2 風刺劇ミスティエリス
結いあげた銀髪を黒いレースのラペットが飾る。
しっとりと濡れたような黒い絹のドレスは彼女の白い肌を際立たせ、大きく開いた胸元はラペットと対になっている繊細な白いレースで縁どられている。スカート部分は鳥籠型にふくらみ、女性的な優しいラインを描いて足元まで落ちていて、その曲線と男性が履く革靴にヒールをつけた特製の靴がお互いの魅力を引きたてていた。
舞台の上に現れた彼女はまさに女神。
シャンデリアの光を浴びて舞台に立つ彼女を見て、だれもが感嘆の溜め息をつかずにはいられなかった。普段の彼女──そして、これからはじまる劇の内容を聞き知ってはいても。
「──《手に入れられるものを欲して、なにがいけないのかしら?》」
言い寄ってくる男たちを次々と手玉に取り、捨てていくミスティエリス。彼女には善良な妹がいるが、妹の忠告にも彼女は耳を貸さない。それどころか幼いときから将来を誓いあっていた妹の婚約者すら奪い、いままでの男たちと同じように捨ててしまう。
どれだけ察しが悪い客にもこれはミスト自身のことだとわかっただろう。やりすぎに感じる描写も観客にとっては刺激的な見世物でしかない。令嬢たちはくすくすと笑いあい、当事者である貴族の男たちは席で青くなったり赤くなったりする。
それをボックス席で鑑賞しながらネルフィは満足していた。
さすがあの脚本家はいい芝居を書く。衣装も上等だ。彼女が美しければ美しいほど、言動の非道さが浮きあがって見えるというもの。
舞台の上にいるのは、神すら救済を拒むほどの悪女──。
これでアオギリも理解したはず。芝居が終わったらすぐにさっきの求婚を取り消すだろう、と姉が演じている芝居に胸を痛めているそぶりをしながらネルフィはほくそ笑んだ。そう、これでアオギリの恋は終わり。
──そして、裏切られて傷ついている彼を……
私が慰めればいい。そう思いながら、クライマックスに近づいていく芝居をネルフィは食い入るように見つめる。彼女の被害に遭った貴族たちが結託してミスティエリスに殺人の罪を着せて裁判にかけるシーンだ。
クライマックス。ここで彼女は死刑を宣告される。
いままさに彼女に判決が下されようとしていたときだった。
「──その裁判、少々お待ちいただけますか」
明朗とした声が劇場中に響いた。
客席最前列にいた男が立ちあがり、舞台の上へとひらりと上がる。黒髪に長身のその男は、
──アオギリさま……?
ネルフィは呆然と成り行きを見守るしかなかった。
「まず事件が起きた時間ですが、その時間、彼女は私の部屋におりました。これについて証言できるのは私のみです。しかし──」
偽造されたダイイングメッセージ、彼女の部屋にあとから置かれた凶器の存在など彼は指摘していく。
アオギリの乱入に舞台の上は唖然としていた。それでも、ミスティエリスにもてあそばれた貴族を演じているのはプロの役者たちだ。見目麗しい男が舞台に登ってきたのをハプニングではなく演出と受けとったのだろう、「だが、事件当夜彼女を見たという証人がいるんだ」と即興でアオギリに反論する。
「その証人ならば真相を吐きましたよ。あなたに金をにぎらされたことも含めて」
「なっ……!」
「正直に言いなさい。──これは、あなた方の個人的な恨みによって仕組まれた裁判ですね?」
役者たちはちらりとアイコンタクトを取る。このまま話の流れをアオギリが持っていこうとしている方向に合わせたほうがいいと確かめあい、「その女は私たちをもてあそんだんだ……!」と叫んだ。
「だから復讐してやった。これくらいされても当然だ!」
「殺人の罪を着せ、処刑台にかけるのはやりすぎでしょう」
なにが起きているの、とネルフィは困惑していた。こんな展開、脚本にない。
アオギリさまがお芝居に参加しているのはどうして? 話がおねえさまをかばう方向に進んでいるのはどうして?
なにが起きているの、とミストも困惑していた。アオギリが突然舞台の上にあがってきたと思ったら予定にないセリフを言って場の流れをコントロールしはじめた。ミスティエリスの死刑を止めるために──。
シャンデリアの光を浴びた彼はいままでで一番美しかった。セリフに感情を込め、身振りをつけて観客の視線を惹きつけている。このひとはいったい何者なのだろう、と彼の横顔を見つめながらミストは思わずにはいられなかった。
「ミスティエリスさまは無実です。ほんとうに罪を問われるべきなのはあなた方だ。ひとりの貴婦人を殺害し、その罪をミスティエリスさまにかぶせようとした……」
あなた方の裁判は後日行われるでしょう。アオギリはそう宣言し、「いままでのあなたの罪はこれから償えばいい。私のそばで」とミスティエリスに言って手を差しだす。
即興で発言を求められたことにミストは戸惑ったが、もう芝居の流れというものができている。ここで彼女が言うべきセリフはただひとつだった。
「──あなたがそれを赦してくださるのなら……」
ミスティエリスが彼の手を取ったところで舞台の幕が下りる。
ブーイングこそ起きないが、客席からはなぜ悪女を処刑しなかったのか不満に思うようなおざなりな拍手が響いてきていた。熱心に手を叩いているのは巻き毛のかつらをつけた役者たちだけ。
「お疲れさまでした、ミストさま。貴族さまがこんなに演技が巧いだなんて知りませんでしたよ。兄ちゃん、あんたもすごかったな。役者か?」
「……いえ、ちがいます」
「いい芝居だったな。あんたがきてくれてよかった、こっちのラストのほうが演ってて楽しかったよ」
砕けた口調で口々に言い、役者たちは「客たちが観たかったラストじゃないんだろうが──カーテンコールまでちゃんとやろう」とミストとアオギリをうながす。
ミストはまだ彼の手のひらに自分の手を置いていたことに気づいて放そうとしたが、アオギリにその手をにぎられてどきりとした。
「アオギリさま……?」
「……私は軽率なことをしたのでしょうか」
「そのようなことは」
客席にいるのはミスティエリスの処刑を望むものがほとんどだっただろう。幕の向こうから聞こえる意味ありげなざわめきが彼女の胸を刺す。
──死ねばよかったのに。だれもがそう思っている気がした。
「そのようなことは……けして。けしてありません」
もし悪女がシナリオ通り処刑されていたら。
今頃、劇場は万雷の拍手で満たされていたはずだ──。
「ならよかった」
ミストの嘘にアオギリはほっとしたように微笑む。そして、「私はいつでもあなたを助けます」と幕が上がる直前に彼女にささやいた。
「たとえ、それが虚構の中だったとしても──」
翌朝、彼が目にしたものはミストの首吊り死体だった。




