ、今度一緒に出かけないかい? 君にぴったりな服を見立ててあげるよ」
商人は下町育ちの気のいい男だった。悪意も、裏もなさそうに見える。
けれど、その手は気安く伸びすぎる。視線も、計算が甘い。
──この男に悪意はない。
だが、無知な善意ほど、時に剣よりも鋭く人を傷つける。
「まあ、素敵なお誘いですこと」
パメラは、おっとりとした口調のまま、くすりと笑った。
「けれど、私のような者がお供しては、貴方のご評判に関わってしまいますわ」
柔らかく笑いながら、一歩だけ下がる。
その距離感が、すべての答えだった。
「そ、そうかい? あはは……いや、気にしないでくれよ。また今度!」
商人は気まずそうに笑って、早足で屋敷を後にした。
──この程度の相手に、すべては賭けられない。
彼が悪人でないことはわかっている。
それでも、賭け金はひとつきり。
無駄に投げるつもりは、初めからなかった。
最近、出入りの商人が減った。
塩の届けは二日遅れ、使いの少年の顔も知らない子に変わった。
気づく者は少ないだろう。
だが、パメラのように目を凝らして生きている者には、それは明らかな変化だった。
──この屋敷の体力は、思っているよりずっと乏しい。
このままいけば、誰かが売られる。
誰が“駒”になるかなんて、考えるまでもない。
「パメラ!」
パメラが自室にいると、扉が乱暴に開き、叔父が太い声で呼びつけてきた。
「すぐに支度しろ。お前を嫁に出す」
「まあ、嫁入りですの?」
パメラはおっとりと微笑んで、首を傾げた。
両親が事故で亡くなった後、家を乗っ取り自分を使用人に堕とした相手にも、穏やかな態度を保つ。
復讐は胸の奥に秘め、おくびにも出さない。
「相手はレオ・アッシュグレイヴ男爵。傭兵上がりの成り上がり者だが、爵位は持っている。ヴェステリア公爵の口利きだ。……ミランダには釣り合わんと拒まれた。代わりはお前で十分だろう」
──やはり、来たわね。
内心で呟きながら、パメラは静かに頷いた。
ただ嫁ぐのではない。
売られるのでもない。
──生き残るために、“夫”を利用する。
たとえ、誰にも気づかれなくても。
たとえ、誰にも救われなくても。
「承知いたしました。身支度に少々お時間をいただけますか?」
声色は変わらず、笑顔も崩さない。
けれどその胸の奥には、冷たい決意が宿っていた。
身支度といっても、自分の持ち物などほとんどない。
全てを奪われ、唯一残されたのは、幼い頃に名前も知らぬ少年と彫った願い石だけだ。
何の変哲もない灰色の石に、子どもが絵を彫っただけの願い石は、価値のないものとみなされて取り上げられることがなかった。
願い石だけを持ち、パメラは部屋を出る。
廊下を歩き始めたとき、階段の踊り場に見慣れた姿が立っていた。
金茶の髪に高価なレースのドレスを纏った少女が、パメラを蔑むように眺めている。
従妹、ミランダ・ラングリー。今や自分に代わって、この屋敷の“お嬢さま”となった少女だ。
「ふうん、まさか本当に行くとはね。でも、まあ……あんたにはお似合いじゃない? 傭兵上がりの成り上がり男なんて」
扇子をパチンと閉じ、ミランダは鼻を鳴らす。
「あたしにはふさわしくないわ。育ちも、見た目も、格も段違いなんだから。あなたにはぴったり……いえ、贅沢ね、傭兵の妻なんて」
「まあ……そう言っていただけると、安心して嫁げますわ」
パメラは変わらず、ふわりと笑った。
──気の毒ね。壊れゆく家にしがみついて、自分が勝者だと信じているなんて。
パメラは、表情ひとつ変えず、微笑みだけを置いて立ち去ろうとした。
そのとき、ミランダの声が背後から突き刺さる。
「いい気なものね。あんたがうまくいけば、ラングリー家の名誉も少しは取り繕えるかもしれないわ」
扇子をパチンと打ち鳴らし、ミランダは肩をすくめた。
金茶色の髪が揺れ、高価なレースのドレスがきらびやかに波打つ。
「そのまま、犬みたいに、成り上がりの足下に這いつくばってなさいよ」
冷笑の色を隠そうともしない瞳。
ラングリー家の娘でありながら、他家へと売られる従姉に向けられる、剥き出しの侮蔑。
パメラは、ふわりと微笑んだ。
たった一言だけ、淡く、柔らかく、しかし確かな棘を忍ばせる。
「ええ、這いつくばるのも吠えるのも、お上手なお家柄で育ちましたから」
ミランダの笑みが、わずかに引きつった。
だがパメラは気づかぬふりをして、踵を返す。
ヒールの音が廊下に遠ざかっていく。
願い石が、ポケットの奥で小さく転がる。
パメラは、そっと指先を忍ばせる。
小さな石の冷たさの奥で、もうひとつの名前をなぞった。
──レオ・アッシュグレイヴ。
指先に宿ったかすかな震えを、パメラはそっと押し隠した。
静かに、だが確かに、運命の糸が編まれはじめるのを感じながら。
いいえ、ちょうどいいどころじゃない。
これは人生を賭ける勝負。
逃げ道など、初めからなかった。
──絶対に、勝ってみせる。
この輿入れは、祝福とはほど遠いものだ。
失敗すれば、自分の立場はもう、どこにもない。
隠された罪を暴き、奪われたものを取り戻すために。
すべてを賭けた、最初で最後の戦い。
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