連合艦隊はいずこにありや
さてB29の敷設した機雷で動けなかった連合艦隊は
停戦後、どうしたかです
大戦中、米軍の攻勢的航空機雷戦を仕掛けられて、逼塞していた連合艦隊はどう
していたか?
停戦後、米軍の協力を得て、軍港内から機雷除去を本格化して、さらに港口など
も啓開していったが、ようやく数か月をかけて、かつ特設掃海艇など10数隻以上の
犠牲を払いつつも、軍港の機能を回復させるにいたった。
これは、米軍も自身の補給の必要から全面的に協力してくれたからであった。
そして、各鎮守府の艦艇類を実働させて、満州で始まっている第二次日露戦争
に駆け付けたい、、、のであったが、そうは問屋が卸さない。
なんせ1年以上まともな整備をされていない艦艇ばかりである。
長いものは、マリアナ沖海戦前の整備を切り上げて出港したものもある。
それらに至っては2年近く本格的な整備もなしに放置されていたのだ。
ひどいときには軍港内で発電用の補助発電機を始動したとたんに近くに潜んだ
音響機雷が爆発する騒ぎである。
ある程度できる範囲では整備に努めたものの限界があった。
そしてようやく海軍工廠や民間造船所で修理などが始められると喜んだものの
戦争で疲弊した造船業界がすぐに立ち上がれるはずもない。
さらに困ったのは軍艦も大事だが、餓死寸前の国民に必要な食料を運ぶ船舶が
壊滅的打撃を受けており、残った船舶も老朽化、あるいは十分な整備がないまま
酷使された戦時標準船が多い現状ではどうにも。
残存した数少ない優良な商船はもとより傷んだ戦時標準船、老朽船、中には港内
で撃沈され大破着底している油槽船までサルベージして使う時代である。
ざっとの計算では開戦時の船舶保有数3000隻、さらに戦時中の建造分、
や捕獲船舶が1000隻、これだけあったのが、残りわずか1000隻。
しかも大型の優良な船舶はほぼ壊滅、残されているのは上記のような程度の
悪いフネが多いのだ。
だから今はとにかく商船の整備が最優先なのだ。
とにかく、足りていない食料その他を輸入するのが必要だし、南方に置き去りに
されている陸海軍の部隊の復員もあるのだ。
そのためすでに栄光の時代が終わった戦艦、搭載機はあっても乗員の再訓練にか
なりの日時を要する正規空母、十分な整備をしていない巡洋艦など、、、、これ
らの整備に貴重な工数をかけて復旧する暇がないのである。
したがって、まず払底している商船などの整備が最優先され、次に戦闘地域近い
佐世保、舞鶴に逼塞していた軽艦艇ですぐ稼働させれるものから整備となったの
だ。
このような整備計画がまかり通った背景には様々な時代の要請がからんでいた。
一つは何よりも「停戦」という名の「敗戦」である。
まだ詳しくは決まっていないが、米海軍筋からの情報だと、保有する艦隊の総排水
量で日本海軍の艦艇保有量を規制するというのだ。
この情報に色めき立った連合艦隊や、海軍省などの面々だがどうやら主敵としていた
米海軍が少なくとも同盟国としての存在になれば、従来の方針は放棄してよい。
とりあえず、かっての日露戦争以来、大海軍国の立場から滑り落ちたソ連が相手なら
落ちぶれた現状の艦隊でも対処できるのだ。
排水量で規制されるが、少なくとも今の日本にいるのは小型で小回りの利く対空、対潜
能力に優れた艦艇であり、いずれも大きくても3000トンで収まる程度と想定される。
(実際にはこれとても過大とされたが)
その過程で、戦艦、重巡など整理していけば節約した排水量で有効な艦隊を保持できる
と考えられたからである。
2つはこのどさくさで、艦艇の装備を刷新しようというのだ。
大戦後期に苦しまされた敵の電探、対空火器などの新しい装備を小型の艦艇に搭載しよう
という考えである。
3つは、政府部内で、「停戦」に至るまで臨時軍事費など使い放題であった軍部に対する
風当たりが強まり、大蔵省からの海軍予算削減の圧力も高くなっていたからだ。
これらの要因は、日本海軍を新しい時代の海軍に脱皮させつつ、進行中の戦争を戦う
という難しい課題をつきつけたのだ。
そして海軍の打ち出した結論は思い切った処置だった。
①戦艦は大和、武蔵を現役艦艇として維持するも、高速戦艦の榛名、金剛は改装。
(当時開発中の艦対空誘導弾を搭載し空母機動部隊の護衛につく)
そして伊勢、日向は航空戦艦の艤装をさらに改良し最近欧米で発達中の回転翼機
の母艦として改装する。
老朽化した扶桑、山城は退役させて、まだ使う戦艦の部品供給などに活用する。
②軽巡洋艦は5500トン級以前の艦はすべて退役する。
新しい阿賀野型は対空能力を強化した防空巡に改装。
夕張に関しては新時代の対潜装備などの試験艦として運用予定。
③10000トン級の重巡は、利根、筑摩、最上は航空艤装を活用して回転翼機母艦、
特に対潜水艦任務に振り向ける。
その他の艦は鈴谷、熊野 を現役に置くほかは予備役として保管。
⓸空母は、鳳翔はさすがに退役、飛竜、蒼龍は昭和24年に予備役とする予定。
そして残る翔鶴、瑞鶴、大鳳、信濃、そして雲竜級は随時、必要な改装を施し使用。
そのうち、雲竜級の1隻は練習空母として鳳翔の後継とする。
商船改造空母、隼鷹、飛鷹は当初練習空母に回す計画だったが日本郵船等から商船と
して戻すよう強い要望、圧力で保有を断念、樫原丸、出雲丸として再デビュー
して後に戦後の国際航路を支えた。
他の特設空母も可能な限り「復員」させて戦後の商船の増勢に役立てた。
なお、特異なご縁で日本に来たドイツ空母グラーフツエッペリンは現役とする。
⑤駆逐艦などは対空、対潜兵装を強化するが、陽炎型以前の艦は船体の状態などから
対空、対潜いずれかの能力に特化した護衛艦として改装する。
(軍縮条約のしばりを受けたころの駆逐艦では比較的小さな船体に新式装備を持たす
と再度、友鶴の二の舞となることを警戒したのである。)
なお、より小型の海防艦も同様に改装する。
⑥掃海艇についてはまだ周辺海域に機雷が多数存在していることから、増勢を計画。
アメリカからの貸与も含めて折衝中
⑦潜水艦は艦隊決戦向けの大型水上高速型を廃し、水中高速型の高性能化を図る
かくして主要な水上艦艇だけでも10万トン近い艦艇を削減し、さらに多くを予備役
として保管、現役艦艇の維持費を捻出することになった。
これは勝者となった米、英海軍もおなじであった。
英海軍ではビッグセブンに数えられていた歴戦の戦艦、ネルソン級が退役した。
ろくに整備できないまま、東奔西走した機関は痛みつくし、さらに各地での
戦闘で受けた損傷も累積していたようなまさに満身創痍での引退であった。
米海軍では復員する米兵を本国に返す、大規模な輸送作戦が行われ、空母がその高速
性能、格納庫の容積を活用することになった。
エセックス級では速度記録を更新したものまで現れた。
また大戦中幾度も日本軍の攻撃にさらされながらも、大きな戦果を挙げたエンタープ
ライズも復員輸送に活用されている。
なお、日本でも復員輸送に空母を運用する話もでたが、格納庫に寝台を設置するなど
の艤装をほどこすゆとりがないことから断念された、というのが公式の見解だが
実は海軍の「主力艦をそのような用途に、、」というプライドがあったというの
が本当の理由ともいわれている。
また、復員輸送の後、米海軍も大規模な艦艇整理を行った。
これについての詳細はまた別途触れることとする。
さて艦艇部隊が大きく改革されて、海軍航空隊も大きく変わるのだ。
①従来の艦上機と基地航空隊の2本立てで艦隊決戦を戦う、という計画はマリアナ沖
海戦で画餅とかした。そのため、基地航空隊は大型陸上哨戒機を中心として対潜任務
に服するものとなった。
②艦上機のうち、艦爆を廃止として艦攻に統合する。この第一陣が流星である。
③不足する攻撃力は、艦戦の噴進弾装備や爆装の強化で補助する。
⓸単発の水上機については現有のものは当面運用するが、新規開発は行わず。
⑤飛行艇は攻撃任務から対潜に特化したものに改装して維持する。
などが上げられるが、もっともおおきく方針転換されたのが艦戦である。
ちょうど昭和19年あたりから各国ともジェット推進の戦闘機を実戦配備を始めた。
我国も停戦寸前に、橘花、秋水といったジェット機、ロケット機の開発を行ったが、
今後はこれらの新世代の機体が戦闘機として利用されるのは時間の問題であった。
そのため、従来のレシプロ戦闘機は紫電改でこれを最後として、次世代のジェット
艦上戦闘機を開発しようとしたが、いかんせんまだそこまでわが国の技術は追いつ
いていないので、かってのように欧米とくにアメリカ機の導入と決まったのだ。
これには一部の反対もあったが、アメリカのグラマンの開発した機体に、圧倒された
海軍はグラマンF9Fの導入を申し入れるのだった。
アメリカでは当初、反対する意見もあったが、戦後大規模な発注取り消しで苦労した
グラマンは渡りにフネと、F9Fの輸出を認めるように運動した。
結局、導入される機体はずべてアメリカ製、限定された部位のみ日本でオーバーホー
ルという条件での導入が許された。
後にこの条件は緩和されて、川西、中島。川崎が中心になってオーバーホールを受注
した。
ただし、中島、川崎は早期に米軍の空襲を受けたことから工場の損害が大きかったり
他の機種、P51やP80またはT33の作業を抱えて進まないことから、川西が鳴尾、後に
新たに開設した伊丹工場もつかってオーバーホールを受注することになった。
このころ三菱は新たな空軍機のF86のライセンス生産を意図して準備中で海軍機まで
見れる状態ではなかったのが他のメーカーに幸いしたといえる。
そしてこのご縁が、川西航空機、のちの新明和工業がグラマンと組んで、最後の正規
空母信濃が退役するまで日本海軍艦上戦闘機を提供するきっかけとなったのだ。
このF9Fのオーバーホールで戦後のジェット機技術を学んだ川西航空機はF9Fの
後退翼化したF9F8クーガーのオーバーホールをも手がけて、この流れで、艦上
超音速戦闘機F11Fのライセンス生産にも成功した。
この機体はマグダネルと組んだ三菱がF4で割り込むまでは日本海軍のすべての
正規空母に搭載されさらにF4の後継機としてF14が導入されたころに再度復活し
てグラマン;新明和F14Jとして採用されることになったのだ。
さて艦戦の話しのついでに戦後の空母の発展を振り返ると、最大の敵はもはや米軍でも
ソ連でもなく大蔵省であった。
昭和47年、大蔵省が海軍に迫ってきたのは以下の理屈である。
①すでに日本海軍の空母が戦うべき敵機動艦隊はない。
米英はすでに完全な同盟国として機能しているし、これと戦う合理的理由または可能性
はゼロである。
②日本本土の防空はすでに独立して40年経つ空軍がしっかり握っている。
日本近海での行動が多い空母機動部隊が高性能の戦闘機を空軍と別に2本立てで持つ
必要性は減っている。
③石油ショックでの燃料費高騰は正規空母の機動部隊の維持費を異常に高めている
これでは他の艦艇の維持費にも影響が大きい
この時点では高性能なF14を必要なだけ運用可能な空母は信濃のみであった。
大鳳はその出自から防御を優先した構造で改装が困難であり早々にF14運用を断念
した経緯がある。
そうなると、たった1隻しかない空母という存在がいかにも金食い虫としてされた。
同じような境遇の英海軍が最後の正規空母と言われたアークロイヤルを退役、その
搭載機を空軍に移管すると発表したのも大蔵省の理屈を補強した。
さらに困ったのが、当時の護衛艦の対空能力の相対的低下である。
そもそも当時の対空誘導弾搭載護衛艦は当初、ターター、その後スタンダードに変更
されたがいずれも、同時対処可能の目標は、イルミネーターの数だけしか誘導できない
ものだった。
つまり、ミサイルを発射したら、それを誘導するイルミネーターはずーっと命中する
まで面倒を見る必要があったからだ。
これはわが艦隊を攻撃に来るのが、ソ連のベアやバジャーであり、搭載する爆弾
で攻撃するならまだどうにかなったのだ。
それが、敵さんが空対艦ミサイルを攻撃兵器の主力にしたならば、それだけで十分
わが艦隊が同時に対処できる目標数を超えてしまうことになった。
これに潜水艦発射の対艦ミサイル、水上艦からの対艦ミサイルまで連携したら
もう手をつけられない。
これに対して米海軍はタイフォンミサイルシステムを開発したが当時の技術でもの
にならなかった。
そのためさらにその後継のイージスシステムが導入されるまでは、護衛艦の対空
能力は限定されていたのだ。
貴重な空母を守る手段は限界に直面して、さらにその空母の運用コストはうなぎ上り
ではどうにもならないのだ。
こうしてわが海軍の正規空母の歴史は、出雲、加賀の就役まで途切れることになる。
一方で隆盛を極めるようになったのが、航空戦艦と航空巡洋艦だ。
戦時中は、苦し紛れの策として感じられていたのが、戦後、その船体の余裕と
新兵器の対潜水艦用のヘリコプターを合わせたら、非常に強力な対潜システム
に化けたのだ。
また、航空戦艦の大きな格納庫を活用して輸送用のヘリコプターを搭載すると、
戦艦の攻撃力プラス搭載ヘリによる強襲揚陸作戦が可能になる、思わぬ効果を
みせることになった。
とは言え昭和50年ごろから航空戦艦と航空巡洋艦の運命は分かれていく。
航空戦艦の強みであった、攻撃力であるが、仮想敵のもつ沿岸防備が、通常の火砲
から地対艦ミサイルに代わってきたため、場合によればアウトレンジされる危険が
出てきたのだ。
あらかじめ航空機により水平線より向こうにあるうちに探知されていれば100km
向こうからでも対艦ミサイルが飛んでくるのだ。
確かに対艦ミサイルでは戦艦の強い装甲は破れないと思われるが、それよりも脆弱な
電子兵装がやられたり、対空ミサイルの誘導レーダーが破壊されたら、それだけで
フネとしての機能は残っていて浮いていても、軍艦として、艦隊の一翼を守れない。
そうすると、対艦ミサイルの射程外からヘリコプターを発進させて、さらに垂直
離着陸機でもって援護させるという、空母型の揚陸能力を持った艦のほうが
有利になるのだ。
つまり、航空戦艦は全通甲板をもった強襲揚陸艦に置き換わられる存在となった
のだ。
この系列として後に大隅型が「輸送艦」という名前で建造された。
一方、航空巡洋艦だが、さすがの利根、筑摩、さらに改造された最上が度重なる
改修を受けてきたものの、老朽化、運用コストの増加に悩ませれてくるように
なった昭和48年ごろから同様の護衛艦が建造された。
これが、榛名、比叡と、その拡大型の鞍馬、白根であった。
これは艦首に5インチ砲2門、対潜ロケット発射機1基、そして後部にヘリ
3機を搭載できる艦である。
こうして限定された対空能力および対潜へり3機と各種対潜兵器をそなえた
ヘリコプター搭載護衛艦は、やや小型の航空巡洋艦といえるものになった
のである。
この艦種は、のちにより多くの対潜ヘリを搭載、母艦機能を重視した
全通甲板型ヘリコプター搭載護衛艦に発展し、日向、伊勢が建造される
ことになった。
さて、航空戦艦は生き残ったが戦艦はどうなったかである。
先にも述べたように、英海軍では古強者のネルソン級を退役させた。
どうように我国では、旧式の扶桑、山城を退役とし他の戦艦などの部品提供用に
解体された。
大和、武蔵は建造からまだ数年しかたっていないことから、海軍は現役にとど
めることとした。
先にも述べたように榛名、金剛はその高速を生かして、対空兵器を増強し空母
護衛に活用されることとなった。
当初は5インチMk37を供与されて従来の89式高角砲を更新、火器管制用
レーダーの装備、戦闘情報中枢(CIC)の設置などを行ったが、そののち、
試製8式艦対空誘導弾を搭載することとなった。
これは遣独技術調査団の技術少佐が、命からがら持ち帰ったドイツのロケット
技術を活用したもので、のちの日本の誘導弾技術の基礎を作った兵器の
一つである。
ドイツから最後に到着したUボートで持ち帰られたのは、ドイツのペーネミュ
ンデ試験場で日独共同で開発されたもので、B29対策の一つとして期待され
量産化がすすめられたものだった。
しかし残念ながら、戦時中は国産の電探ひとつ開発、量産に苦労する時代
である。
またドイツではロケット戦闘機などにも使われている過酸化水素を使った
発動機なども我国では未知の技術であった。
結局、陸上型をで部分試作している段階で停戦となり、研究は一時停止と
なったのだ。
しかし第二次日露戦争でソ連空軍のTu4爆撃機が投入されたことから、
海軍の最優先開発項目とされて、再度取り上げられることになる。
昭和21年から再度進められた研究開発は、空襲で妨げられることもなく
アメリカ製の優秀な真空管が利用できるようになる、など好転した環境
のもと、順調に進展し、なんとか試製8式艦対空誘導弾として榛名、金剛
に搭載されることになったのだ、
試作中の兵器をいきなり戦艦に搭載するとは豪勢な話であるが、航空関連
艤装や夜戦に備えた探照灯などを下したスペースを活用でき、かつ必要な
電力などにもゆとりのあるってことで、選ばれたのである。
この試製8式艦対空誘導弾は実用化を促進するため、極力既存の兵器を
流用して構成されている。
その分、捜索用電探、誘導弾誘導用電探(今風にいえばイルミネーター)
発射、装填装置など大きくかさばるものであった。
発射機など高射砲架をそのまま流用するなどしていたくらいであり
設備一式でようやく戦艦に搭載可能になっていたのだ。
この誘導弾は当時最優秀のB29クラスの爆撃機を実用上昇限度で捕捉
撃破できる性能を誇っていた。
特に、大連攻防戦の最中に実戦での試験行っていた榛名は見事来襲
したTu4を撃墜する戦果を挙げた。
ただ、誘導中は誘導用の電探が1基かかりきりになることから同時に
誘導できる誘導弾は2発のみという程度であった。
これは運用する側には非常に不満なところであり、一方でそのサイズ
をせめて重巡には搭載できるシステムにまとめたいとか、発射
速度を高めたい、稼働率を高くしたいなどの課題をも解決するため
の研究が継続されていくことになった。
こうして試製8式、8式、8式改、10式と改良されていくのだが、
当時は誘導装置にしても電探にしても真空管の化け物のような
時代であり、計算装置もかさばる割には能力の低いもので、洋上
で使うという環境の過酷さから、試験中は常に何かが壊れているとまで
言われる状態だった。
そのため艦政本部は10式でもまだ不具合が続出することから、
ドイツの技術を応用した我国独自の誘導弾開発を断念して
アメリカの艦対空ミサイル開発、バンブルビー計画ののうちの最も
コンパクトなターター艦対空ミサイルの導入に踏み切ることになり、
そしてその第1艦としてミサイル護衛艦天津風を建造するに至る。
(本来はアメリカ同様に重巡にタロス、テリアなど積みたかったが
アメリカでの実績で膨大な費用が掛かることからおじけづいて、
最もシンプルなターターを選択した)
ただ、この誘導弾開発での苦労は、戦後の海軍の電探技術の向上
や製造会社の誘導兵器に関する貴重な経験につながり、令和の時代
に誘導弾の多くが国産で賄えるようになる基礎になったし、
今ではアメリカなどと共同でミサイル開発できるくらいのレベルに
達する基礎ともなった。
筆が走って、一気に戦後の話まで入りました
長い項ですがお楽しみくださいましたでしょうか




