表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/13

01.私に残された、たったひとつの賭け金

 ──勝てると思っているわけではない。

 でも、賭けなければ何も変わらないことを知っている。


 微笑みながら、牙を研ぐ。

 それが、今の自分に許された唯一の生き方だった。


 奪われたものを取り戻すために。

 壊された家を、ただの墓標にしないために。


 パメラ・ラングリーは、薄暗い納戸のような部屋でスプーンを鏡代わりにしていた。

 銀の表面に映るのは、金糸のように細く整えられた髪と、何も知らないふりをするはしばみ色の瞳。


「可愛らしい顔ね。……でも、ただの飾りじゃ生き残れない」


 誰に聞かせるでもなく、そっと呟いた。

 パメラの部屋には、鏡がない。

 宝石箱も、ドレスも、靴も奪われた。

 ラングリー伯爵家の長女でありながら、今の彼女は家の中で最も要らない存在とされている。


 だが、パメラにはひとつだけ残っていたものがある。

 ──自分自身。

 仮面を被り、笑いながら牙を研ぐ、自分自身だけ。

 それが、今のパメラにとっての唯一の賭け金だった。




「やあ、今日も可愛らしいね。お気楽そうな笑顔に癒されるよ」


 裏門から薬草を届けに来た商人が、そんなことを言った。

 パメラは微笑んで、商人の差し出した薬草の包みを受け取る。


「ありがとう」


「そんな扱いを受けても笑顔を絶やさないなんて、本当に立派だね。……ねえ、今度一緒に出かけないかい? 君にぴったりな服を見立ててあげるよ」


 商人は下町育ちの気のいい男だった。悪意も、裏もなさそうに見える。

 けれど、その手は気安く伸びすぎる。視線も、計算が甘い。


 ──この男に悪意はない。

 だが、無知な善意ほど、時に剣よりも鋭く人を傷つける。


「まあ、素敵なお誘いですこと」


 パメラは、おっとりとした口調のまま、くすりと笑った。


「けれど、私のような者がお供しては、貴方のご評判に関わってしまいますわ」


 柔らかく笑いながら、一歩だけ下がる。

 その距離感が、すべての答えだった。


「そ、そうかい? あはは……いや、気にしないでくれよ。また今度!」


 商人は気まずそうに笑って、早足で屋敷を後にした。


 ──この程度の相手に、すべては賭けられない。


 彼が悪人でないことはわかっている。

 それでも、賭け金はひとつきり。

 無駄に投げるつもりは、初めからなかった。




 最近、出入りの商人が減った。

 塩の届けは二日遅れ、使いの少年の顔も知らない子に変わった。


 気づく者は少ないだろう。

 だが、パメラのように目を凝らして生きている者には、それは明らかな変化だった。


 ──この屋敷の体力は、思っているよりずっと乏しい。


 このままいけば、誰かが売られる。

 誰が“駒”になるかなんて、考えるまでもない。




「パメラ!」


 パメラが自室にいると、扉が乱暴に開き、叔父が太い声で呼びつけてきた。


「すぐに支度しろ。お前を嫁に出す」


「まあ、嫁入りですの?」


 パメラはおっとりと微笑んで、首を傾げた。

 両親が事故で亡くなった後、家を乗っ取り自分を使用人に堕とした相手にも、穏やかな態度を保つ。

 復讐は胸の奥に秘め、おくびにも出さない。


「相手はレオ・アッシュグレイヴ男爵。傭兵上がりの成り上がり者だが、爵位は持っている。ヴェステリア公爵の口利きだ。……ミランダには釣り合わんと拒まれた。代わりはお前で十分だろう」


 ──やはり、来たわね。

 内心で呟きながら、パメラは静かに頷いた。


 ただ嫁ぐのではない。

 売られるのでもない。

 ──生き残るために、“夫”を利用する。


 たとえ、誰にも気づかれなくても。

 たとえ、誰にも救われなくても。


「承知いたしました。身支度に少々お時間をいただけますか?」


 声色は変わらず、笑顔も崩さない。

 けれどその胸の奥には、冷たい決意が宿っていた。


 身支度といっても、自分の持ち物などほとんどない。

 全てを奪われ、唯一残されたのは、幼い頃に名前も知らぬ少年と彫った願い石だけだ。

 何の変哲もない灰色の石に、子どもが絵を彫っただけの願い石は、価値のないものとみなされて取り上げられることがなかった。


 願い石だけを持ち、パメラは部屋を出る。

 廊下を歩き始めたとき、階段の踊り場に見慣れた姿が立っていた。


 金茶の髪に高価なレースのドレスを纏った少女が、パメラを蔑むように眺めている。

 従妹、ミランダ・ラングリー。今や自分に代わって、この屋敷の“お嬢さま”となった少女だ。


「ふうん、まさか本当に行くとはね。でも、まあ……あんたにはお似合いじゃない? 傭兵上がりの成り上がり男なんて」


 扇子をパチンと閉じ、ミランダは鼻を鳴らす。


「あたしにはふさわしくないわ。育ちも、見た目も、格も段違いなんだから。あなたにはぴったり……いえ、贅沢ね、傭兵の妻なんて」


「まあ……そう言っていただけると、安心して嫁げますわ」


 パメラは変わらず、ふわりと笑った。

 ──気の毒ね。壊れゆく家にしがみついて、自分が勝者だと信じているなんて。


 パメラは、表情ひとつ変えず、微笑みだけを置いて立ち去ろうとした。

 そのとき、ミランダの声が背後から突き刺さる。


「いい気なものね。あんたがうまくいけば、ラングリー家の名誉も少しは取り繕えるかもしれないわ」


 扇子をパチンと打ち鳴らし、ミランダは肩をすくめた。

 金茶色の髪が揺れ、高価なレースのドレスがきらびやかに波打つ。


「そのまま、犬みたいに、成り上がりの足下に這いつくばってなさいよ」


 冷笑の色を隠そうともしない瞳。

 ラングリー家の娘でありながら、他家へと売られる従姉に向けられる、剥き出しの侮蔑。


 パメラは、ふわりと微笑んだ。

 たった一言だけ、淡く、柔らかく、しかし確かな棘を忍ばせる。


「ええ、這いつくばるのも吠えるのも、お上手なお家柄で育ちましたから」


 ミランダの笑みが、わずかに引きつった。

 だがパメラは気づかぬふりをして、踵を返す。

 ヒールの音が廊下に遠ざかっていく。


 願い石が、ポケットの奥で小さく転がる。

 パメラは、そっと指先を忍ばせる。

 小さな石の冷たさの奥で、もうひとつの名前をなぞった。


 ──レオ・アッシュグレイヴ。

 指先に宿ったかすかな震えを、パメラはそっと押し隠した。

 静かに、だが確かに、運命の糸が編まれはじめるのを感じながら。


 いいえ、ちょうどいいどころじゃない。

 これは人生を賭ける勝負。

 逃げ道など、初めからなかった。


 ──絶対に、勝ってみせる。


 この輿入れは、祝福とはほど遠いものだ。

 失敗すれば、自分の立場はもう、どこにもない。

 隠された罪を暴き、奪われたものを取り戻すために。

 すべてを賭けた、最初で最後の戦い。

新作を始めました。

もしよろしければ、ブックマークや↓の「☆☆☆☆☆」で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ