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どこかで、水の滴る音がする。
薄暗い路地裏の闇に紛れ込んだ少女は、行く当てもなくひとり縮こまるように座り込んだ。
空に二つの月が輝いているが、その光はここまで届かない。
人を乗せたタクシードローンのヘッドライトが傍を掠め、少女は一層身を縮めた。
(これからどうしよう……)
施設から逃げ出したはいいが、これからどうしたらいいのか見当もつかない。
追手から逃げ、何日も走り回り、食事どころか、ろくに水も飲めていない。
(でも、もう、あんなところには戻れない……)
換気扇の排気と排水の溜まった裏路地は酷く蒸し暑くて、頭がクラクラする。
何かの店舗の裏なのか、雑多に積まれたコンテナの影に隠れたまま、少女は意識を失った。
* * *
「クリス! 裏路地でなんか拾った!!」
ファングが家のドアを開けるなり叫ぶ。
焦げ茶色の短髪の熊のような大男で、粗野を絵に描いたような所作でズカズカと家に入ってくる。
「ファング、静かに入ってきなよ……無駄にうるさい……」
クリスが不愉快そうな様子で奥から出てくる。
照明を反射して青く光る銀髪のストレートヘアと、色白の肌。
完成された美しい顔立ちの中に、まだわずかに子どもの面影を残して、怠そうにファングを見る。
凹凸のないスレンダーな体型に、ぴったりしたシャツとショートパンツ、その上から銀ラメの散ったレースのロングスカートを巻き付けている。
「ほらこれ! 子ども拾った!」
「…………は?」
「裏路地に落ちてた!」
「…………………………は?」
居間のテーブルの上にドンと寝かされたそれは、薄汚れた白いマントで身を包んだ、やつれた様子の赤い髪の10歳くらいの少女だった。
「………………なに、食べるの?」
「俺はヒトは食べません!」
「イヤミだよ! テーブルに乗せないでって言ってるの!! ……どうする気なのこれ?」
「どうしようかねえ」
わはははは、と笑うファングに、クリスは頭を抱えた。
「いや、生きてるもんでさ、このままだと死ぬかなーって思ったから連れてきちゃった!」
「あー、なるほど……。うー……。まあ……、仕方ないね、なにか食べ物でも用意するよ、ヒトだよね?」
ファングはクンクンと匂いを嗅ぎ、
「ヒトのニオイだよ、少なくとも狼男でも雪女でもない」
と頷く。
「雪女がそうそういてたまるもんか。仲間が見つかったらボクはサッサと故郷に帰るよ」
クリスが指先からキラキラと光る結晶を散らして見せ、それをふいと消した。
「狼男もいたらびっくりだなあ!」
ファングがまたわははと大声で笑う。
「ファングは仲間が見つかったら逃げなきゃね」
「そうだな! 返り討ちにしてもいいけどな!」
「血なまぐさいのはやめてくれる?」
「出くわさないよう祈っててくれ!」
その時、少女が「う……」とかすかに唸った。
「お? 起きたか?」
うっすらと目を開けた少女の顔をファングが覗き込む。笑顔のファングの口の中で、牙がキラリと光った。
途端に少女は目を丸くし、飛び起きようとした。
「危ない!」
勢いでテーブルから落ちそうになった子を抱き止めて、クリスはそのまま少女の下敷きになって床に倒れ込んだ。
「クリス!!」
慌ててテーブルを回り込んで、ファングはクリスを助け起こす。
「いったぁ……。似合わないことはするもんじゃないな……。あの子は無事?」
「なんかすっ飛んでってあっちの隅っこにはまり込んでる、ケガはなさそう」
「お前が怖がらせるから……」
はあ、とため息をついて、クリスはウォーターサーバーから水を汲んで少女のそばに持って行く。
「ほら、まず水を飲んで。そしたらその汚い服を脱いでお風呂に入って、その間に食事用意しとくから」
少女はびくりと身を震わせ、身を小さくして様子を伺っていたが、喉の渇きに耐えかねて、そっとコップを受け取った。
がぶがぶと一気に水を飲みきった少女から、クリスはいきなりマントを剥ぎ取る。
「きゃあっ!」
「はいはい、あとはお風呂場で自分で脱いで。マント臭いんだよ、預かっとくからね」
クリスは眉をしかめてじっとマントを見る。
「いやっ、あのっ、マントは返してください……!」
「……なんでよ」
「あのっ……、自分で洗いますので……」
「うるさい。いいからお風呂入って。脱いだ服もドアの外に出しといて。洗うから」
「ほらほらお風呂はこっち! クリスああなったら聞かないからさっさと言う事聞くに限るよ」
「うう……」
ファングに連れられてお風呂場へ向かう少女を見送って、クリスは薄汚れたマントを丸めて洗濯機へ向かった。
* * *
お風呂から出て、クリスの服を借りてだぶっと着た少女は、テーブルに用意された食事を見て、ぐぅ、とお腹を鳴らした。
よだれを垂らさんばかりにしながらも、クリスの顔をちらりと伺う。
「……どうぞ」
と勧められて初めて、いただきます、と挨拶をして、ガツガツと食べ始める。
しばらく様子を見てから、クリスは少女に質問を始めた。
「名前は」
「んっ、ぐ、えと、……ミアです」
クリスの問いかけに、少女は食べ物を急いで飲み込んでから答える。
「親はどうしたのさ」
「……いないです」
「いない? じゃあどうやってここに来たの」
「あの……逃げて……」
「逃げて? なにか悪いことしたの?」
クリスは片眉を上げ、じろりとファングを睨んだ。
「面倒事はゴメンなんだけど? なんかあったらファングが責任とってよね」
「おう、まかせろ!」
「ホントに分かってんのかなぁ……」
クリスは頭痛がするかのようにこめかみに指先を当てる。
「あの、ごめんなさい、すぐに出ていきますので、えっと、マントを返してください」
「は? まだ洗ってて乾いてないけど」
「いいです、着てれば乾きますから……。あの、お礼は今何もできないんですけど、いつか必ず、お返しできるように頑張りますので、あの……マントを……」
「はあ? できもしない約束するやつ嫌いなんだけど!」
「あっ……、ごめんなさい……」
「お礼がしたいってんなら、うちの家事くらい手伝っていけば? そこの木偶の坊が散らかすばっかりだから大変なんだよ」
「あっ、は、はい、何でもやります!」
ガタッと立ち上がった少女を手で制し、クリスは不快げに言う。
「食事の途中で立たない! ちゃんと最後まで食べて! あとそんなヘロヘロの状態で手伝われても逆に迷惑! ちゃんと休んでからにして!」
ファングが首を傾げ、
「ん? ゆっくり食べて泊まっていけってこと?」
と、クリスに問う。
「そんなこと言ってない!」
がたん、と立ち上がったクリスは、キョトンとこっちを見ているファングの瞳に負けて、目をそらす。
「そりゃ、まあ……、結果的にはそうなるかもだけど!」
そのままぷいっと、クリスは部屋を出ていく。
「あっ、ごめんなさい……!」
後ろから声をかけたが、振り返ってもくれず、ドアは閉じられた。
不安そうな少女に、ファングは
「大丈夫大丈夫、クリスいつもあんな感じだから」
と笑って少女の頭をポンポンと撫でた。
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