第二話
馬車を降りた私は、真っ先に近くにあった宿屋に入った。まずは旅の疲れを癒すため、ゆっくりと休める場所を確保するべきだ。
「いらっしゃいませ、おひとり様のご宿泊ですか?」
「はい、そうです」
「それではこちらにサインとご希望の宿泊日数、食事の有無をご記入ください」
受付係らしい同い年くらいの女の子に促され、紙に必要事項を書いていく。カルセドニーまできた私はもうただのリオーナなので、もちろんサインもその名前で記入する。とりあえず新生活の基盤を築くための期間として、1週間の宿泊を決めた。
鍵を受け取って入った部屋は、ベッドと机、イスがあるだけの質素な部屋。トランクケースを床に広げれば、足の踏み場が無くなるほど。
最低限の日用品と残り少ない携行食。そして平民が1ヶ月ほどを暮らせるくらいのお金。これが今の私の持ち物だ。お金を持っているとはいえ、ずっと宿に泊まれるほどではない。何か職を探して、稼がなければ…
そこまで考えて、ベッドに倒れ込んだ。手を広げ、大の字になった私は、はしたないと誰にも注意されないことへの快感を噛み締めながら、夢の中へと沈んでいった。
自分が思っていた以上に疲れていたのだろう。慣れない長旅の疲労が癒える頃には、日を跨いで朝になっていた。
体を伸ばし、着替える。さすがにお腹が減ったので、1階の食堂で朝食をとろう。久しぶりに食べた温かい食事が、身体中に染み渡る。こんなに純粋に食事を美味しいと思ったのは初めてだ。
「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「おぉ、ありがとな」
やっぱりこの国に来てよかった、そう心の底から思う瞬間だった。
「すみません、この辺りで日用品を揃えるならどこがオススメですか?」
「そうですね、目の前の大通りをしばらく北に進むと右手に大きな商店がありますよ。そこなら低価格でほとんどのものが揃うので便利かと」
昨日と同じ受付係の女の子は笑顔で答える。お礼を言って街に出ると、その空気に圧倒された。大通りの中心を荷馬車が忙しなく行き交い、大勢の人でごった返している。さすが、大国カルセドニーの王都だ。気を取り直して斜めがけ鞄のショルダーベルトを握り、商店へと歩き出した。
女の子に勧めてもらった商店は、本当に低価格でほとんどのものが揃う店だった。可愛らしい食器なんかも並べられていて欲しくなったが、定住していない今購入しても使い道がない。グッと我慢して日用品と着替えだけを購入した。
その日から1週間、私はほとんど宿から出ることなく、心身の体調を整えることに専念した。そして宿の契約が切れる前日の今日、職を探しに再び街へと出たのだ。
「えっ…」
「あっ…」
途中、目の前に現れたのは黒髪に金眼の青年。馬車の中で着ていた外套は華美ではないものの、質の良いローブに変わっている。
「でん…」
「少し黙っていてくれ」
青年の隣にいた年上の男は、すぐに口を閉ざした。
旅の中で交わした言葉は多くない。故に親しいわけではない。だから軽く挨拶だけ交わして、立ち去ろうと思ったのに、どうして…
「どうして私はこんなところに…?」
青年に強引に手を引かれて連れてこられた場所は飲み屋のカウンター席だった。抵抗しながらも、悪いようにはしない、話がしたいだけだからついてきてほしいと言われ、従った私はなんて危機感のない人間なんだ。まだ公爵令嬢としての生活が抜けきっていないのだろうか。
青年の隣にいた男はいつの間にか少し離れた席に着席し、こちらの様子を伺っている。青年の友人か兄だろう。
「今あなたはどこで生活を?」
「数日を共に過ごしただけの相手、しかも名前も知らない人にそう易々と教えるわけがないでしょう」
「ははっ、それもそうですね。私の名前はラリー、あなたの名前は?」
「…リオーナです」
渋々答えた私は、ラリーと名乗った青年の手を眺めながら、注文してくれた果実酒に口をつける。武術の鍛錬でもしているのか、ところどころ擦り傷がある。
「リオーナ、いい名前ですね。何か探し物をしていたようですが、何をしていたのですか?」
「あなたには関係のないことですよね。お代はおいていきますから、私はこれで失礼致します」
ずけずけと女性の情報を聞き出そうとする男など、相手にするだけ時間の無駄だし危険なことこの上ない。財布から銀貨を出してテーブルに置き、席を立とうとしたその時、ボソッと、私にしか聞こえないくらいの声量でラリーが呟いた。
「…ヴィラッツェ」
「っ!?」
「話を聞く気になりましたか?」
「卑怯ですね」
「お褒めに預かり光栄です、リオーナ嬢」
ここで席に座り直したのが、全ての過ちの始まりだった。この時、とぼけて立ち去ってさえいれば、私の思い描いた平穏な生活は現実となっただろうに。
「ここは人目が多いですから、場所を変えましょう。ついてきてください」
どうしてヴィラッツェの名を知っているのか聞くまでは安心して眠れない。もしも彼がヴィラッツェ公爵家に連絡をいれてしまえば、狭い鳥籠での生活に逆戻りだ。それだけは絶対に避けなければ。その一心で私はラリーの後について行った。
飲み屋を出て大通りを南に進み、私が泊まっている宿屋も過ぎてしばらく歩いたところで、ラリーはこじんまりとした宝石店へと入っていった。
「奥、空いてますか?」
「はい、お飲み物のご用意は必要でしょうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「どうぞごゆっくり」
白髪の店主はラリーを恭しく迎え、店の奥の扉を開いた。促されるままに進むラリーの後を追って部屋に入ると、そこはテーブルセットの置かれた応接室のような場所だった。一体彼は何者なのだろうか。そしてなぜ私の名前を知っているのだろうか。
「お話、聞かせてください」
「そうですね、時間も限られていることですし、手短にお話ししましょう」
ラリーはにっこりと笑って話を始めた。
「私はこの国の住民でして、先日までハイドランジアに留学していたのです。そこであなたにも何度かお会いしましたので、お名前を存じ上げていたのですよ、リオーナ嬢」
この国に私のことを知る人は誰もいないと思ったのに、まさか会ったことがあるだなんて、想定外だ。でも、私はラリーの顔に見覚えがない。黒髪に金眼は決して珍しくないが、王太子の婚約者としてカルセドニーの留学者に挨拶をした時には見ていないはずだ。それに、ラリーなんて名前の知り合いはいなかった。
「私にはあなたにお会いした記憶がないのですが…」
「あぁ、それは無理もありませんね」
そういったラリーは、ローブのポケットから丸い懐中時計のようなものを取り出した。それを開いて、中央にはめ込まれている淡い水色の石に触れた瞬間、部屋は眩い光で満たされた。
「っ!なんなの!?」
光が収まり、恐る恐る目を開けるとそこにラリーはいなかった。私の目の前にいるのは、金髪碧眼の男性だ。
「どういうこと…」
あまりの急展開に、情報の処理が追いつかない。
「驚かせてすみません。この姿ならリオーナ嬢にも見覚えがあるでしょう」
その声の持ち主は、間違いなくラリーだった。でも、ラリーとは全く違う、別人のように変わった彼を、すぐに認識することはできない。
混乱している私を見かねたラリーは、追加で説明をしてくれる。
「これはアーティファクトと言って、遥か昔、魔法と呼ばれる不思議な力が存在していた頃に作られた物なのです。この石には使用者の容姿を思い通りに変える魔法が付与されています。それともうひとつ、この容姿も見覚えがあるのでは?」
そう言って再び石に触れた彼は、勝ち誇ったかのような表情をして言った。
「これが私の本来の姿です。見覚え、ありますよね」
「…ローレンス・カルセドニー王太子殿下、お久しゅうございます」
「あぁ、お久しぶりだね、リオーナ・ヴィラッツェ公爵令嬢」
認めたくはなかった。でも完全に、私の敗北だ。彼に楯突くことなどできるはずがない。むしろ今まであのような口を聞いていて生きていることが奇跡なくらいだ。彼は何度かルイード殿下の婚約者としてご挨拶したことのある、大国カルセドニーの王太子ローレンス様だった。