フィリピン放棄!
マリアナ沖海戦のあと、史実ではあのレイテ沖海戦になり、日本海軍主力は壊滅
しますが、もし、、、
サイパン島が失陥して、いよいよフィリピンでの決戦という雲行きになってきた。
しかし、である。
海軍航空隊はすでに有効な攻撃力を喪失している。
また主力艦艇である戦艦もまともに敵に近づくのも困難である。
さらに上陸されたら陸軍はまともな戦いをできるか、わからない。
これではフィリピンでの決戦などあり得ない。
そこで遂にフィリピンでの決戦放棄がなされたのである。
このフィリピンの放棄は南方資源地域との連絡を絶つだけではなく各地の友軍
をも見捨てることでもある。
統率上、政治上、宣伝上の問題など多数の問題がかかる話しである。
大本営では激論が交わされたが、フィリピンで更なる損失を重ねてたら肝心の
本土すら守れない、との冷静な判断が通ったのだ。
なんせ定食屋の日替わりメニューのように、各地で輸送船が食われているので
仮に増援を送ったらところで、むざむざ失うだけの可能性が高いのである。
筆者が実際、輸送船で運ばれている途中、雷撃を食らって命からがら脱出した
人たちと話を聞いたことがある。
兵長助けてください、との言葉を聞きながらの脱出でなんとか生き延びた方、
神戸沖、和田岬のあたりで機雷に触れた貨物船からなんとか脱出、続行する
船のスクリューに巻き込まれそうになりながらなんとか助かった方。
攻撃する側にしたら魚雷や機雷1発で一つの部隊をまるごと撃破できる効率の
いい話であるが、やられたほうはたまったものではない。
結局、フィリピンの放棄は、「作戦的転進」と表現されたが誰の目にも撤退と
とられたのは当たり前で、それまで景気のいい大本営発表をそのまま報道して
いた朝日新聞、毎日新聞も紙面の構成に苦慮することとなる。
それぞれ陸軍や海軍の後援を受けて、神風号(97式司令部偵察機)訪欧飛行
や、ニッポン号(96式陸上攻撃機)での世界一周飛行などの付合いもある
から、こういう時は困ったのである。
さてこのフィリピン放棄は、結局大東亜戦争末期の唯一、アメリカ軍をコケに
できた作戦となったのは、皮肉なことであった。
そう、米軍は外交暗号その他、連合艦隊の暗号、船舶関連の暗号など各種暗号
の解読で様々な情報を入手していたのだが、このフィリピン放棄だけは判断を
誤ってしまった。
そう、南方、さらにまだ他の戦域にも部隊を配置している段階でその補給線を
自ら断ち切るようなオプションは想定外だったのである。
米軍がフィリピンを奪回した段階でなら、南方の諸部隊は当然孤立するがそれ
以前に日本軍自ら行うとはおもえなかったのである。
自ら戦争を捨てるようなものであるからだ。
「これは大規模な偽電である」と判断するのが当たり前であったのだ。
米軍が進攻する前に肩透かしをしたキスカ島などの実績もあるが、あれは
北方の小さい島で戦術的撤退であり、転進と言いつくろうことも可能であった。
しかし重要なフィリピンを捨てるなんて、、。
一方で、日本軍も撤退する陸軍を乗せる輸送船とは別に「フィリピンへの増援
部隊」を送るとの偽電を出してみたりするから余計に、混乱するのである。
撤退する部隊を迎えに行く輸送船が、途中、長距離哨戒のB24に発見され攻
撃受ける例もあったことはさらに米軍の確信を深めることになるのである。
さらに厄介な「敵」も米軍の判断を誤らせ、かつフィリピン進攻を遅らせた。
アジアではおなじみの台風である。
今なら、衛星からの観測などで台風の発生から温帯低気圧になり消滅するまで
追いかけることが容易であるが、当時のこと。
観測網も粗いし、進路予測もまだ不十分な頃である。
マリアナ諸島やニューギニア方面からの米軍の進攻、輸送ルートで連続し複数の
台風が発生し、それが第58機動部隊本隊などをもろに巻き込んだ。
航空偵察もままならぬ状態がしばらく続いたし、艦艇に損害が生じたためである
特にコブラと名付けられた台風は、猛威を奮い、小艦艇を中心に大きな損害を
与え、進攻が遅れたほか、逆に日本軍の撤退を援護することにもなったのである。
詳しくは別の項で述べるが、マリアナ沖海戦の後に本土に帰還する艦隊、レイテ島
などに展開していた陸軍部隊などを乗せた輸送船などがこの米軍の混乱と悪天候に
助けられてどうにかこうにか米軍の機動部隊主力の攻撃圏外から脱出できた。
他の、哨戒機による攻撃や潜水艦による警戒も、荒天や潜水艦自身が浮上航走困難
な海上の状態では無理な話であった。
おかげで艦隊主力と主だった輸送船はどうにか助かった。
後に防衛庁の戦史研究の中で、「大東亜戦争最後の奇跡」と称されたフィリピン放棄
は成功したのである。
もし、このときフィリピンを放棄しなければ、この後の本土近傍での作戦は成り立た
なかったと判断されているからだ。
というのも、南西諸島の攻防戦で、沖縄本島が停戦に至るまで保持(主要な港湾、
飛行場は取られていたが)できたのはこのときにフィリピンから撤退してきた部隊、
器材があったためとされている。
また、航空部隊の活動に必要な航空燃料もこのフィリピン撤退の際に戻った油槽船
がもたらしたのである。(以後、南方からの燃料輸送は途絶した)
そしてこの時の台風は唯一、その助けになったと分析されているのは情けないが
事実であった。
これについては項を改めて述べたいと思う。
もし史実より台風が複数発生するとかなれば、、、なんて思いましたが。