3 誕生日パーティは敵だらけ
濃い霧が薄れたころにミストは再び大広間へと足を踏みいれた。黒いドレスを身にまとった彼女を招待客たちが拍手で出迎えるが、その笑顔の裏にあるものをミストは考えずにはいられなかった。
──この中に私を毒殺した相手がいるかもしれない。
ミストたちにとっては二度目の誕生日パーティ。けれど、犯人にとっては初めてのことだ。
そこに私たちのアドバンテージがあります、とアオギリは言った。
ミストが着ているドレスは流行りのウエストを絞ったデザインだ。スタイルが崩れることを気にして今日は朝から飲みものしか口にしていない。
そのことを彼に話すと、『飲みものは吸収が早いですから……』もしそこに毒が入っていたら昼までに効果がでていただろう。なので毒が入っていたのはミストがパーティで口にいれたものに限られる、と推測を述べた。
──あの夜はなにを召しあがりましたか?
──ワインだけよ。赤ワインを一杯、それだけ
では、とアオギリは確認するように言った。
──毒が入っていたのはそのワインにちがいありません。容疑者はワインを用意した執事と、あなたのそばにいた方々ですね
──グラスはランダムに選ばれたものですから、グラスに細工をするのは不可能でしょう。ワインも同様です
──毒は執事がワインをそそいでから、あなたが飲むまでの間に混入したと考えられます
そう聞いてミストの腕に鳥肌が立った。パーティの最中、つかずはなれずミストのそばにいたのは……
──私は離れたところでミストさまを見張ることにします。怪しい動きをしているものがいればそのものが犯人。していなければ執事が犯人です
──ワインは飲まないほうがいいのね?
──そうですね。あなたのことを、もう二度と辛い目に遭わせたくない
まっすぐに言われてミストはたじろいだ。ミストを知る人間だれもが彼女に対して苦しめばいいと思っているのに。
──変わったひと……
口々に祝いの言葉を述べてくる貴族たちに微笑みを返しながらミストは思う。
さっきからさりげなく彼の姿を捜しているが、あの黒い青年は見つからなかった。上手く人込みにまぎれているのだろう。
この世界には敵しかいないと思っていた。ミスト自身、そうなるよう生きてきたのだから。
でももし、彼がほんとうにミストの味方なら……。
「…………」
だれかを信じるなんてとっくにやめていた。
両親も信頼できると思った侍女も友人の顔をして近づいてきた令嬢も。だれもがネルフィの味方で、かれらに話したことはすべて妹に筒抜けになるのだから。
そして『悪女』の自分を冷たい目で見る──。
これからもそれは変わらないと思っていた。けれどアオギリはちがう。……ちがってほしいと、願ってしまう。
──アオギリさま、とミストは声にださずに問いかける。
あなたは私を救ってくれるのですか? この、悪女の私を……
「おねえさま!」
ぱっと花が咲いたような可憐な声が背後から聞こえてきた。あの夜と同じ、純白のドレスを着たネルフィが笑顔で近寄ってくる。金髪と澄んだ青空のような瞳も相まって天使のようだ。
これからずっと。ネルフィは、ミストにワインの染みを作られるまで姉のそばにいることになる。
──まさかネルフィが? 天使のような無垢な顔を見ながら、ミストは警戒を強めずにはいられなかった。
もう十年以上前の話だ。
ミストにはある秘められた力がある。それが目覚めたときそばにいた妹相手に暴発してしまい──結果的に被害はなかったのだが、ネルフィは赦さなかった。ミストがどれだけ謝っても。
──ぜんぶお姉さまのせいじゃない!
──待って、ネルフィ。あなたの力は……
──そんなのもう遅いわ。私はお姉さまに奪われたの
──だから──
──これからのお姉さまの人生、私が奪ってもかまわないわよね?
そうしてネルフィは姉を支配下に置いたのだ。
表ではミストに悪役であることを強要し、裏では下僕のようにこき使う。それがネルフィの復讐だった。
──お願い。もう赦して
陰でそう懇願したことは一度や二度ではない。けれどネルフィは鼻で笑い、『いいの? おねえさまが私にしたこと、おとうさまとおかあさまにばらすわよ』と姉を脅すのだった。
ミストの特別な力──この世界では異能と呼ばれている──は忌むべきものだ。
──この異能をふたりに知られたらどう思われるか……。想像するだけで恐ろしく、ミストは妹の言いなりになりつづけるしかなかった。
二十歳の誕生日という、記念すべき今日でさえも。
「あらためて二十歳のお誕生日おめでとうございます、おねえさま。やっぱりおねえさまは黒がお似合いですね」
──だから黒以外は着ないでね。ほかの色はぜんぶわたしのものだから。
いつかネルフィに言われた『戒律』が頭をよぎる。
「……悪女にはふさわしいって言いたいんでしょう?」
「そ、そんなことありません! 悪女だなんて……おねえさまはほんとうは優しいってこと、わたしは知ってますから」
自分で命じておいて厚かましい。けれどミストに言いかえすことは許されていない。
「ネルフィさまは内面まで天使のようね」「ほんと、ミストさまと血が繋がっているとは思えないわ」とだれかがささやく。
これも前回のパーティと同じだ。ミストはデジャビュを見ているような気分になる。
そして、前回と変わっていなければ……
「ミストさま、ネルフィさま。ワインをどうぞ。ミストさまの生まれ年と同じ、ヴァーガミヨン産でございます」
執事長のバロンが恭しくトレイに載せたワインを差しだしてくる。
──もうここに毒は入っている? ミストは一瞬ためらったが、なんでもない顔をしてグラスを手に取った。そして残ったほうをネルフィが取りあげるのを見て気がつく。
どちらのグラスをミストが選ぶかはバロンにはわからない。ネルフィが毒入りワインを飲んでしまう可能性があるのに毒を入れるだろうか?
だれにでも優しいネルフィは使用人たちからも愛されている。もちろん、老執事からも。誤って彼女を毒殺してしまうかもしれないのに彼がこのタイミングで毒を入れることはないだろう。
──ということはこのワインはまだ毒入りじゃない。
毒が入れられるのは、ここから。
「おねえさま。お客さまにぜひご挨拶を」
「ええ……」
主役であるミストがなにも言わないのは不自然だ。これも前回同様、大広間の中心に進みでて、ミストは二十歳の誕生日を無事に迎えられたことへの感謝を述べる。ネルフィは従順なメイドのようにつきしたがっていた。
「それではおねえさまの二十歳の誕生日を祝して──」
乾杯、とネルフィに合わせて客たちが唱和する。一斉に傾けられるワインやジュースのグラス。
その中でミストは動けなかった。まだここに毒は入っていないはず。そう思っていても。
「……おねえさま? 飲まれないのですか?」
グラスから唇を離してネルフィが問いかけてくる。
その顔は──純粋に不思議がっているようにも怪しんでいるようにも見えた。ええ、とミストは形だけグラスを口元へ持っていく。
飲むふりだけをしてすぐに離した。
それに気づいているのかいないのか、「見てください、おねえさま」とネルフィは大広間の一角を指さす。そこには金髪の中年貴族がいた。
「あちらにいらっしゃるのはヘルマンさまではありませんか? おねえさまにあれほどひどい目に遭わされたのにいらっしゃったのですね……」
ネルフィに言い寄っていた侯爵だ。それをミストは誘惑し、自分に夢中にさせたところで捨てた。ネルフィの計画通りに。
ミストは悪意を込めた──込めたように見える──笑みを浮かべる。
「ええそうよ、あなたもよく見覚えがあるでしょう? ほかにも私の元愛人がいるわよ」
「まさか……」
「みんな、私の誕生日を祝いにきてくれたの。楽しみね」
ミストと過去に浮名を流した貴族たちにも招待状を送ることを思いついたのは、もちろんネルフィだ。
ミストにもてあそばれた男たちがこの記念すべき日に一堂に会したらどうなるか。ネルフィは楽しみで仕方なかっただろう。
「あなたこそ自分の男は呼ばなかったの?」
「え?」
「ボリスよ。あの頭の悪そうな男」
「……そんなふうな言い方しないでください。それに、彼はただの友人ですわ」
「どうだか」
あの男と来たらほんとうに──とミストはボリスの悪口を並べたてる。
ボリスがただの友人であることはミストも承知だ。左頬にあるほくろがある特徴的なその男はいまいち軽薄で、ひととして信用するに足りない。ネルフィが相手にするはずもなかった。
パーティとネルフィが好きなあの男がここにきていないはずはないのだが。相手をするのが面倒で妹はあえて招かなかったのかもしれない、とミストは思った。
それからワインを持っていることをすっかり忘れたふりで周りの貴族にもボリスの話を振る。──毒を入れる隙をつくるためだ。
ネルフィは聞いていられないというふうにミストの腕に触れた。
「おねえさま、もうやめてください。こんなおめでたい席なのですから。それより、ワインのおかわりでも……」
言いかけて、ネルフィはミストのワインが減っていないことに気がつく。
彼女の目がすっと細められた。
「毒なんて入っていませんよ?」