6 「あなたを離したくない」
ひとしきり泣いたあと、化粧を直したいからとファーンはミストの部屋をでていった。化粧だけでなく憑きものまで落ちたようなすっきりした顔で。
あの様子ならもうミストの毒殺をたくらむことはないだろう。ありがとう、とミストはドアの前に立っているアオギリに言う。
「あなたのおかげです。私の死も回避できたし……あの子にきちんと謝ることができました。ありがとうございます」
「……いえ、私はなにも」
「うそばっかり」
【死に戻り】の異能を使って助けてくれたではないか。「あなたがいなければこの未来はありませんでした」と言うと、照れたように視線を逸らす。
「私はほんとうになにも……」
「ふふ、ではそういうことにしておきましょうか」
ミストはふたを閉めた口紅を手の中でもてあそぶ。
この中に詰まっているのは、悪意だ。悪女の心ない言動に傷つけられた人々の。
ミストを殺したいと思っている人間は──ファーン以外にもたくさんいるだろう。
「私……」
ぽつりとつぶやいたとき、アオギリがそばにきたことに気づいてミストは顔をあげた。
「あの……?」
いまにも体が触れそうな距離に戸惑っていると、「──私は」とアオギリが言う。
「これで終わりだとは思いません。今夜はあなたの二十歳の誕生日という特別な夜です。あなたはまた命を狙われてしまうかもしれない」
「……そう、ね」
「だからこのまま私がおそばにいます。あなたになにかあっても、私の異能を使えば最悪の事態は回避できる。どうかこのまま私にあなたの護衛を、」
そこで彼の言葉が途切れた。「いえ……」アオギリは首を横に振ると、わずかに瞳を熱っぽくして言い直す。
「正直に言います。……このまま護衛を続けさせてください。あなたのおそばにいる理由がほしいのです」
「アオギリさま……?」
「俺は────あなたを離したくない」
思いもよらなかった言葉にミストはきょとんとする。
次の瞬間、ミストは彼に抱きしめられていた。
「え……? あ、あの……?」
「この前は嘘をつきました。あなたが殺されたとき、ほんとうに俺は死ぬつもりだったのです」
「……!」
「異能の発動を見越してのことではなかった。すくなくとも、一度目は。……あなたを守れなかった自分を俺は赦せなかった」
「アオギリ、さま……」
「いま、あなたがこうして生きてくれていることがどれほど嬉しいか。お礼を言うべきなのは俺のほうです」
どうして彼はこんなに強くミストのことを想っているのだろう。戸惑ったが、彼に抱きしめられることに不快感はなかった。むしろ……
「このままおそばにいさせてください。ミストさま……」
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すぐには無理かもしれない。でも、いつか鏡の中にいる自分を愛せるときがくるだろう。
あのひとが言ってくれたとおりに。
用意された客室でファーンが崩れた化粧を直していたときだった。とんとん、と部屋の扉がノックされた。
「はい?」
アイシャドウを塗りなおそうとしていた手を止めてファーンは振り返る。そこにいた人物の顔を見て、今度こそファーンは白目をむいた。
「あ、あ、あなたは……!」
来客は部屋の中にずかずかと入ってくるとファーンの顔を手でわしづかみにする。そしてこうつぶやいた。
「彼女と同じ苦しみを味わいなさい」
「あ、あっ、ああああ……っ!!」
ファーンの悲鳴はだれにも届かなかった──。
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「……あの、苦しいです。アオギリさま」
このままでは何時間でも抱きしめられそうだと思い、ミストがそっと申し出ると「す、すみませんでした!」とアオギリはあわてて彼女を離した。顔が赤くなっている。
「ご婦人にこのようなことを。申しわけありません、腹を切ります」
「や、やめてください!」
彼は本気でやりかねない。
「それに私はべつに……嬉しかっ……」
「え?」
「な、なんでもありませんわ!」
ミストは胸の前で手を握りしめる。毒入りの口紅の存在をそれで思いだし、ふっと息が苦しくなった。
──私が悪女でいるかぎり、私は命を狙われつづけるにちがいない。
それがいやならばこの演技をやめることだ。けれど──ネルフィがいる以上、自分が素顔を晒すことはけしてできないだろう。悪女は死ぬまで悪女のままだ。
……ほんとうに?
「ミストさま──」
アオギリが手を伸ばし、ミストから口紅を受けとる。彫金がよく見えるように手の中でくるくる回した。
「これはすずらんですね。毒のある花として有名です。……ある種、殺害予告にも取れますが」
「…………」
「花言葉はすばらしいものばかりですよ。『純潔』や『幸福の再来』、そして──『再生』です」
「再、生……」
アオギリはミストを見てうなずく。
「これからやり直せるでしょう。ファーンさまも、……ミストさまも」
「…………」
「悪女の仮面を外してください。あなたはほんとうはそんなひとではないと俺は知っています」
「アオギリさま、あなたは……」
彼は質問を避けるように首を振る。そして、すずらんの模様が入った口紅を霧の向こうにある陽光にかざした。
再生の意味を持つ花は儚くも美しく輝く。
「ここから始めましょう。
だれのためでもない、あなたのための物語を」
【第一章 完】