0 アオギリの後悔
アオギリはそれまで前世のことを忘れていた。
「見ろよ、またファジーフィールド家の長女が噂になっている」
「また?」
「ああ、おまえは初めてだったか」
寄宿舎で友人が見せてきたのはゴシップ誌だった。そこには悪意を持って描かれた風刺画と見るものの好奇心を煽る煽情的な文章が印刷されている。
またおまえはこんなものを読んで、と普段のアオギリなら眉を顰めるところだった。だが。
「ミスト……ファジーフィールド……」
彼女の名前を見たとたん、彼は自分の前世を思いだしたのだった。
──あなたはぜったい噂に惑わされてはダメよ
それが母の口癖だった。ショートカットがよく似合う、すらりとした背の高い母は外を歩くときはいつもアオギリの手をにぎってくれていた。左手の薬指のシルバーリングはいつもきれいに光っていた。
──あなたは真実を見なさい。そして、苦しんでいるひとがいたら必ず味方になってあげるの
母はむかし舞台女優だった。
舞台映えする長身や美しい容姿だけでなく演技力も評価されており、劇団の要となっていたが、主宰と不倫しているという噂を流されて辞めるしかなくなった。
噂の出所は主演女優の座を争っていたライバル女優だったのではないか、と彼女は推測していたようだ。母の死後見つけた日記にそう書いてあった。二重線で消されてはいたが……
そんな過去があったからだろう、彼女は嘘や無責任な噂をきらっていた。怖がっていた、というのが正しいかもしれない。保身や一時の娯楽で吐いた言葉がだれかを追いつめてしまうことを。
アオギリが物心ついたときにはもう父はいなかった。心臓の病気だったという。
一度、仏壇の前で母が父の写真立てを指でなでていたことがある。そのときの母は、いつものハキハキしていてよく笑う彼女とは別人のようで──その細い背中を見たときアオギリは初めて思ったのだ。俺がおかあさんを守らなくちゃいけない、と。
──悪いひとがきたら俺がやっつけてあげるよ!
おもちゃの剣を振りまわして宣言するアオギリに母は微笑んだ。※※くんは騎士なんだね。きし? 特別なひとを守る男のひとのことだよ。
うん、俺、きしだから。おかあさんを俺がずっと守ってあげる。アオギリが小指を差しだすと母はそれに小指を絡め、約束だね、と言った。
──ゆびきりげんまん、嘘ついたら……
母はふたりで暮らしていたアパートのすぐ近くで事故に遭って死んだ。アオギリを幼稚園まで迎えにきて、ふたりで手を繋いで一緒に帰っている途中だった。
──危ない!
その車は道の隅を歩いていたふたりに向けて突っこんできたのだった。運転席に座っている男はぐったりとハンドルに突っ伏していた。
なにが起きているかわからなくて固まるアオギリを母は思いっきり突き飛ばし、ひとりでブロック塀と車の間にはさまれた。ブロック塀はぶつかったところが無残に壊れて、灰色の破片がぱらぱらとアスファルトに落ちて、それが母の骨のようにアオギリには見えた。ひび割れて、砕けて、粉々に……
──おかあさん……?
母は即死。運転手は事故の際には既に死んでいた。だれを恨めばいいかもわからず、アオギリは親戚の家に引きとられ、金をすべて奪われたあとで施設に移された。親戚に奪われた金は保険金や慰謝料だけでなく、母がアオギリの将来のために積み立てていた定期預金も含まれていた。
あのときに戻れたら。考えない日は一日たりともなかった。
あの瞬間に戻れたら自分が母親を守るのに。そして、彼女の犠牲になって死ぬのに。
──それとも。
俺も、母と一緒に死にたかったのだろうか……
ある日、児童養護施設に地元の劇団がきた。小さな舞台の上で繰りひろげられる世界にアオギリは心を奪われ、かれらに頼みこんで劇団員にしてもらった。自分ではないだれかを演じているときだけ母を救えなかった後悔を忘れられた。
そして、十八歳のときに彼は初めて主演に選ばれる。
『時計の針は二度戻る』という海外の脚本を翻案したファンタジー劇で。
そこで彼は死に戻りの異能を持つ王国騎士となり。
悪女として有名な伯爵令嬢を処刑することになる。
初めての主演だったから脚本は文字がすりきれるほど読みこんだ。そして生まれたのが、『ほんとうにこの悪女は悪女なのか?』という疑問。
──彼女を、ここに書かれている通りの悪役として受けとっていいのだろうか……
だが脚本家に聞いても先輩役者に聞いても『ほかになにがあるんだ?』という返事しかもらえなかった。中盤で死ぬような悪役を掘り下げてどうなる? とアオギリの生真面目さに呆れるものもいた。けれどアオギリの胸には棘のように"彼女"の存在がひっかかっていた。
ほんとうは。
彼女は、悪女を演じているだけなのではないかと──。
そこで翻案ではなく翻訳版の脚本を手に入れ、彼女がなにを想っていたのかを知る。
彼女は妹への贖罪に悪女を演じていただけだということも。
──なのに処刑されてしまうなんて。
しかしアオギリひとりにシナリオは変えられなかった。予定通り稽古は進み、そして初日の幕が上がる。
ミスト・ファジーフィールドはアオギリの手で処刑された。悪女の死に観客は喝采し、次の場面へ移ったときにはもう彼女の存在など忘れていた。彼女を殺めるシーンは客にとってスナック菓子のような娯楽でしかなかった。
──ほんとうにこれでよかったのか?
初日は無事に終わり、観客の評判も上々だったがアオギリは打ちあげには参加せずひとりで河川敷を歩いていた。走りこみのときに通るルートを、自分が渡された脚本をにぎりしめながら。
『あなたはぜったい噂に惑わされてはダメよ』
──俺は劇の中で彼女を判断した。社交界に流れている噂で
『あなたは真実を見なさい。そして、苦しんでいるひとがいたら必ず味方になってあげるの』
──そして、この手で彼女の命を絶った。味方になることもなく……
ほんとうによかったのか? 自問しつづけた彼はふと胸の痛みを覚えて立ちどまる。
父と同じ心臓病だった。
…………
「どうした、アオギリ? ぼうっとして」
「ああ、いや……」
友人に顔を覗きこまれてアオギリは追想を振りきる。
そうだ。自分は、日本で俳優をやっていた。
初日の幕が上がったあとで死に──この世界に転生したようだ、と徐々に理解していく。ここは死ぬ直前に演じていた物語の世界だということを。
──ということは、俺はシナリオ通り彼女を殺すのか?
ゴシップ誌の中の彼女はこれ以上ないほど醜悪に描かれている。彼女の噂は大衆にとって気軽に消費できるエンタメでしかない。
たとえ──その裏でどれだけ彼女が傷ついていたとしても。
「おまえもさ、ミスト嬢ほどじゃなくてももうちょっと異性に興味持ったらいいのにな。なんかのパーティにでるとかさ」
「…………」
「それとももう心に決めた相手がいるとか?」
彼女について調べなければ。アオギリはそう思った。そして、やはり彼女が悪女を演じているだけだとわかったら。
──俺が、彼女の味方になる。たとえ世界を敵に回したとしても。
「……そうだな。ある意味、そうなのかもしれない」
いつか必ず彼女に会いにいこう。友人にゴシップ誌を捨てるように言い、アオギリは自分の胸に誓う。
いつか彼女に会いにいって。そして。
『ゆびきりげんまん、嘘ついたら……』
今度こそ特別なひとを守りきるのだ。
守れなかった母親の分まで。
この世界で与えられた、【死に戻り】の異能を使って。




