おやすみ、母さん
梅雨の走りみたいな蒸し暑い五月も半ばのころの話だ。
高校生だった私はその日、駅のホームで今日提出の課題を忘れたことに気づいた。提出しないと留年が決定的になる。
低く垂れ込めた鉛色の雲の下、僕は自転車を飛ばして急いで家に取りに帰った。
「あれ?」
思わず声が出たのは、鍵を開けて玄関扉を開けると父の靴があったからだ。
会社員の父は私より一時間早く家を出ていた。もういないはずの父の黒い革靴が脱ぎっぱなしでそこにある。いつも真面目な父にしてはめずらしく乱れていた。靴だって何だって普段から必ずそろえているのに。
急いでいる私は二階の自室から提出課題を取りに行き、鞄にしまう。両親の寝室はドアが開け放たれ、敷きっぱなしの布団が見えた。そこには誰もいない。専業主婦で家にいるはずの母もいない。
(母さんは買い物か)
一階に降り、そっとリビングに覗き込んだ。
父の仕事用の黒い鞄はあるものの、リビングにもその奥にあるキッチンにも、誰もいない。
リビングのテーブルの上には内服薬と印字された薬の袋が置いてあって、父の名前が記されている。
(薬を忘れて帰ってきたの?)
父が薬を飲んでいるなんて知らなかった。その父の姿も鞄を残して見当たらない。
(本当にいない?)
でも、其処此処にどこか生温く、湿った匂いが沈んでいる。人のいた気配だけが残っている。
その時、風呂場のドアが閉まる音がした。
(シャワーかな?)
何かあってスーツを汚したのかもしれない。
ひとまず声をかけようと思い立た時だった。
(ーーあれ?)
キッチンラックの黒い炊飯器が少し棚からはみ出て、斜めになっていることに気づいた。
別に細かいことが気になるタイプではないのに、その日は妙に気になった。
(なんか、朝より綺麗になってる)
その不自然さから目を離せない。私は猛烈に中身を確認したくなった。呼ばれた気がしたのだ。開けねばならない、開けたいという衝動を止められない。
平日の午前中、母は不在、何故か父のいる家の中、私はピカピカに磨かれた炊飯器の蓋についたシルバーのボタンを押していた。
蓋が勢い良く開いた。
目に飛び込んだのは黒い色。
それが黒く長い髪であり、人間の頭部だと気づいた時から、私の記憶は飛んでしまった。パニック状態だったのだろう。
気づいたら家を出ていた。
そして、電車に乗っていた。
心臓の鼓動が激しい。
それなのに、指先は凍えるように冷たく冷えている。背中から震えが止まらない。
目を閉じても、開いても、炊飯器の中の黒い頭部が蘇る。頭、耳、髪の色。
母親ではなかったか?
課題は提出できたものの、具合が悪くて結局学校を早退した。
しかし、不安はすぐにかき消される。私の恐れをよそに、家に帰るとちゃんと母はいたのだ。
リビングの奥にあるキッチンで夕飯の支度をしていた。
父はまだ居なかった。
「朋希、おかえり。学校から電話あったよ。具合悪いんだって?」
「うん、少しだけ」
いつも通りの調子の母に私は一気に安堵して、キッチンラックを横目で確認する。
炊飯器は真っ直ぐに戻され、予約ボタンのランプが着いていた。
「熱計りなよ」
母は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫」
「何かあったの?」
私は首を振る。
「お父さんは?」
「仕事だよ?」
「帰ってきたりしてない?」
「多分してないよ」
「今朝忘れ物して帰ってきたら、いたんだよね」
「会ったの?」
「ううん。風呂場にいたみたい」
「風呂場? 使った形跡なかったけどな……」
母が首を傾げた。
「ーー疲れてるのかな」
私は苦笑いで誤魔化すしかない。
こうなると炊飯器に人間の頭部が入っていたなんてことも言いにくい。
「今日はしっかり眠りなさいね。朋希、疲れた顔してるよ」
そう言われると、ものすごく体がだるかった。食欲も全くなかった。
「うん、もう寝ちゃうよ」
「ゆっくりやすみなさい。だいたいのことは寝ればどうにかなるから」
母はいつも通りの笑顔だ。
「朋希」
パジャマに着替え、洗面所の鏡の前で歯を磨いていると、母が私を改まって呼んだ。
「お父さんに呼ばれてもリビングに降りてきてはだめだからね」
歯ブラシを口に放り込んだまま首を傾げる。
何故だろう。なんでそんなことをいうのだろう。
振り返ると、背後にいた母は真剣な眼差しで私を見つめていた。
「あなたは休まないと。だから部屋を出ないこと。いい?」
なんで?
そう訊ねようと思うより先に、
「約束して」
と、母の強い口調が遮った。仕方なく私は頷く。眠くて眠くてしかたがない。
私は再び鏡に向かい合った。そこには私しか映っていない。背後にまだいるはずの母の姿は鏡の中にない。
「おやすみ、朋希」
母の声がした後、誰もいないのに洗面所のドアは音もなく静かに閉まる。
歯磨きを終えた私は風呂にも入らず、夕飯も食べずに眠ってしまった。
夜中、ドアをたたく音で目が覚めた。
ーー朋希。
父の声だった。いつも通りの穏やかな声だった。いつも仕事が忙しくて帰宅はだいたい深夜になる。ちょうど帰ってきたところなのかもしれない。
ーー起きてるのか?
ーー起きてるよ
ーーお腹空いてない? 夜食食べる?
ーーうん。具合悪くて
嘘ではなかった。とにかく体が重い。
ーー母さんに寝てろって言われて
ーー……そうか。
しばらくの沈黙の後、父はもう一度ノックをした。
ーー朋希、お前、何か見なかったか?
(何か?)
答えようとして、私は黙り込む。だって、私は見たから。炊飯器の中の頭部を。鏡に映らない母を。
ーー何か見なかったか?
父は何を探しているのだろう。
問いに答えることなく布団に潜り込み、寝たふりをするしかない。
諦めた父が去っていく足音を聞きながら、私は母の言いつけ通りにそのまま眠った。
いつも通り朝起きて、二階の自室から一階のリビングへ降りると、私はその場に立ち尽くした。
どこかで見た映像だったキッチンラックの炊飯器が棚から少しはみ出て、斜めになっている。
嗅いだこともない嫌な匂いが沈んでいるリビングを横切り 、足取り重く炊飯器の前に立った。
私は炊飯器を開けた。
黒くて長い髪が入っている。白髪交じりだ。
それが母の頭部だと気づくのに時間はかからなかった。
叫び声を上げ、父を探した。父はもうどこにもいなかった。
私は警察に電話をし、玄関の外でしゃがみ込む。
灰色の雲から雨は滴り落ちて、柔らかく視界をぼやかしていく。
警察に事情を話した後、父はすぐに見つかった。逃亡に使った車のトランクに母の亡骸を隠して。
「働かない妻は役立たずで、いらないから殺した」
それが父の理由だった。
父は父の実家に無心され、ずっと高額の仕送りをしていたらしい。追い詰められた父は眠れなくなり、家族に隠れて通院していたという。あの朝リビングで見た薬は睡眠導入薬だったのだ。ボロボロになりながらも自分の家族の生活費も稼ぐために必死に働いているのに、母はいつまでも暢気に専業主婦をしていたのが許せなかったという。助けてほしかったという。
父は可哀想な人だった。
あの日の朝、突然帰宅した父に母は殺されていて、私が忘れ物を取りに戻った時には死んでいたことになる。
父は風呂場に母の亡骸と慌てて隠れた。
頭部だけ炊飯器に入っていた理由は、父もわからないらしい。夜中に私の部屋を訪ねたのも失くなった頭部を探していたかららしい。
母が私に見つけて欲しくて自ら炊飯器に隠れたのかもしれない。私はそう信じている。現実的に考えれば気が動転して父が入れたと考えるのだろうけど。
学校から帰った後、私が会った母は体調不良で見た幻か、寝ぼけてみた夢か。それとも、はっきりと見えるタイプの幽霊だったのか。
もう、なんだっていい。
証明はできなくても母に守られた確信だけはあったから。
あの夜、もしも父も会っていたら?
もしも母の言うことを聞かずリビングへ行っていたら?
そこに母の亡骸があったのだろうか。
私はどうしたんだろう。
私も一緒に逃亡したのだろうか。
私も殺されただろうか。
だから、母は言ったんだ。
ーーお父さんに呼ばれてもリビングに降りてきてはだめ、と。
周囲は悲劇の中心である私に同情的だった。
一部の何も知らない人間が無責任に、
「お母さんを殺したのはあなたなんじゃない?」
なんてことを言い散らかす。
でも、そんなはずはない。
だって母は家にいるから。
私は今夜も寝る前に必ず炊飯器を開ける。シルバーのボタンを強く推して、内蓋を細かく揺らしながら。
米は炊くわけではない。母に挨拶するためだ。
「おやすみ、母さん」
炊飯器の中で黒い髪の頭部はくるりと振り向き、母はその顔を見せた。優しく微笑んでいた。
面会が叶ったら、炊飯器の母を父に見せに行こう。きっと喜ぶだろうから。