3 罪が清算されるとき
『その場所』でミストはひとりの男と対峙していた。
かつてはだれもが振りかえらずにはいられない美貌を持っていたことを窺わせるが、いま男の顔にあるのはその名残のようなものだけだ。目の下には濃い隈ができ、高い鼻の下にある唇はぐにゃりとひしゃげている。顔には無数のしわが走っていて、体は幽鬼のようにやせ衰えていた。
あれはなんのパーティだったか。十一年前、ミストはこの男と知り合った。身分は申し分なく、パーティに集まった男の中で一番美しかった。
だからネルフィはささやいた。姉の体に巻きつけたばかりの見えない鎖をひっぱり、『ねえ、あのひとを誘惑してきてよ』と。
──いやよ。私から男のひとに声をかけるなんて。それに年が離れすぎてるもの
──口答えするの?
当時の会場には母と父の姿もあった。かれらはふたりの姉妹──とりわけ器量がよく、芯はつよいが穏やかな性格をした姉を溺愛しており、ネルフィはそのことを敏感に感じとっていた。
ばらしちゃうから、とふたりのほうをちらっと見てネルフィは言う。『おかあさまもおとうさまも、そうしたらおねえさまのことを捨ててしまうかもね』
それだけはいやだった。だからミストは黒いレースの手袋をはめた手を胸の前でぎゅっとにぎりしめ、恥を忍んで自分からその貴族の男に声をかけたのだった。
「ひどいじゃないか、ミスト」とガウデンツィは笑う。
爵位を継いで伯爵となったはずだが、あまりにも精神状態が不安定なため実務は弟がおこない、彼はほとんど家に閉じこもる生活を送っているという。その証明のように肌は蒼白い。
彼の部屋の壁中にミストの絵が飾られているというのはだれから聞いた噂話だったか。もう忘れてしまった。
「僕は待ってたんだよ。きみがきてくれることを。でも結局きみはひとりで帰ってしまったね、どうしてだい?」
「…………」
「ああ! 謝らなくていい。きみにもきっと事情があるんだ。僕はわかっている。だいじょうぶだよ。僕はきみの理解者だ」
十年以上前、まだあどけない少女にガウデンツィは夢中になった。
賑やかなパーティ会場を抜けだし、二階のバルコニーでふたりきりで語りあうころには彼はいまの婚約相手を振ってミストを選ぶつもりになっていた。
さすがにそこまでは──。ミストは身を引こうとしたがそれが却ってガウデンツィの執着心を煽り、このまま僕の部屋に行こう、夫婦というものがどういうものなのか教えてあげるよ、と美しい顔に得体のしれない輝きを覗かせて言いつのってきた。
当時のミストでもそれがおぞましいものであることはわかった。準備をしてからいきますから、あなたは先にお部屋に戻っていらしてと言って彼と別れ、その夜は自分の部屋に鍵をかけて閉じこもり、翌朝はまだ周囲が薄暗い時間に『体調を崩したから』と言って先にひとりで住居である屋敷へと逃げかえった。
それからガウデンツィは婚約者を捨て、ミストに外聞を憚らない熱烈なアプローチをしてきた。その様子はゴシップ誌に面白おかしく書きたてられ、『ガウデンツィとミスト』は少女にみっともなく言いよる男の代名詞となるほどだった。
──世間は男のほうを嘲っていた。このときは、まだ。
けれど似たようなことが二度三度と繰りかえされるうちに原因はミストにあるとだれもが気づきはじめ──悪女の醜聞が広まりはじめた。まだ九歳の女の子が、と擁護しようとするものも彼女の美しさを知ると口をつぐんだ。大の大人でも手に入れたくなるほどのものを彼女は持っていたから。
メッセージカードに書いてあった最古の罪。
たしかに、ミストの悪女としての始まりはガウデンツィを妹に言われるままにたぶらかしたことだったが──。
「でも、ならどうしてあなたはここに……」
ミストが訝しげにつぶやいた言葉はガウデンツィの耳には入らなかったらしい。薄暗い中、「さあ、僕たちの恋をやりなおそう」と両手を広げる。
「あれから僕はきみのことだけを考えてすごしてきたんだ。妻の座は空けてある。一夜の過ちくらい僕は許すよ。寛容なんだ。さあおいで、ミスト」
「……あなたは」
いまの彼を刺激しないほうがいい。わかっていてもミストは言わずにはいられなかった。
「とても──とても可哀想なひと」
ガウデンツィはかくんと首を傾げる。
「どうして? 僕はずっときみだけを想ってきた。それはとても素晴らしい時間だったよ。可哀想なんじゃないさ」
「あなたが見ている私なんてどこにもいないのに」
「きみならここにいるじゃないか。さあ、夫婦になろう」
ガウデンツィは懐から果物ナイフを取りだす。キッチンからくすねてきたのか。
小さな窓から入ってくるかすかな陽光にそれは鈍くきらめいた。
「これで僕ときみは永遠だ」
「…………」
「そうだ、ミスト。今日はいろんな人間を用意している」
「え……?」
ぎし、と梯子が軋む音がした。
埃っぽい小部屋に続々と男たちが入ってくる。
すべてミストが過去にもてあそんだ男だった。
「よう、ミスト。また俺の目を盗んで男と密会してんのか?」と浅黒い肌の男が笑い。
「まあまあ、いいじゃないか。女の浮気を許してこそ男の器が計れるというもの」と恰幅のいい中年の男が諫め。
「どちらにしても、ここでもう彼女の不貞も終わるということには変わりませんからね」と知性を感じさせる細身の男が言った。
みな一様にナイフを手にしていた。
ほかに共通しているのは、尋常ではない瞳の輝き──。
《貴女の罪が清算される場所》
あれはそういう意味だったのか。死をもって償え、と。かつての男たちに刺されて死ぬことで罪を清算せよ、と言いたかったのか。
いままでだれかに殺意を向けられたことはあった。けれど、いままでのそれとこうして目にしているものはなにかが決定的にちがっていた。対峙しているだけで体の自由を奪われ、喉元にナイフを突きつけられているようだ。
ガウデンツィを先頭にして男たちは近づいてくる。
だれも止めようとは言わない。浮かれたような妙な笑い声を立て、ミストをじりじりと追いつめてくる。
……ああ、と壁際まできたときにミストは思った。ここでほんとうに終わり。もう逃げられない。
男たちはミストに体にナイフを突きたてるだろう。
裏切られたぶんだけ。彼女を愛していたぶんだけ。何度も、何度も。
それはすべて自分がやってきたことが原因だ。
その報いなら受ける。ミスト・ファジーフィールドは──悪女なのだから。
だけど。
『あなたはほんとうはそんなひとではないと俺は知っています』
彼はほんとうの自分を見てくれた。悪女の仮面を外せと、新しくやりなおせと言ってくれた。
その言葉だけは裏切りたくない。
「……好きになさいな」
凶器を持った男たちに囲まれ、それでも毅然とミストは言いはなつ。
つんと顎をあげて。彼らを捨てたときと同じ、冷たい光を瞳に宿して。
「あなた方は私を殺せるでしょう。この体を好きにすることもできるでしょう。ですが、それは私のほんとうの死ではありません。
私に死を与えることなど────あなた方には不可能です」
その堂々たる宣言は狂気に満ちた男たちが一瞬黙りこむほどだった。
沈黙のあと、「……それが最期の言葉かい?」とガウデンツィが言ってナイフをにぎりなおす。刃が自分の体に食いこむのは時間の問題だった。
ミストはまぶたを閉じた。
思いえがくのは、ここにはいないひとりの青年の姿。
彼女はにぎりこんだ左手の薬指をそっと立てて──死ぬまでずっと、彼の指の力強さだけを思いだしていた。




