第三話
「さぁ、お嬢様、身支度をいたしますよ!」
「まずはドレスですね。お綺麗な薄桃色の瞳に合わせて桃色にいたしましょう」
「髪は軽く巻いて編み込みましょうね」
「お肌はとっても綺麗ですし、容姿も整っておいでなので、メイクは控えめに」
さて、どうして私がこんな目に遭っているのか。それを説明するには約1時間前に遡る必要がある。
『見覚え、ありますよね』
『…ローレンス・カルセドニー王太子殿下、お久しゅうございます』
『あぁ、お久しぶりだね、リオーナ・ヴィラッツェ公爵令嬢』
殿下は不適な笑みを浮かべ、2週間半ほど前に捨てた名を呼んだ。もう一生、その名を呼ばれることはないと思っていたのに。
本当の身分を明かした殿下は、意気揚々と私を王家の家紋付き馬車に乗せ、王城へと連行した。そこに私の意思などなかった。そして身支度を命じられ、今に至る。
「これで完成ですわ!」
「お綺麗です、お嬢様!」
「久しぶりに若いご令嬢の身支度を担当して気合いが入り過ぎてしまいましたね」
あの日以来、初めて見た自分の姿は紛れもなくヴィラッツェ公爵令嬢だった。緩やかにウェーブを描く金色の髪も、長いまつ毛に縁取られた淡い桃色の瞳も、全てが私に諦めろ、と説得している。
身支度が整ったあと、侍女に勧められるがまま紅茶を嗜んでいると、ガチャリと音を立てて部屋のドアが開いた。その奥から姿を見せたのは、濃い紺の髪に浅瀬の海のような色の瞳をしたローレンス殿下だった。
「先刻は大変失礼いたしました。リオーナ・ヴィラッツェがローレンス・カルセドニー王太子殿下にご挨拶申し上げます」
絶対的服従を示す最上級の礼。もう王太子の婚約者ではない私には何の後ろ盾もないのだから、命乞いはしておかなければならない。一応ヴィラッツェを名乗りはしたが、実際は家を出ているのでただの一般平民だ。そんな私が王太子殿下に逆らうことなどできるはずもない。私の命は殿下の手に委ねられているのだ。
「リオーナ嬢の支度、ご苦労だった。皆は下がるように」
部屋から使用人を1人残らず退出させた殿下はソファに腰掛け、私にも座るよう促してきた。変に反感を買っては困るので、大人しく従う。
「堅苦しいのは苦手なんだ。気軽にラリーと呼んでほしい」
「!?…滅相もございません。私は殿下とお話しすることすら憚られる身分でございます」
「あまり強制はしたくないのだけれど…せめてローレンス、と呼んでもらえないだろうか」
「…承知いたしました、ローレンス様」
まぁいいか、と苦笑いをした殿下は、紅茶に口をつけて私の姿を眺めている。そんなに見られても何も面白いことはないし、緊張で冷や汗が出るのでやめてほしい。ただ、それを言えるわけはない。
「ハイドランジアで見た時よりもずっと綺麗だ。そのドレスも髪も、よく似合っている」
「お褒めに預かり光栄でございます」
男性が女性の容姿や格好を褒めるのは、ハイドランジアであってもカルセドニーであっても同じ。こんにちはと同レベルの挨拶のような社交辞令だ。
「うーん、堅苦しいな。街で会った時みたいに話してって言ったらどうする?」
「ご命令とあれば」
「今は命令ってことにしておこう。しばらくはここで過ごしてもらうことになるだろうから、少しずつ慣れていってほしい」
しばらくはここで過ごすことになる、つまりは人質として軟禁されるということだろうか。もう王太子の婚約者でもなく、ヴィラッツェ公爵令嬢でもない私を人質に取ったとしても、なんのメリットもないのに。
「ローレンス様は何をお望みなのですか?今の私に価値などありませんよ」
「そうだね、そばで話をしてほしいとでも言えばいいのだろうか」
要するに、ハイドランジアの秘密を話せということか。物心がついた時から将来の王太子妃、そして王妃になるべく教育されてきた私の中には、機密情報に近いものが多くインプットされている。それを話し、カルセドニーの役に立つのが私の役割ということだ。
「かしこまりました。何なりとお聞きください」
「ありがとう。それじゃあまずはリオーナ嬢の好きなものを教えて」
「はい…?」
「どうかした?」
「いえ、ええと、好きなものは甘いお菓子とふわふわのぬいぐるみです…これを聞いてどうするのですか」
「今後の参考、かな?」
「はぁ…?」
そこから小一時間、目的のわからない質問は続いた。全くもって機密情報ではない、ただの私の好みや、ルイード殿下との揉め事についての話だ。
「ルイード殿下との婚約破棄は前々から計画していたことでした。あの場で告げられるだろうということも予測済みでしたので、必要なものは事前に庭園の植木に隠してありました。カルセドニーに来たのも、計画のうちです。いくらヴィラッツェ公爵家でも、大国カルセドニーの領内で派手に探し物はできないだろう、と。乗合馬車の中でローレンス様にお会いしたのは全くの予想外でしたが…」
「なるほど、さすがリオーナ嬢だ。普通の公爵令嬢にはそんな発想、生まれないだろう。王太子の妃になりたいとは思っていなかったのか?」
「私にとってルイード殿下との婚約は生まれた時から決まっていた宿命のようなものでした。そこに私個人の思いなどありません。もちろん、恋心などという殊勝なものも」
私とルイード殿下の関係性は、身分によって結ばれた婚約者同士というもの。間違ってもそれ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。結果、殿下はあの演技が上手い女に心を移したわけだが、それによって私の心が痛むことはなかった。ただ、例えるならば信頼していた同志に裏切られた時のようなショックを味わっただけだったのだ。
私自身は王太子妃、王妃という地位に特段大きな関心はなく、なんとなくぼんやりと殿下の隣に立ち、国を支えていくのだと思い描いていただけだ。恋心なんてものはない。
「嫌なことを思い出させてしまってすまない。もう2度と、聞くことはないと誓おう」
「いえ、問題ございません」
苦虫を噛み潰したような顔をして謝った殿下は、腿の上に置いた握り拳に力を入れて何かを考えている様子。
「ここにいる限り、もうそんな思いはさせない。だから信じて楽しく生きてほしい。それが私からの最大の命令だ」
その日、王城の侍女たちによって湯浴みまでお世話された私は、人質としての役割を果たすことなくふかふかに整えられた大きなベッドで眠りについた。知らないところで寝れるかどうか心配されたが、揺れる馬車の中や見知らぬ宿屋のベッドでも寝られたのだ。全くもって問題はない。
それから、お昼すぎのティータイムになったら部屋に訪れるローレンス様とお話をする日々が始まった。毎日部屋に持ち込まれる大量のお菓子と動物のぬいぐるみ。こんなにもらっても余らせてしまうだけだ。
「ローレンス様、お忙しいでしょうに、毎日私のところへおいでになってもお話しできることはほとんど話しました。あとに残るはハイドランジアとヴィラッツェの機密情報だけです」
「私が来たくて来ているんだから気にしないで。あと、機密情報にはあまり興味がないかな」
やんわりと断られたが、話すことがなければローレンス様と過ごす時間が気まずくなってしまうのだ。
「それでは、私からローレンス様に質問をしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、僕に答えられることならなんでも答えよう」
「ローレンス様はどうしてあの馬車に乗って来られたのですか?」
単純に、ずっと気になっていたのだ。大国カルセドニーの王太子ともあられる方が、身分を隠して乗合馬車で帰国されたのはなぜなのか。
「もう少し秘密にしておこうと思っていたんだけれど、聞かれてしまっては仕方がない。実はあの日、私もあのパーティーにいたんだ。留学生、ラリーとしてね。当然ルイード王子とリオーナ嬢の騒ぎを見ていた。会場をあとにしたリオーナ嬢を追って城を出たから、そのまま同じ乗合馬車に乗ったんだ」
「最初から私が誰なのかお気づきだったのですね…」
「そうだね、カルセドニーについたら自分の身分を明かして、全てをリオーナ嬢に話そうと思っていた。でも君は馬車が止まった途端どこかへ消えてしまったんだ。まるで幻だったかのように」
まるで、ずっと私を追っていたかのような言い方だ。「今はこうして目の前にいるんだから、幻なんかではなかったけどね」と笑った彼の顔は、しばらく私の頭から離れなかった。
2024/05/17 誤字修正