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海は盲目

作者: 冬野牡丹雪


 これは、私たちの生活に、すこしの魔法が交わったような、そんな別の世界のおはなし。



Prologue


 紅い木の葉が舞い落ちる中、少年はひとり立っていた。

 良く言えば賑やかな、悪く言えば騒がしい街から、だいぶ離れた場所にひとつだけ建っている屋敷の門の前である。ぽつん、よりも断然ドカン、のほうが、その建物の佇まいを適切にあらわせている。

 そびえ立つ大きな屋敷を見上げながら、「ここかぁ」と少年は呟く。それから、にひひっと笑って言った。

「期待大だ。がっぽり稼ぐぞ!」

 肩から下げている軽い荷物をむんずと持ち直し、敷地に足を踏み入れた。長いアプローチを進んで玄関に着くと、呼び鈴も鳴らさず大声で叫ぶ。

「すみませーん! 今日からここで働かせていただくものですがー」



 一


 最近、世間をざわめかせている『正義の怪盗』……こいつの所為で、僕は今日、記念すべき五徹夜目を迎えている。

 必ず予告状を書く。盗むのは、入り込んだ場所でもっとも高価なものをひとつだけ。それが奴のモットーらしい。『正義』というのは奴の自称だ。予告状の最後に、いつもそう書かれているのだ、ハートマーク付きで。きもちわるい。

 なにが正義だ、ふざけるな。人様の所有物を、そしてなにより僕の貴重な睡眠時間を奪うものは、なんであろうと、誰であろうと悪である。

 だが世の人々は、そうは思わないらしい。奴を『正義だ』、『英雄だ』と囃し立てているのだ。そこが最も厄介で、腹立たしいところである。

 いや、先ほどの発言、訂正しよう。世の人々、では語弊があった。ただしくは、世の人々の一部。魔法を使えない人々が、奴に尊敬のまなざしを向けているのだ。というのも奴は、盗んだ高価なものを、大量の魔法道具に換えて彼らに無償でばら撒いているからである。

 今この時代、魔法を使える者と、そうでない者との格差が激しい。かく言う僕も後者のひとりで、いろいろ苦労してきたのだ。


 僕の世代では、魔法を使えない人のほうが珍しい。

 とりわけ、僕が生まれ育った場所では、さらに珍しかった。なんせスクールの同学年(二百七十八人)に魔法を使えない奴は、二人しかいなかったのだから。その二人のうちの片方が僕だ。

 人間という生き物が、身近に異常な同類がいる場合に起こす行動は、極端に分けて二つある、と僕は思う。

 その『異常』が優れているものであれば敬畏し、劣っているものであれば軽侮するのだ。どちらの場合も、自分とは違うものとして、見えない壁をつくって接するのだが、まあ前者はいいだろう。自尊心が傷つくことはないんだから。

 魔法が使えなかった僕ら二人は、もちろん劣っていると見なされ、そりゃまあ酷い扱いを受けてきた。たくさんの苦労を乗り越えて、生きてきたのだ。

 だから、僕と同じ、魔法を使えない人たちの気持ちは痛いほど分かるし、彼らが奴に好感をもつことも分からなくはない。

 魔法道具は『劣った人種』でも魔法を使える道具で、ありえないほどの高値で取引されているものだ。

 奴はそんな、長年焦がれ続けても手に入れることができなかった魔法を、人々に何の見返りもなく提供した。だから彼らが、そんな怪盗のことを『その名のとおり正義だ!』と称えても、不思議はない。

 だが、今、僕は奴のことを認めるわけにはいかないのだ。僕は、そういう職業に就いている。

 とまあ、ここまで話したところで、この世界のことと、僕のことが少しは見えてきただろうか。なら次は、みんな気になっているであろう僕の五徹夜目の理由を話そう。


 まず、名前は知らんが、お偉いさんが僕に面倒事を押し付けてきた。怪盗のことをこと細かく調べろってさ。期限は一週間以内。ふざけるな、くそじじい。お前が調べろ、普段机に肘ついてるだけじゃねーか。たまには動け。それ以外のことをやってみろ。

 ……ちょっと不満なことはあったが、僕の立場上、断ることは許されない。にこやかな営業スマイルで応えたさ。「ええ、もちろんやります。任せてください」この時の言葉ほど、後悔しているものはない。

 調べても調べても、奴の情報は全くと言っていいほどでてこなかった。そもそも、『こと細かく』とはなんなのか。奴の血液型か? 趣味か? 好きな食べ物なのか? アバウトすぎると思う。それを『こと細かく』教えてほしい。

 

 一日中部屋にひとりこもって調べても、奴に関する有力な情報はなにひとつ出てこなかった。

 だがそれで分かったことがある。奴、もしくは奴の仲間が凄腕のハッカーであるということだ。

 なんせ、ネット情報のすべてを網羅しているという警察のコンピュータを使って探しても、SNS上に、奴を批判する意見がひとつもなかったのだから。あるのは称賛の声だけ。ありえるはずがないのだ、そんなこと。

 魔法道具を与える存在に、元々魔法を使える人々が批判の声をあげないわけがない。そして自分の意見を自由に発信できるSNS上に、彼らが一人もそれを呟かなかったわけがない。

 世の中の過半数が、奴のしている行動に不満をもっているはずなのに、それを感じ取れる意見がネット上に全くないのは不自然すぎるのだ。

 奴に関する無数の意見から、称賛の声以外を隈なく排除できるほど、コンピュータに精通し、高度な技術を持っている。そんな者が奴についている。

 こんなことならアイツに頼めばよかったな。そもそも僕は、あまり機械は得意ではないのだ。―――これらの見解に辿り着くのに丸一日掛かった。つまりここまでで一徹夜である。

 

 二日目からはネットに頼るのをやめて、聞き込みを行った。最初からそうすればよかったじゃないかって? それは無理な話だ。僕は体力がないし、人と喋るのが苦手なんだ。なるべく外に出たくない。極力、人と接したくない。それが叶うなら、苦手な機械にだって一日中寄り添うさ。理に適ってるだろう?

 だが、そんな僕の無垢な願いはむなしくも叶わなかったため、とりあえず奴を目撃したことがある人に片っ端から話を聞いた。微塵も情報がないので、そうするしかない。

 予告状が届けば、奴の目的の品を渡すものかと大勢で警備にあたる。そして奴の行動範囲はかなり広い。だから該当者はたくさんいるのだ。ほんとうにたくさん。

 直接足を運んだり、電話を掛けたりして情報を集める。夜勤の人、休みの人もいたので全員に話を聞くのに二日掛かった。もちろん昼夜ぶっ通しである。

 そうして僕が今まで手にいれた情報をまとめてみよう。


 ・奴、もしくは奴の仲間が凄腕のハッカーである

 ・たぶん男

 ・たぶん一五~一七歳くらい

 ・警察をなめきっている

 ・魔法道具を使っている

 ・恋人がいるらしい


 これだけである。三徹夜にして、たったこれだけである。まともな情報がほとんどない。特に最後のなんか意味が分からない。貴重な睡眠時間を、こんなことの為に費やしたかと思うと、発狂しそうだった。

 そしてさらに僕を追い詰める出来事が起きる。

 奴が予告状を出したのだ。僕が奴のことを調べ始めて、四日目のことだった。

 しかも、『予定日は今日か明日☆』と書いてあった。なめてるのか? なめてるんだろう。星マークを付けている時点で言わずもがなである。

 この予告状が出たために、警察は厳重警戒態勢に入った。次に奴が盗みを行うと予告した場所は、国宝ばかりを展示している博物館である。そこにあるのはどれもが歴史を語る貴重なもので、それを失うわけにはいかないのだ。

 予告状が出たことを世間には公表できない。怪盗を一目見ようと、人が集まってしまうからだ。そのため、博物館は通常通りに開館し、開館中は「いつもとは違う」と人々に思われないよう私服で警備にあたるのだ。

 当然怪盗のことを調べていた僕も駆り出された。奴は神出鬼没で、昼夜問わずに現れる。お分かりかな? つまり徹夜である。

 

 僕の話を聞いた未成年の方は、僕のあまりの不憫さに、将来のことが不安になったかもしれない。だが安心してほしい。大人になればみんながみんな、こうもハードな生活を送るというわけではない。警備にあたっている僕以外の人は、交代制である。

 僕はこうするしかないのだ。

 その理由は後々分かるとして、とりあえず不安になった方に僕からアドバイスを二つほど。

 まず職場選びは慎重にすること、それから運気を上げておくことだ。自分が得意なことを活かせて、給料もなかなか――そんな職場に就けたとしても、上司がクソなら全てクソである。なので、上司……ついでに同僚も、良い人と巡り合えるように祈る。

 そしてそれを叶えるためには、運気を上げておくのは大切だろう。どうやって上げるか? さあ……僕が知りたいくらいだ。神社にでもお参りに行けばいいんじゃないか? 苦しいときの神頼みというし。僕は何回も行ってこの有様だけどね。

 話を戻そうか。予告状に書かれた『今日か明日☆』の『今日』に奴が来ることはなかった。僕の一日は無駄になったということだ。

 そして記念すべき徹夜五日目を本日迎えた。丑の刻である今現在、僕のイライラのピークはとうに越え、もはや穏やかな気持ちになろうとしている。今なら奴のことを許せそうだ。髪の毛をすべて毟り取り、逆さに吊るして、五日間寝させない……それだけで許せそうだ。

 奴は必ず今日ここに来る。絶対に捕まえて、そうしてやる。絶対に。

 

 決意したその時だった。目の端に数値が浮かんだのは。

 万が一の為に、常時感知できるように切り替えていておいて良かったと思う。じゃないと、こんな暗闇の中、人がいることすら分からなかっただろうから。

 急いで頭を振り、手持ちの懐中電灯を向けるが、そこは墨汁を塗りたくったようになっていて、どうしても確認することは出来なかった。だが間違いない。人がいた。それも、ここを警備している人間じゃない。あの数値は、見たことがない。

「待てっ!」

 叫んで追いかけた。深刻な睡眠不足の身には、大声を出すのも走るのも、かなり辛いが自分のことはあとだ。奴を捕らえることができれば、これまでの僕の苦労はすべて報われる。

 そこまで走ることはなく、人影はすぐに見つかった。それは思ったよりも小さく、壁際に寄って、ゆっくりゆっくり進んでいる。

 その様子を見て、眉の形が歪むのが自分でわかった。追われている者が、追っ手を前にしてこんなに鈍間に動くだろうか。しかも、今まで厳重な警備を掻い潜ってきた奴が。

 訝しく思い、光を当てた。照らし出したのは、壁に添えられた小さく白い手、綺麗な黄金色の長い髪、フリルを纏った黒いワンピース。

「女……?」

 振り返ったその顔は、幼いながらもひどく整っているということが、目が閉じられていても分かった。

 そう、閉じている。そして壁に手を添えて歩いていた。それから光で照らされたときは無反応で、声をかけたときにこちらを向いた。もしかすると……

「きみ、目が視えないのか?」

 硬い表情はそのままに、こくりと少女は頷いた。盲目か……。何故こんな時間に、ここにいるんだろうか。

「どうやってここに来たんだい? もう閉館してだいぶ時間が経っている。誰かと一緒に来たんじゃないのか?」

 見るところ十二、三歳といったところだろうか。その輝くばかりの金髪から、かなりの名家の出身だと分かる。なるほど、この異常なほど高い数値も納得だ。   

 この少女、盲目であり、だいぶ幼い。それから高貴な身分ということから、奴に関わりはないと思われる。だが、話を聞いておくに越したことはない。これ以上怯えさせないように、なるべく穏やかに訊く。

 しかし、言葉は返ってこなかった。首を横に振っている。

「……話したくない、ということかい?」

 またもや少女は首を振る。どういうことだ。だがその疑問はすぐに解決した。

 白く透き通った手が、彼女自身の首――喉元に添えられた。それから口をパクパクと動かして空気を吐き、もう一度頭を振った。そのジェスチャーが意味すること、彼女が言いたいことを理解する。

「声が出ないのか……!」

 そう言うと少女は頷いた。嘘を吐いているようには見えなかった。

「そうか。何も知らずにすまなかった。じゃあ、これから一つずつ質問していくから、さっきみたいに答えてくれるかい? 『はい』なら頷く、『いいえ』なら横に振る。いいかな?」

 こくり、頷いた。

「いい子だね。それじゃあ質問していこう。」

 『はい』と答えたので、僕は彼女に問い始めた。


「一人で来たのかい?」

『いいえ』

「誰かと一緒に来たんだね。……うん、それは親かな?」

『いいえ』

「友だちか?」

 僕の言葉に、少女は困ったように眉を下げ、しばらく首を傾げていた。それから、おずおずと答える。

『はい』

 なんだろう、この曖昧な反応は。やっぱり怪しい。いや反応というか。そもそも、こんな時間、予告現場に部外者がいるなら、一〇〇%それは怪しいじゃないか。盲目だろうが、幼かろうが、身分が高かろうが。

 どうにかして、この喋れない少女から詳しい話を聞けないか。

「……君は、魔法使える?」

 見て分かることを訊いた。遠回しに『使って』と言ったつもりだった。

 だが少女はまた、困惑の表情で首をかしげる。ゆっくりと口がうごいた。『あ』の形が四回、『い』の形が一回。

『わ、か、ら、な、い』

 分からない。どういうことだろうか。自分が使えるかのかどうかが分からないのか、それとも使い方が分からないのか。どちらにせよ、何かがおかしい。この時代、ましてや、その髪色だというのに。

「そうだな……。このペンとノートを持ってくれるかい」

 コートの内側のポケットから取り出したそれらを、彼女の手に当てた。そろそろと小さな手が開いて、右手にペン、左手にノートを持ったことを確認する。

「よし、そしたら基礎魔法を教えるよ。魔法を使うには『強く念じる』。これが大切だ。簡単だろう? 強く思うんだ。右手のペンには『自分の考えをノートに書くこと』、左手のノートにはそうだな……宙に浮いてもらおう。『空中に浮かぶこと』。それぞれの道具に、心の中で命令するんだ。君ならきっと出来るよ、やってみて」

 少女はひとつ頷くと、道具を握りこみ、ぎゅっと目元に力を込めていた。もともと閉じられていた目をさらに固く閉じるので、眉間にしわが寄っている。

「念じたかい?」

 眉間に浮かんでいた線が消えるのを待って、少女に問う。

『はい』

「それじゃあ、手を開いて。心配しなくても大丈夫だ。ゆっくりでいい。そう」

 僕の言葉通り、ゆっくりその手はほどけていく。天井に向けている両手のひらに、ペンと小さなノートが乗っている形になった。

「そのまま手をおろすんだ」

 またしても慎重に、その手は動く。少し下に行くと、驚きからだろう、手が止まった。そして一瞬、一瞬だけ、まぶたが開いた。

 ずっと隠されていた瞳は、息をのむほど、きれいに澄んだ瑠璃色だった。それは何もかもを映し出しそうなのに、彼女は世界を見ることができないのか。

 懐中電灯で、もう彼女の手には乗っていないノートを照らした。

「……よし。じゃあ訊くよ。君の名前は?」


 すると、ペンが動き出した。宙に浮いたノートにサラサラと、ひとりでに文字を綴っていく。どうやら無事に成功したようだ。紙面に浮かんだそれを読み上げた。

「ミシェル、で合ってるか?」

 少女――ミシェルは、こくこくと首を縦に振った。興奮しているのが、彼女自身からも、動きが止まらないペンからも感じ取れる。

『すごい! どうして分かったのですか? わたし、魔法が使えてるのですか? すごい! すごいわ! 今ペンとノートは浮いているのね!』

 すごい、すごいです、と次々に浮き上がってくる文字に、思わず口が緩んでしまう。

「そう。君はちゃんと魔法が使えるよ。今このペンはミシェルの魔法によって、ミシェルの気持ちを文字にしてくれているんだ。ああ、ノートがもう埋まりそうだから追加で命令して。『書ける場所がなくなったら、ページをめくる』ように」

『ノートさん、紙一面が文字で埋まってしまったら、ページをめくってくださいませんか』

 僕の言葉を聞くなり、ペンはそう描いた。ミシェルを見ると、またもや、ぎゅうと目元に力を入れている。

 これは思い浮かべた言葉がそのまま文字になるものだ。この子は心の中でも言葉遣いがとても丁寧である。道具たちは、さぞかし気持ちよく働いているだろう。

 ペラリと紙が動いた。

 

「これから質問していくよ。さっきのように、僕が聞いたことの答えを、思い浮かべればいいから」

『わかりました』

「いつ頃、この博物館に来たのかな」

『たしかな時間はわからないです。ごめんなさい。ああ、でも、ここに着いてしばらくすると、外から小さく音楽が聞こえたわ』

「音楽……、というと二〇時に教会が放送しているものかな。一緒にいた友だちは?」

『それが』

 悲しげな表情を隠すように、ミシェルはうつむく。

『はぐれてしまったの。あの人から、飲み物を買ってくるから待ってて、と言われていたので、わたしは壁際に背を寄せて待っていました。そうしていたら、誰かに手を掴まれたのです』

「それは、友だちじゃないのか?」

『いいえ違います。あの人よりも、ずっと大きな手でした。それに強い香水の香りがしました。あの人は香水なんてつけません。いつだってお日様のような、あたたかな匂いなんです』

 お日様の、なんて、純粋な子どものようなことを言うものだな。そう思った。だがそうだ。これほど大人びた言葉遣いをしていても、彼女はまだ子どもなのである。

「いきなり知らない人に掴まれて、怖かっただろう。怪我は……ないみたいだね。ソイツ

はどうしたんだ?」

 もしかしたら、奴かもしれない。一目見て貴族の娘だと分かる少女を、金目当てでさらおうとしたのだろうか。

『ご心配ありがとうございます。怪我は大丈夫です。その方は何も喋らずに、わたしの手を引っ張って行きました。風の音が少しずつ大きくなっていったので、外に向かおうとしていたのだと思います。わたしには大して力がありませんので、手を振り払うことは出来ませんでした。もし出来たとしても、目が視えないので上手く逃げることは出来ません。奇跡的に上手く逃げれたとしても、声が出せないのであの人を探すことが出来ません。正直あきらめていたのです。やはり、わたしは外に出るべきではなかったと』

 ページがめくれた。

『ですが』

 ペンが止まる。どうかしたのだろうか。視線を紙の上から少女に移した。


「……ミシェル」

 静かな空間の中、鼻をすする音と、床に雫がぽつぽつと落ちる音が響く。ペンは再び動き出す。

『ふいに掴んでいた手が離れたんです。それまでわたしの前でなっていた足音が、一度止まって、それから遠ざかっていくのがわかりました。別の足音と一緒でした。声はなにも聞こえませんでした』

 涙が床を打つペースが短くなり、音もぼたぼたと重くなっていった。

『でも一瞬、確かにお日様の匂いがしたんです。間違いない。あの人です』

「一緒に来ていた友だちが、そいつを連れていった、ということか」

 そうは言ったものの、僕はもしかしたらその友だちとやらは、そいつと仲間なんじゃないだろうかと疑っていた。

 その考えを聞いたかのように、少女の言葉が現れる。

『はい。あの人は約束してくれました。きっとわたしの目と声を治してやる、と。わたしも誓ったんです。あの人のために何だってすることを。約束は必ず守る人です。なのに、わたしを置いてどこかへ行ってしまった。何かあったのでしょうか。あの人はいつだってわたしを救ってくれました。わたしがあの人のことを友だちというのはおこがましいのかもしれません。命の恩人といっても過言ではないのです。あの人の身に何かあったら、わたしは』

 そこで文字は止まり、少女は袖で目元をぬぐった。よっぽど、その友人を信頼しているようだ。

「目が腫れてしまうよ。これを使っていいから」

 ハンカチを、彼女の手に触れる位置に近づけた。ミシェルは頷いて、そっと受け取った。

「事情はわかった。つまり、君がこの時間までここにいるのは、友だちを探しているからなんだね?」

『はい。でも全然見つからなくて。もしかしたら外かもしれないと思ったのですが、出口の方向も、自分が来た道も分からなかったのです。放送で閉館することを知りましたが、ずっと館内を歩き回っていました。すみません』

 盲目のミシェルが、出られなかったことは当然だろう。この博物館は無駄に広すぎるのだ。それでも、今まで警備の人間に見つからなかったのは奇跡だが。

「僕がその人を探そう」

『いいのですか?』

「当然だ。君の大事な友人なんだろう? それに、何か事件に巻き込まれていたら大変だ」

『はい、ありがとうございます。よろしくお願いします』

「家はどこだ? 送るよ。もう、こんなに遅いんだ。君のご家族は心配しているだろう。友人のことは、僕が責任を持って必ず探すから、君は家に帰るんだ」

 そう言うと、彼女は首を横に振って、拒否の意を示した。

『いえ。一緒に居させてください。わたしには帰る家も、心配してくれる家族もいません。すべて、あの人だけなのです。足手まといになりますが、どうか連れてください。この恩は必ず返します』

 ミシェルは深々と頭を下げた。この少女、なにやら、いろいろな事情を抱えていそうだ。思わずフゥ、と息が漏れる。

「……分かった。そのかわり、終わったら君の事情を僕に話してくれるか。無理にとは言わないが自分が関わった以上、ちゃんと知っておきたい」

『約束します。あの人と会えたら、まだお話していないことすべて』

「よし、それが契約の報酬だ。とりあえず、友人の名前を教えてくれるか?」

 今までのミシェルの言葉には、友人の名は一度も出てこなかった。すべて『あの人』と書かれていたのだ。探すにあたって、一番重要なものなので知っておかねばならない。

 だが、目の前の少女はとんでもないことを言った。いや、書いた。


『知りません』


「は……?」

 知らない? 僕の見間違いだろうか、そう思って目をゴシゴシと擦ってみるが、何度見てもその文字は変わらない。『知りません』である。

「と、友だちなんだろう?」

『それは、わたしが勝手にそう思っているだけで、彼はわたしをそう思ってくれてはいないのかもしれません。けれど、それでもわたしにとって、大切な人です』

 聞きたいのはそういうことじゃない……。

 ところで今、彼と言ったか。てっきり女かと思っていた。いや、女だろうが男だろうが行動を共にしていたのに、しかも深く信頼しているのに、名前を知らないのか?

「名前を尋ねなかったのか?」

『訊きました。ですが、今は教えないとあの人は言いました。君の目が治ったら教えよう、そして声が治ったら、一番に俺の名前を呼んでくれ、と』

 なんとまあ、気障な台詞だろう。僕はたぶん、ミシェルの友人とは相容れないと思う。

「そう……。いや、うん。そこまで言ってくれるんだったら、友人もきっと、ミシェルのことを、君と同じように大切だとおもってるんじゃないかな」

『そうだと嬉しいです』

 ふわり、と笑う少女はとても可愛らしかった。この子は容姿端麗で、心優しい。それに次いであんな台詞も言っているのだ。むしろ惚れているんじゃないか?

「きっとそうだよ。話を変えるが、二人は今まで会話とかどうしていたんだ?」

『わたしからはなにも。しようにも出来ませんでしたから、彼の話にいつも頷いていました。面白い話をたくさんしてくれるんですよ』

 質問に、予想通りの答えが返ってきた。最初に会った時のミシェルの様子が脳裏に浮かぶ。そうだろうな、と一人納得した。

 だが今の時代なら、魔法という手段があるのだ。なぜそれを、この子に教えなかったんだろうか。

「魔法の使い方を知った今なら、君からも話が出来るんじゃないか?」

 すると少女は、困ったように眉を下げた。

『どうでしょうか』

 次の言葉を焦らすようにページがめくれる。


『彼は魔法が嫌いですから』


 ああ、なるほど。ミシェルの友人も、僕と同じ……

「いた! 見つけたぞっ、屋上だ!!」

 どこか遠くから声が聞こえた。途端、息を潜めていた建物が騒がしくなる。どこから湧いてきたのかと思うくらい、多数の足音がドタバタと四方八方から響いてくる。

「やっとか……!」

 やっと奴が現れた。そう思うと、何故かどっと疲れが寄ってきた。がんばれ僕、がんばれ、と自分を励ます。そうしないと、やっていけない。

『どうかしたのですか?』

 ミシェルが聞いた。そうだ、この子はどうしようか。一人でここに置いていくわけにはいかないだろう。……仕方ない。

「仕事だ。もうすぐ終わりそうだから、みんな、はしゃいでいるんだよ。僕も行かなくちゃいけない。申し訳ないが、君を背負って行くよ。君の前にかがむから、一歩前に進んで、手を伸ばしてくれるか」

 ミシェルの返事も見ずに、床へ膝をつける。すぐに小さな手が、そっと肩に乗る感触がした。

「ああ、そうだ。ペンとノートに、付いてくるように言って。……よし、嫌かもしれないが、少しだけ我慢してくれ」

 言って立ち上がる。軽い。軽いが、元々体力がないうえに、極度の睡眠不足の身体には、かなり辛い。足なんか、生まれたての小鹿のようにプルプルとなってしまっている。

 それを知ったら、この子はきっと、ひどく気を使うだろう。

「……屋上か」

 だから悟られないよう、なんともないふうを装って、人が集まっている方へ向かうのだ。


「嘘だろ……!?」

 エレベーターが故障していて使えないと知った時は、さすがに動揺を隠しきれなかったが。



喪失人の苦悩


 気付いてからは、いよいよ仕事に手を付けられなくなってしまった。仕事の為に、約束の為に何もかも切り捨ててきたというのに。

 少しずつ、駄目になってきていることが自分で分かるのだ。自分の身体に起こっている現象への理解は、恐怖も伴った。


 あの子も同じ気持ちだったのだろうか。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 二


 屋上へ続いているドアに着くころには、もう息も絶え絶えで、汗だくだった。眼鏡が曇ってしまっている。これは仕方ないことだと思う。この博物館、八階もあるのだ。

 それを睡眠不足の身体が、人ひとりを背負って、階段で屋上まで来た。生きているのを褒めてほしい。十九にもなるのに、なんだかもう泣きそうである。

 ミシェルを降ろすと、労わるように背中をさすられた。

『大丈夫ですか? ごめんなさい、重かったですよね』

 ノートに文字が浮かびあがったのが、白くぼやけた視界でも分かる。

 ありがとう、優しいな。そんな心配の言葉を掛けられるのは、いつぶりだろうか。身体的にも精神的にもキツい時のそれは、だいぶ涙腺にくる。

 今なら泣いてもバレないんじゃないか? こんなに汗だらけなんだから。

 いやでもそこは十九の男、ぐっと堪えた。

「だ、大丈夫だ、これくらい全然。気に、しなくていい」

 ぜえぜえ。合間に聞こえるそれの所為で、僕の言葉に説得力は全くない。

 それでもミシェルは何も書かずに、息が落ち着くまで待ってくれた。その間もずっと、僕の背中をさすりながら。


 僕はよく『おかしい』と言われる。よく、とはいっても、それは一人からだが。

 その一人……スクールの幼馴染は、僕のやること成すこと言うことに『違う、そうじゃない』だの『もっと上手くできないのか』だの『着眼点がおかしい』だのと、口を尖らせて言ってくるのだ。

 だからこれも、アイツに話したら『なんでこの流れで、考えがそこにいくのよ』とか言われそうだが、ミシェルは大事に大事に扱われてきたんだなと思う。

 いや、扱う、という言葉を使うとミシェルが物みたいだ。言い換え……そうだな、今までミシェルにたくさん接してきたのは、優しい人たちばかりだっただろうと思う。例えば、親だったり、彼女が言っている『友人』だったり。

 人に優しくできるのは、優しくされたことがある人だ。短い時間しか過ごしていないが、ミシェルが心優しい少女だということは、よく分かった。

 彼女の使った魔法が、なによりの証拠である。

 ペンは、彼女のありのままの心を描いたはずだ。質問に嘘で答えられると困るため『自分の考えをノートに書くこと』、そう命じるように言ったのは僕だけれど、ノートに書かれたミシェルの言葉を見て正直驚いた。この世の中に、まだこんなにも純粋な子どもがいるんだなと。

 これは僕のエゴだが、どうかミシェルには周りに、この世界に染まらないでほしい。どうかそのまま真っ白なままでいてほしい。彼女のその純真さは、きっと僕のような人間は救うことがあるだろうから。

 そんなことを思っているうちに、息は落ち着き、汗は引き、曇った景色もクリアになっていった。隣のミシェルに声を掛ける。

「待たせてすまない。今から外に出るよ。僕のひじを持って」

 少女は頷いて、僕のひじに手を添えた。それを確認してドアを開けた。

 瞬間、ぶわりと冷たい空気が襲いかかってきた。思わず目を閉じ、下を向く。

「さっむ……!」

 もう春を迎えたとはいえ、昼夜の寒暖差は激しい。ましてや汗で体が冷えているのだ。寝不足で免疫力も低下しているから、風邪をひくかもしれない。寒い。すごく寒い。

 それでも足を進めなくては。奴はここにいる。全てが終わったら、ようやく僕は寝れるのだ。


 だが、人の気配が全くしないのは何故だ? 数値もミシェルのもの以外全く視えない。警備をしていた者は、ほとんどが屋上に向かっていた。行き違ってしまったか? いや、そんなはずはないだろう。エレベーターが故障している今、ここに来るルートは一つしかないのだから。

 とてつもなく、嫌な予感がする。そう思った時だった。


「やっほ~、遅いぞ! 俺、待ちくたびれたんだからな!」


 背後から声がした。バッと振り返るが、そこには僕らが来た扉があるだけで誰もいない。

 いや違う。上だ! 扉がついた壁を辿るように顎を上げた。

「お前は……!」

 扉は屋上に乗っかるようにある、立方体の側面に付いている。その箱の上に男が座っていた。

「あれ? アンタ、こいつらとは、ちょっと違うね」

 こいつら、そう言って親ゆびで指したのは、奴の横に寝転がっている人間だ。よくよく目を凝らすと、制服を着ている。警備にあたっていた人達だった。

「……ああ、なるほど。まあ、今はどーでもいいんだけど」

 そう言うと奴は、僕らの目の前に降り立った。猫のように、足音立てずに。

「あーあ、そんなに睨まなくても大丈夫だって。アイツら、ちょっと寝てるだけだからさ。なんならアンタも寝るかい? 目の下のクマ、すっごいことになってるぞ!」

 ジロジロと僕の顔を無遠慮に見てくる。そいつは、想像していたよりも幼かった。僕より歳は下だろう。口調は想像通りのふざけたものだったが。

「……誰の所為でこんなことになっていると思ってるんだ」

 すると奴はへらへら笑った。

「え~? へへっ、全く見当つかないなあ。ところで君さっき、お前は……! って聞いたよね? 俺、それになら答えられるぜ」

 聞いたわけじゃないし、言わなくとも、もう分かっている。十二分に嫌な顔をして見せたが、奴は嬉々として名乗る。


「俺は正義の怪盗。この博物館の中で、一番価値のあるものを頂きに来た!」

 そう言うと、にひひっと、怪盗は僕に笑いかけた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 三


「そうか。別に言われなくても分かっていたが、わざわざ名乗ってくれてありがとう。それじゃあ、さっさと捕まってくれ」

 怪盗の台詞に無表情で答える。もう僕の表情筋は、三徹夜目あたりから、ほとんど死んでいるのだ。

「礼には及ばないし、捕まらないぜ。だって俺、まだここで何も頂いてないからな!」

「ここで頂いてなくても、前にどこかで何かを頂いてるだろうが。逮捕だ。そもそも警察官たちを気絶させてる。公務執行妨害で逮捕だ」

 更にこいつは僕の睡眠時間までも頂いているのだ。問答無用で逮捕である。

「え、やだ。先に襲い掛かってきたのはアイツらだから、俺がやったことは立派な正当防衛だもんね。捕まらないよ」

 何言ってるんだこいつは。お前が怪盗なら、警察が追うのは当たり前だろうが。

「何言ってるんだこいつは、って顔してるなあ。でもさ、それは俺の台詞だよ。タイホタイホって、アンタにそれが出来るのかい? そんな権限あるの? だってアンタは」

 言いながら奴は、一歩一歩と僕に寄ってきた。それから、ずい、と顔を近づけてくるとニコニコとした笑顔を浮かべ、僕を指差したのだ。


「警察じゃないのに」


「……確かに僕は警察じゃない。だが心配しなくても、ちゃんとお前を捕まえる許可はもらってるよ」

「ふうん、そう! 探偵さんも頑張るねえ」

 にやり、と奴の口元が弧を描いた。

「お前、一体……」

 一体どこで僕のことを知ったんだ。

 こいつが、もしくはこいつの仲間が凄腕ハッカーだとしても、僕の情報を拾うのは至難の業だろう。探偵になって数年、たいした活躍など出来ていないし、そもそも依頼があまり来ないのだから。

 知らない奴に、自分の情報を掴まれているというのは、なかなか怖いものだと実感する。

 そうこう考えているうちに、奴は何かを取り出した。

「じゃあ、俺も頑張んなきゃな」

 言うと、怪盗はどこかを見た。僕もその視線の先を追う。

 奴が見ていたのは、この屋上から遠く離れたビルだった。その距離ざっと三〇〇メートルといったところだろうか。

 そしてジャラ、と音を鳴らしたのは、奴の手にある、先にかぎ爪がついた鎖。……いや、ただの鎖ではない。魔法道具だ。

 魔力を注げば注ぐほど、鎖は長く伸びる。魔力を鉄に換える魔法が掛けられている道具だ。主に遠くへ素早く移動するときに使われる。

 鎖を伸ばして、かぎ爪を掛けた後、持ち手に付いている小さな突起をカチリと下げる。すると溜めた魔力は空気中に放出され、鎖は勢いよく縮むのだ。道具を持っていた人間は、必然的にかぎ爪を掛けていた方へと引っ張られるという仕組みである。

 便利は便利だが、大変危ないので使う人は少ない。こいつは使うのか。

 

 ……いや。おかしい。それはおかしい。思考能力が著しく低下した脳が、訴えかけてくる。

 ちがう。考えてみろ。今だけじゃない。思い返せば、最初から違和感があったはずだ。


「……は、それでここから逃げるのか? あのビルまで?」

「そうだよ」

 奴はいまだに狐の面を被ったような、胡散臭い笑顔を崩さない。何を考えているのか、まったくもって分からなかった。

「どうやってだ。あんな距離まで鎖が伸びるはずないだろう。……お前は魔法が使えないどころか、魔力を持っていないのに」

 そうだ。こいつの数値は視えない。魔法道具すら扱えないはずなのだ。

 それなのになぜ、奴は今、魔法道具を持っている? 魔法道具を使っているという情報があったのはなぜだ?

 僕の言葉を聞くと奴は、にやけ顔をやめ、ほう、と一瞬目を開いた。

「へえ! アンタ、『魔力測眼』持ちかぁ! 黒髪には極稀に、特異体質か呪い持ちがいるって言うけど、素晴らしいもの持って生まれたんだね。はあ、なるほどなるほど……それは聞いたことなかったなぁ。それを活かす職業に就けば良かったのに。いや、今がそうなのか? まあいいや」

 後半はほとんど独り言のようだった。それが言い終わると、奴はまた、とても気持ちのいいとは言えない笑顔を浮かべた。

 なんだろう。キリキリと頭が痛くなる。

「アンタ、いいもの持ってるね。けどさあ、頭が固すぎるんだよなあ」

「なにを……」

 言いたいんだ、とは継げなかった。

 奴が動いたからだ。タン、タン、とゆっくり足音を立てながら、僕から距離を取ると、こちらに手を伸ばしてきた。

 そして、今までとは打って変わった表情で言ったのだ。


「おいで」


 この男、こんな顔も出来たのか。慈しむような、その表情。それを向けられているのは誰か?勿論僕ではない。だとすれば、自ずと答えは分かるだろう。

 僕の横を、人がタッタッとすり抜ける。そしてそれは、真っ直ぐ怪盗の腕に収まった。

「おっと、……ごめんな、一人にして。怖かったか?」

 穏やかな声音に、首を振って返事をしたのは、輝くばかりの金髪の少女……先ほど保護した盲目のミシェルだ。

 ああ、そうであってほしくはなかったな。彼女が言っていた『友人』とやらは、怪盗だったらしい。

 キリキリよりも、ギリギリという表現が合うほどに、さらに頭痛が酷くなる。


「礼を言うよ、探偵さん。ミシェルを連れてきてくれて、ありがとう! おかげで手間が省けたんだ」

 ミシェルに向けた優しげな顔はどこに行ったのか。あっという間に、にたり顔に戻った奴は次いで言った。

「ここで俺にとって一番価値があるのは、この子だ。だから予告通り頂いていくよ。最後にそうだな……。お礼が言葉だけなんて味気ないから、頭の固い探偵さんに教えてあげよう! 君はさっき言ったね。『魔力を持っていないのに』って。そのとおり、俺は魔力がない。同じ黒髪でも、アンタは魔力があるだろう? 俺は劣等種の中の劣等種だよ。そんな俺でも魔法道具を使える方法がある。……こんな風にさ!」

 奴はまた、離れたビルの方を見た。そちらへ魔法道具を持った手を伸ばす。反対の手はミシェルの手のすぐそばへ。そうして、重なった瞬間だった。


ギャリリリリリッ


 耳障りな金属音を上げ、鎖が勢いよく伸びる。先端のかぎ爪が引っ掛かったのか遠くのビルの方が、カチャンと鳴った。

 ミシェルの数値が減っている。なるほど。今までもそうしていたのか。

「声が出せなくても言葉を伝えられるような基礎的な魔法は教えなかったのに、魔力をお前に渡す魔法は教えたんだな。……その子を利用するのはやめろ。物じゃない。道具じゃないんだぞ」

 すると怪盗は驚いた顔をした。

「えっ、これ魔法なのか? 俺なにも教えてないっつうか、魔法のことなんて何一つ教えられないんだけど」

 何言ってるんだ? 魔力譲渡はなかなか難しい。政府に魔力を納めるときは大概の人が道具を用いる。道具を使用すると必ず魔力が吸収されるため、もらえる報酬が少なくなってしまうのだが、それでもだ。

 使える人の方が少ない。それを何も教えられずに出来るなんて、そんなこと……。

 いやでも、そういえばミシェルは、自分が魔法を使えることに心底驚き、そして喜んでいた。

 嘘ではないんだろう、多分。

「俺は別に利用なんかしてないよ。お互いに助け合ってるだけだ。俺はミシェルの目と声を治すために、ミシェルは俺の夢のために。ウィンウィンだろ? ああ、それからもうひとつ。『価値があるもの』……今回は『物』じゃなくて『者』だぜ。いつも予告状にはひらがなで書いてあるんだ。だから頂いてもミシェルのこと物扱いなんてしてないから安心しなよ、頭の固い探偵さん」

 よく喋るなこいつ。口に油でも塗ってるんだろうか。何がウィンウィンだ。屁理屈ばかり言いやがって。

「お礼はもう、これくらいでいいかな? 俺も暇じゃないんだよね。だからこの辺で失礼するぜ」

「いいや、まだ全然足りないな。大人しく捕まって、くれって……」


 あれ。

 

「おいおいおい。大丈夫かよ探偵さん! 働きすぎか?」

 ちょっと一瞬何が起こったのか分からなかった。

 さっきまでの景色とは全く違うものが見える。まず、奴の憎らしい顔が見えない。これはすごくいいことである、僕の精神的に。万々歳だ。

 問題なのは、下なんか向いていないのに地面が見えることだ。視界の半分以上が地面。そして身体全体に、冷たく固い感触。遅れてやってきた鈍い痛み。

 あれ、僕、倒れたのか? 嘘だろ。初めてだ。身体に力が入らない。

 ……そうだな、怪盗。お前の言うとおりだ。倒れたのは多分、働きすぎが原因だよ。なんせ五徹夜目なんだから。そして働きすぎの原因は。

「……くそっ! お前の所為だ……!」

「ええええええ! いやいやいや俺の所為にされても困るよ! 関係ないだろ俺は!」

「大ありだ! お前の調査をくそじじいに依頼されて寝れてないんだからな!」

「ええええええ……。いやお前……。俺、なに言っていいのか分かんねえよ……。ていうか口悪いなアンタ。依頼人のこと『くそじじい』とか言っちゃっていいの?」

「五月蝿い。捕まれ」

「はー、ごめんけど、まだ捕まるわけにはいかないんだ。アンタもう動けないみたいだし、諦めなよ」

「僕だって、ここで諦めるわけにはいかないんだよ」

「這いつくばったままで、説得力ないぞ」

 笑いながら奴は言った。それから、ふう、と息を吐く音が聞こえると、声音が一変した。

「いや、ホントにさ。諦めなよ。魔法が使えないから、試験の成績がトップでも警察になれなかったんだろ。なのに、その『眼』があるから依頼とかなんとか言って、手元に置かれてる。良いようにアイツらに使われてるんじゃん」

「お前、一体どこでそれを……」

「さっき言ったよな。『ミシェルは物じゃない。道具じゃない』って。そうだよ、そのとおりだ。そしてお前も道具じゃない」

 足音が聞こえる。それは近づいてきて、半分は地面である、視界の右端に、四つの足が見えた。

「今の世の中、めちゃめちゃ不平等だよな。ようやっと男尊女卑の問題が解決されたと思ったら、次は魔力だ。魔法の力が顕在化したことで、使える奴が使えない奴を差別し、見下すようになった。俺みたいに元々魔力が無いのなんかは特にひどい。政府も対策を取るどころか、それを助長するようなことやってる。上が魔法使える奴らばっかりだから仕方ないのかもな。俺もアンタも劣等種。けど、人間だよちゃんと。『人間はみな平等である』、むかし誰かがそういった。今はどうだ? そんな言葉、なかったみたいだ」

 淡々と語る怪盗の話には、不本意ながら頷ける。身体が動かないから、そうすることは出来ないのだが。


 魔法が使えない人間は、何故かみんな黒髪だ。生まれたその瞬間、(赤子に生えていれば)髪色で分かる。それは鮮やかであればあるほど、魔力が高いのだ。

 それから黒髪の者は、初めに六歳でふるいに掛けられる。魔力はあるのか、そうでないのか(あっても基礎魔法すら出来ないほどの低い数値であることがほとんどだが)。

 どちらも劣等種というレッテルを貼られるのは変わりない。しかし、後者は特にひどいのだ。

 まずスクールに入れない。周りに馴染めない可能性があるといって、入学を断られる。政府が言うには、あと五年ほどで『魔力なしの子どもたちだけを集め、教育を受けさせる』施設ができるのだそうだ。

 その間に大人になってしまった人はどうするつもりなのだろうか。


 魔力はあるものの、魔法が使えない……つまり僕のような人は、大概スクールでいじめに遭う。みんながみんな、そうという訳ではないだろうが、僕の所はひどかった。

 スクールに入学出来ても、それからの進学・就職は周りよりも不利だ。なんせ成績に大きな差が出る。主に魔法が顕在化して新しく出来た『魔法学』という分野で。

 実技なんかは、全くできやしないから、最低点数で評価されるのだ。

 他の分野でも僕らは不利。教師は将来活躍できる生徒に、良い進路先に行ってほしい。なら贔屓目に評価を与えるのは当然だろう。

 そう、劣等種の僕らより。


 それらの壁を乗り越えて、大人になっても苦難は続く。

 給料は、魔法を使える者の約三分の二。

 火、水、電気……生活に必要なそれらは、魔法で生み出せる。だが、生み出せない僕らは金を払う。

 それから魔法を使える者は、月に一回、国の発展のために魔力を納めなければいけないのだが魔力を納めた者の中で、国のボーダーラインを超えた者は金が与えられる。……それは魔法が使えない僕らが、魔力の代わりに納めた金である。税金とは別の金。


 そして何より魔法道具が高い。魔法道具というものは経済面が、魔法を使える者よりもかなり苦しい人たちが必要とするものなのに。


 あまりにも不平等。何度そう思っただろうか。


「俺は魔法が嫌いだ。俺にとって辛い世界を作り出したものだからな。……でもさ。嫌いだけど、どうしても憧れちゃうんだよ」

 そう言った奴の声は、途中で少しかすれた。

 ああ、それも。その気持ちも痛いほど分かるのだ。


 君らにとって魔法とはどんな存在だろうか? 

 実際にあるわけじゃない、物語の中だけにあるもの。架空の世界の、架空のもの。大方そんなところか。

 じゃあそれは、魔法は、物語の中でどんな風に描かれているだろう? 

 便利なもの、不思議なもの、恐ろしいもの……これは人によって、あるいは作品によって、いろいろな答えがあるかもしれない。

 ただ共通する点はある。それは非日常的だということだ。

 誰だって魔法の世界をテーマにした物語をみたことは少なからずあるだろう。その時、君はどう思った? 

 心は躍らなかっただろうか。ワクワクしたんじゃないだろうか。

 ああ、魔法があれば。もしも魔法が使えたら。そんな想像をしなかっただろうか。

 

 僕らの世界も、少し前までそうだったんだ。

 だが、非日常は日常に変わった。空想は現実に変わった。ほんの一部だけ残したまま。

 取り残された僕たち劣等種は、魔法使いにはなれなかった。魔法がない世界の君たちと同じように、物語の中でしか、なれなかった。

 ただ、自分の周りに、たくさんホンモノがいるから、憧れの気持ちは君たちよりずっと強い。

 

 何度思ったことだろうか。僕だって……

 

「俺だって、魔法を使いたい。自分の手で」


 怪盗が苦しげに呟いたのは、紛れもない僕の、僕たちの、劣等種の、一番の悲願だ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 四


「話が無駄に長くなったけどさ、俺がひとまず話したいのは『俺がやりたいこと』だ。俺がこれから、するべきこと。しなくちゃいけないこと。ええと、なんて言うんだっけ、こういうの」

「……使命」

「そうそう! 使命!」

 奴の足が見えなくなる。と思うと急に、身体全体に掛かっていた圧迫感が無くなった。代わりに息が苦しくなる。

「ぐえ」

 今のカエルみたいな声、僕だろうか。

 後ろのコートの襟を引っ張って、僕を起き上がらせたらしい。息苦しさがなくなって後ろを振り向くと、奴が僕を見下ろしていた。

「人が話してるんだから、ちゃんと、その人の顔を見ろよな。常識だぞ。ママに習わなかったのか?」

「お前が常識を語るな、お前が。人様の所有物と睡眠時間は、奪ったらいけないとママに習わなかったか?」

「俺、ママいねえもん。ていうか睡眠時間の方は今までの人生の中で一度も聞いたことないな」

「肝に銘じておけ」

「アンタ、常識人かと思ってたんだけど」

「五月蝿い」

 そういえば、あの魔法道具はどうしたんだろうか。

 チラリと怪盗の手元を確認する。どちらの手にも、それはなかった。

 

「俺はさ」

 怪盗が言った。また指摘されるのは癪なので、黙って奴の顔を見る。

「この世界を変えたいんだよ。不平等な世の中を、平等なものに。そのためにまず、魔力がない人でも、魔法が使えるようにしたい。今でも方法はあるさ。さっき、ミシェルに手伝ってもらったみたいにな。でも、俺たちを下に見ている『優れた奴ら』が、そうしてくれると思うか? ミシェルは特別だ。今まで外に出なかったから、周りに染まってない。ミシェルみたいな子を『優れた奴ら』の中で見たことがあるか?」

「……ないな」

「だろ? だからその方法じゃダメなんだ。じゃあ他に何があると思う? ……魔法道具を俺たちが使えないなら、俺たちが使える道具を作ればいいんだよ。魔力が全くなくても」

 馬鹿だと思った。どうしようもなく馬鹿だと。

 だが言えなかった。奴の顔が、真剣そのものだったからだ。

「新しい道具を作るには金が必要だ。でもスクールに通えてない俺には、マトモな就職先なんてない。だから怪盗だ。悪い奴から、お宝を一つ頂いて売っ払えばいい。余分な金は、魔法道具を買って、『魔力はあるけど使えない』奴にあげればいい。そうすれば金も貯まって味方も増える」

「いや馬鹿だろ」

 相変わらず顔は真剣だが、つい口を挟んでしまった。途中までなら、まだ理解できた。だが、なぜいきなり怪盗なんだ? もっと他にあっただろう。というか、

「悪い奴ってどういう意味だ?」

「……知らないのか? 俺が侵入している屋敷の持ち主。そいつらは、全員何かしらやってんだよ。金持ち様がよォくやってる悪いことだ。だからアイツら予告状出しても大概は警察には言わないんだけどな? たまにいるんだよ。自分のお宝が可愛くて可愛くてたまらない、ぶくぶく太ったジイサンが」

「ちょっと待て。ということはつまり、警察が動いた回数よりも、多く犯行に及んでるということか?」

「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよな。俺が頂きに行くことで警察には見つかりやすくしてるし、ブタちゃんが警察にチクらなくても俺が断罪してやってるんだから。え~、でもそうかあ。君が知らないんなら、警察に知られても金で揉み消してんのかなあ……」

 怪盗はぶつぶつと呟く。

 僕は考えることを放棄した。ただでさえ痛い頭が更に痛くなってしまうからだ。

 なのに奴は、僕のことなど、お構いなしに続けた。

「ここの館長は、人身売買やってたんだぜ。最低だよな。やっぱミシェル以外にもいくつか頂いていこうかな。あ、警察に密告の置手紙やっとこ。コイツも金で揉み消すかもしんねえから、帰りに街中にビラ撒くか」

 もう喋らないでほしい。どっちが悪で、どっちが善なのか。今の僕には判断出来ない。

 とりあえず、少しでいいから、一刻も早く寝かせてほしい。そうすれば、冷静な判断が出来るかもしれないから。


「ああー! また話がずれた! つまりだな、俺のやりたいことは『世界を変えること』と『ミシェルの目と声を治すこと』、この二つが俺の……正義の怪盗としての使命だ!」


 ……? 世界を変える、の話は聞いたけど、ミシェルの方はそれらしいことを、こいつの口から全く聞いてないぞ。

 こいつ、話をまとめるのが下手すぎないか?

 いやちょっと本当に勘弁してほしい。何が言いたいのかよくわからない。

「アンタはどうなの? なんで探偵をやってるんだ? 探偵としてやらなきゃいけないこと……使命ってなんだと思う?」

 なんで? なんでって。

「なんでってそれは、人の役に立ちたいからだ。……でもそれは、どんな仕事にも言えることか。そうだな、不純な動機になるが、きっかけは警察の試験に落ちたからだ。悔しかったよ。死ぬ気で頑張って、筆記はトップだったのに、落ちた理由はやっぱり『魔法』だった。ムカつくだろ。警察でさえ、こうなのかって心底失望した。俺を落としたのは今回の依頼人、くそじじいだ。本当にムカつく。くそ野郎。もういい歳なんだから早く退職しないかな。ムカつく」

「めっちゃ喋るじゃん。愚痴になってるぞ大丈夫か? ていうか、あれ、眠いの?」

「眠いに決まってるだろ! 僕はもうずっと眠いんだよお前の所為で!」

「ええ……。うん……ご、ごめん。続けて。あー、……頑張って!」

「探偵として名を上げて、僕を落としたこと、後悔させようと思ったんだ。全然うまくいかないけどさ。不純だろ? でも不純なりに、これでも一生懸命やってきてるんだよ。やって良かったって思うこともある。僕の所には、大した依頼は来ない。猫探しとかそういうのばっかりだ。でもどんなに小さな依頼だとしても、それを達成したとき、依頼人は『ありがとう』って笑ってくれる。成果に応じた報酬をくれる。あの、くそじじいは知らないけど」

 ちゃんと伝わっているだろうか。眠すぎてもう、自分が何を言ってるのかも分からない。

 ただ、怪盗はじっと黙って、僕の話を聞いていた。

「えー、使命。使命だろ……。お前みたいな、大それたものじゃない。世界を変えるとか、そんな大きなことが僕にできるとは思えないし。僕が出来るのは小さなことだけだ。それこそ個人単位の。依頼人のために自分の精一杯を尽くす。依頼人が満足できる結果を出す。それが使命なんじゃないか。うん、使命だ」

「だから、『くそじじい』が依頼人でも、そんなになるまで頑張るんだ?」

「そういうことだ。……もういいだろ。だから捕まってくれよ。依頼はお前の調査だ。捕まえたお前に、直接質問した方が手っ取り早い。だから大人しく早く捕まれ、僕はもう、寝たい……」

 そこで視界が真っ暗になった。思考が止まる。

 遠くで声が聞こえた。


「えー、寝ちゃ…たな。どうし…うか。でもま…ジェ…から…丁度……な。連れて帰る……いいか?…シェル…………アッツ! こいつ熱あんじゃん!」

 最後だけ、やけにクリアに聞こえる。うるさい。声が馬鹿でかい。

 だがそれは言葉にならず、僕はただただ意識の底深くに沈んでいった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 五


 目を開けると、広がっていたのは見知らぬ天井だった。

 ここはどこだろうか。僕は何をしていた? そうだ。僕は屋上で……。

「今何時だ!」

 バッと勢いよく起き上がると、視界の片隅の人影が跳ねた。

 ベットの横の椅子に腰かけている、目を閉じた金髪の少女。

「ミシェル? 何故僕はここに……。いや、驚かせてすまない」

 僕の言葉を聞くとミシェルは、首をふるふると横に振って立ち上がった。

『ちょっと待っててください』

 彼女のすぐそばでノートが浮かび、ペンがそう書きだす。

 それからミシェルは横の机に置いてあった、小さなベルを手に取って小刻みに揺らした。

 リン、リリンと心地良い音が鳴り響く。

 すると、バタバタと足音が聞こえてきた。扉が開いて、人が入ってくる。

「はいはーい! 早いお目覚めだな、探偵さん」

「怪盗。なんで僕は……。ここはどこだ?」

「アンタ、熱出して倒れたんだよ。ここは俺の隠れ家。ちなみに今は朝八時。君の睡眠時間は約五時間だ。寝たいとか言ってたのに、そこまで寝てないよ。眠りが浅いタイプなの?」

 話しながら奴はミシェルのすぐそば、つまりは僕の寝ているベットの横に立った。

「今日を入れてあと二日か……。いやそれよりも、何故僕を連れてきた。お前を捕まえる、と言ってる僕を、なんでお前の隠れ家に」

「なんだ、起きてすぐに仕事の確認か? 人生楽しくなさそうだな……。何故連れて来たって、そりゃあ捕まる自信がないからだよ。あとは……」

 少しの沈黙の後、奴は、にっ、と笑って、とんでもないことを言ってくれた。


「アンタに依頼があるんだよ、探偵さん」


「はあ? ……いや、なに言ってるんだお前。僕が怪盗の依頼を受けるとでも思ってるのか?」

「受けてくれると思ってるから、ここに連れて来たんだって。アンタにとっても悪い話じゃないと思うんだよね」

「何を根拠に言ってるんだ」

「これ」

 怪盗の手にあるのは、小さな長方形の機械だった。

 なんだそれ。と思ったのと同時に、奴はカチリとスイッチを押した。

『僕はもうずっと眠いんだよお前の所為で!』

 流れたのは僕の声だった。録音機か。えっ、僕こんなこと言ってたのか?

 碌に戸惑う暇も与えられず、キュルルルと音が聞こえると、また声が流れ出した。

『依頼人のために自分の精一杯を尽くす。依頼人が満足できる結果を出す。それが使命』

 キュルルル

『依頼はお前の調査だ』


 ……嘘だろ? 喋りすぎじゃないか。特に依頼内容は、他言しちゃいけないだろ。しかも、よりにもよってコイツに。

 あと使命ってなんだよ。僕は、そんな小っ恥ずかしい台詞を言ってたのか? 極度の睡眠不足の脳は恐ろしい。判断力が著しく低下しているのだ。 

「……軽く死にたい」

「死ぬな死ぬな! ここからが本題なんだから! ミシェル、励ましてやれ!」

『死なないでください。探偵さん、すごくかっこいいですよ』

「ほら、ミシェルもこう言ってるんだ。立ち直れ。この子、寝ないでずっとお前の横にいたんだからな。悲しませるようなことするな」

「ミシェルが? そうだったのか。それはすまなかった。ありがとう」

 そう言うと少女は、困ったように笑いながら、手を振った。

「次はミシェルが寝ておいでよ。寝不足は美容の大敵だからな。大丈夫。約束の話だろ? 俺がちゃんと話しておくから。部屋には戻れるか?」

 うん、うんとミシェルが何度か小さく頷くと、彼女のそばを浮いているノートに『ありがとう』と文字が現れた。

 扉に向かう彼女に、声を掛ける。

「僕が言うのもなんだけど、ゆっくり休んで」

 すると次はしっかり綺麗に笑って、手を振ってくれた。


 パタン、と静かに扉が閉まる。しばらく空間に沈黙が流れた。


「……入ったかな」

「離れさせたということは、依頼はあの子のことか?」

「そうだよ。どう? もうこれだけで断りにくいと思うんだけど」

 癪だが実際その通りだ。

 けれどこいつの意見を肯定することは嫌なので、それには答えずに聞き返した。

「……僕にとっても悪い話じゃないっていうのはどういう意味だ」

「少しは察してくれてもいいんじゃない? だから頭が固いって言ってるんだよ」

「五月蝿いな。あいにく勘は悪いほうなんだ」

「それ探偵として致命傷じゃん。仕方ないなあ。教えてやろう」

 言って、椅子にどかっと腰かける。

「俺が言ってるのは報酬の話だよ。君は依頼人が満足できる結果を出したい。そして今受けている依頼は『俺の調査』……捕まえることじゃないよな。だから、さ。ここまで言ったら分かるだろ?」

「お前の依頼を達成出来たら、僕が受けている依頼の協力をすると?」

「そういうこと! 答えれる範囲ならなんだって答えるぜ。悪くないだろ? 俺の情報なんて、そうそう手に入らないんだから」


 まあ、確かに。今の依頼人が警察のため、怪盗の依頼を受けるのは少し後ろめたい気持ちもあるが、悪くはない。むしろ良い。

 いくら調べても出てこなかったことを、教えてくれるって言うのだから。

 利用できるものは、利用する。上手く生きていくためには、それが大事だということくらい、とっくの昔に知っているし、それを躊躇うほど僕は純粋な人間ではないのだ。

 だが、これは簡単に頷けない。

「悪くないな。けど、じじいからの依頼の期限は二日後だ。僕はそっちを優先しなきゃいけない」

「ああ、それなら大丈夫だよ。そんなに時間は掛からない。ていうか、明日には終わらせるからさ」

 明日? やけに自身ありげに言うが、そんなに簡単に終わるようなものなのか。

「……ならいい。だが、受けるかどうかは内容次第だ」

 ほぼほぼ答えは決まっているが、一応そう言っておく。

「依頼内容な。ああ、でもその前に、話していいか? 少し長くなるけど」

「? 構わないが」

「どうも。話したいのはミシェルのことだ。あの子と約束したんだろ。俺と会えたら、事情を君に話すってさ。ミシェルの言葉、見たよ。魔法教えてくれてありがとな。意思疎通がしやすくなった。それでも文字だけって色々不便だから、あの子の事情は俺から話すよ。どうしても俺目線になるけど」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 六


 俺がミシェルと出会ったのは、秋ごろだ。あれ、なんだ、まだ半年も経ってないんだな。

 ああ、で、その頃にミシェルが住んでた屋敷から、使用人の募集が掛かってたんだ。俺はそれを見て屋敷を尋ねて、無事使用人として雇われた。

 あ、もちろん、純粋な気持ちでじゃないぞ。お宝目当てだ。

 あの屋敷の当主……ミシェルの父親な、ソイツに悪い噂があったわけじゃないけどさ、金持ちって大体何かしらやってるだろ、悪いこと。

 いやいや、偏見じゃないだろ、事実だ! ほとんどの貴族は、絶対やってるって。

 だから俺は片っ端から金持ちの家に入ってた。使用人としてがほとんどっだったな。その方が、屋敷内で噂を集めやすいんだ。なんでか分かるか? 

 どんな仕事でも、入ったばかりのときは、ベテランさんが仕事を教えてくれるだろ。使用人だってそう。そんでもって、ベテランの使用人ってのは、噂が大好きなおばちゃんなことが多いんだよ。

 

 とりあえず気になった屋敷に入り込んで噂を集める。

 その屋敷の人が悪事を働いてたら、予告状を出して一番金目のものを頂く。

 悪事を働いてなかったら、早めに辞めて次の屋敷へ。

 あの頃は、そんな感じでやってたんだ。今はそんな、回りくどいことしないぜ? 頼もしい助っ人がいるからな。

 

 まあ、とりあえずミシェルの屋敷にも、使用人として入り込んだ。

 そこまで噂好きじゃなかったけど、ベテランの使用人のおばちゃんもちゃんといて、話をいろいろ聞けた。

 

 結論から言うと、ミシェルの親父は真っ白だったよ。

 でも俺はアイツを許せないけど。

 

 うん。そうだな。分からないよな。まず何から話そうか。

 ……にひひっ、ひどいな、探偵さん。昨日会ったばかりなのに、遠慮なさすぎない? 確かにそうだけどさ。自分でも薄々そうじゃないかと思ってたけどさ。

 はいはい。探偵さんの仰せの通りに! 話をまとめるのが下手な俺は、最初から順を追って喋らせてもらいますよ!


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


Second Prologue


「はあい、はい。少々お待ちくださいな」

 遠くから、そう言う小さな声が聞こえる。

 言われた通りに(いや少々ではなかったが)、少年は待った。地面に舞い落ちていく紅い葉っぱの数を数えながら待った。


「……二百十六。……二百十七。……にひゃくじゅ」

 そこまで数えたところで、後ろから扉が開く音がした。

 振り返ると、灰色の髪をした女の人が、顔をひょこりと覗かせている。目元にしわの多い、優しそうな人だった。

 にこにこと、柔らかな笑顔で少年に言った。

「はいはいはい! ごめんなさいね。このお屋敷、随分広いものだから、わたしみたいな老人には移動がきつくてねえ……。あなたが新しい子ね! 待ってたわよ。まあ、思ったより幼いのね。今いくつなの?」

 待っていたのはこっちなんだけど、と思いながらも顔には出さず、少年もにこやかに答える。

「全然大丈夫だよ、おばちゃん。今日からよろしくお願いします。歳は十……十四。うん、十四だ」

「十四……学校は……。そうね、ひどい世の中になってしまったものね。おばちゃんがあなたくらいの時は、魔法なんてのは夢の話だったのに。……ここの人たちは皆やさしいから安心しなさいな」

「うん、ありがとう」

「それじゃあ、お入りなさいな。旦那様には話は通してあるわ。挨拶はいらないと仰っていたから、必要な説明が終わったらそのままお仕事にしましょう」


 その人の名前はオリヴィアといった。なんでも、この屋敷にはもう二十年以上勤めているらしい。

 服を着替えると、大まかな仕事内容と、注意点、それからここのことを軽く教えてもらう。

 掃除、洗濯、お皿洗い、庭の花に水やり。

 気を付けなければならないのは、毎日お仕事が大変な旦那様の邪魔をしてはならないことと、一年前に亡くなった奥様の話をしてはならないこと。

 この屋敷には、旦那様とお嬢様、それから使用人が五人ほど住んでいる。

 

 それらを少年に話し終えると、最後に、とオリヴィアは言った。

「さっき話した仕事もやってもらうけれど、あなたにはおもに、ミシェル様のことを任せるわね」

「ミシェル様」

「そう。旦那様のご息女。とても可愛らしい方よ」

「……女の子なら、俺じゃなくてオリヴィアさんの方がいいんじゃない?」

「あなたの方が歳が近いから、きっと話しやすいでしょう。仲良くしてあげてね」

 オリヴィアはなぜか、少し悲しそうだった。

 その子とあまり良い関係じゃなかったのかな、と少年は思った。

「そうかな。仲良くするのは全然いいんだけど、俺みたいな黒髪に話しかけられても、嬉しくないと思うよ」

 こんなに立派な家の娘だ。きっと、綺麗な明るい髪色だろう。

「ああ、そのことなら大丈夫よ。……いえ、大丈夫って言葉はよくないわね」

 首を傾げる少年に、オリヴィアはやはり悲しそうな顔をして言った。


「お嬢様は、目が視えないの」


 なるほど、と腑に落ちる。

 だが、こういう時に何と言うのが正解なのか、少年は分からなかったため、ただ黙って頷いた。

 少年の心情を察したのか、オリヴィアは続ける。

「そうでなくても、とても心優しい方だからきっと気にしないわ。それにね……いえ、この話はよしましょうか。とりあえず、その辺りは心配しなくてもいいわよ」

 諭すように言われたが、少年は気になった。言いかけてやめた部分ではなく、『その辺りは』という言葉がである。

 その辺りは? じゃあ他の辺りでは心配な点があるんだろうか。だが、それを口にはしなかった。


「そっか。ならいいんだ」

 聞く必要もない。どうせ長居はしないんだから。

 その『ミシェル様』とも、長くて一か月の付き合いだ。深入りしなくていい。そう思ったのだ。


 話が終わると、次は屋敷の案内をされた。

 少年は、こんなに大きな家を見たことがなかった。今まで入った屋敷は、数えきれないのだけれど、その中でも断トツに大きい。

 建物だけではない。右を見れば高そうな壺、左を見れば高そうな絵画、上を見れば高そうなシャンデリアに、下を見れば高そうな絨毯。

 それだからキョロキョロと首を動かすのをやめられない。

 オリヴィアも、咎めてくれればいいものを、少年の様子を微笑ましそうに眺めるだけだ。

「これ黒だったら、ほんとに『がっぽり』だな……」

「え?」

「いやいや、なんでもないよ」

「そう? ……おっと、止まってちょうだい」

 角を曲がるとすぐに、そう声が聞こえた。それから目の前に腕が伸びたため、言われた通りに止まるしかなかった。

 なんだ、と少年は思ったが、疑問はすぐに解決する。


 オリヴィアの視線の先には、一人の男がいた。


 後姿であったが見てすぐに少年は分かった。その男が、この屋敷の当主だと。

 オールバックの髪が、輝くばかりの金髪だったからだ。そして、纏っている空気がピリピリとしていた。雰囲気が「話しかけるな」と言っている。

 しばらく、じっと見ていると、その廊下には男以外にも人がいることに気が付いた。

 その存在に気が付くと少年は、そちらにばかり目が奪われてしまったのだった。


 女の子だった。

 男と同じ、輝くばかりの金髪の少女が、男の少し向こう側を、壁に手を添えて歩いていた。探り探りといった感じで手を動かしている。ドアノブを探しているのだろうか。

 少女の四、五歩先くらいに扉があるので、そこが少女の部屋なのだろう。

 少年よりもいくつか歳は下のようだ。

 遠くからでも、その顔はひどく整っていることが分かる。

 白い肌が、黒いワンピースによく映えていた。

 

 ゆっくり、ゆっくり歩いていく少女は、ぴたりと足を止める。男の……父の存在に、足音で気が付いたのだ。

 その時一瞬、一瞬だけ少女が泣きそうに顔を歪ませたのを、少年は見逃さなかった。

「……え」

 少女がそんな表情を浮かべた理由は、すぐに読み取れた。

(親子……なんだよな?)

 そう、親子。親子のはずなのに、挨拶がないどころか、男は足を止めなかった。

 父親であるはずの男は、まるで娘の存在がそこにないかのように、すれ違ったのだ。

 少年が一度、歩いていく男の方を見て、それから少女に視線を戻すと、もう少女は部屋に入っていた。


「さっきのが、旦那様とミシェル様よ」

 少年に紅茶を入れながら、オリヴィアが言った。

 場所はオリヴィアの部屋である。あまり物が置かれていない、質素な部屋だった。この屋敷を見て回った後なので、余計にそう感じてしまうのだろう。

「……旦那サマとミシェルサマは、仲が悪いのか?」

「難しいわねえ……旦那様は、元々あまりお話をなさらない方なのよ。それでも、前はあんな感じではなかったわ。もっと柔らかかった。お嬢様と楽しそうに会話をしているのを見たこともあった。ああなってしまったのは、一年前……奥様が亡くなられてから」

「ふうん」

 少年は、ずずっと音をたてながら紅茶を啜った。

 それから、思い出したように、ぽつりと呟く。


「ミシェルサマって、生まれつき目が悪い訳じゃないんだな」

 

 オリヴィアは、目を丸くした。

「あなた、どうして……。ええ、確かにその通りよ」

「だって扉の場所、探してただろ。ゆっくり歩きながら。そういうのって、生まれたときから視なかったら、そんなことしなくても、なんとなく分かるもんじゃないの? 何歩進んだら~みえたいにさ」

「よく見てるのねえ。そう、お嬢様の目が視えなくなったのは、ここ最近よ。奥様が亡くなって、半年経った頃に、部屋から泣き声が聞こえてきたの。私、ノックもせずに慌てて入って、どうしたのか尋ねたわ。そうしたら、『真っ暗なの。何も視えないの』って……。すぐにお医者様を呼んだのだけれど、原因は分からなかった」

 一口、静かに紅茶を飲むと、オリヴィアは続けた。

「それからしばらくすると、お嬢様もお話をしなくなったの。奥様がいた頃は、あんなに賑やかだったのに、この屋敷はとても静かになってしまった……。だから嬉しいのよ。あなたみたいな子が来てくれて。少しだけ、明るくなった気がするわ」

 そう言って、ずずずと紅茶を飲む少年を微笑みの顔で見つめるのだった。


 オリヴィアの部屋を出ると、少年は屋敷探索を行った。

 いつもは夜中、屋敷にいる人間が寝静まった後に行うのだが、ここは真っ昼間でもやりやすい。なんたって、こんなに広いのに、人が少ないのだから。

 少年は堂々と、不審な動きをやってのけたのだ。


 目についた扉は、片っ端から開けていき、中を漁る。金目のものがあったら、屋敷の地図に書き込む。

 そうしていって、今いるのは使われていない最後の部屋だ。

 まだ行ってないのは、当主と、ミシェルの部屋だけ。使用人の部屋も、全員分確認済みである。

「こんな好条件の場所、なかなかないぞ。家一軒建ちそうなものが、誰もいない埃被った部屋からもゴロゴロ出てくるし」

 なんなら今、目の前に転がってるタンザナイトの指輪をポケットに入れてもバレないだろう。そんなことは、プライドが許さないのでやらないけれど。

「ええ~、黒であってほしいんだけどなあ。なあんにも出てこないや」

今までの屋敷でお宝を頂いたときは、大体こういう部屋に悪行の証拠を隠されているのだが、それらしきものが本当に出てこない。

 出てくるのはお宝ばかり。特にこの部屋は、宝石類が多かった。それも、あまり使われた跡がない、ほぼほぼ新品のネックレスや指輪が。

 しばらく漁っていくうちに、この部屋がもともと何だったのか、少年は気が付いた。


 転がっている、女物のアクセサリー。

 クローゼットには、たくさんの白いワンピース。

 奥に大事にしまわれたアルバム。

 それから……。


「……奥サマの部屋かあ」


 アルバムを見て少年は思ったが、ミシェルは母親似らしい。髪色以外は。

 三人が写った家族写真。そのうち二人は黄金色の髪だったが、にこやかに笑うミシェルによく似た顔立ちの女性は、漆黒だった。

「……劣等種に対して、偏見がない人か」

 珍しい金持ちもいたものだ。でも少年は、この男のことが既に嫌いだった。

 ミシェルへの、あの対応。いや、対応というか無視。先ほどそれを見たときから彼女の父親が嫌いになった。

 ミシェルの泣きそうな顔を見たときから、彼女にそんな顔をさせた男が嫌いになったのだ。

 

 本人は気づいていないが、いわゆる『一目惚れ』というやつを、少年は少女にしていたのである。


「それにしても、これ……」

 少年が手に持ったのは、『ミシェルへ』と書かれた、未開封の手紙だった。

 どうしようか悩んだのは、数秒だけ。

「ま、いいか。視えないんだから」

 ゴメンネ、失礼しまーす、そう言って、躊躇いなくそれを開けたのだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「最低だな、お前。人の手紙を勝手に見るなんて」

「まあ結果良かったから許してよ」

「……何が書かれてたんだよ」

「なんだよ、探偵さんも知りたいんじゃん」

「……」

「冗談だって! 怖い顔すんなよ。内容は、お楽しみってことで後に回そうぜ。そんなに急かさなくても、アンタが依頼を受けてくれたら明日までには知ることができるよ。これが大事な鍵になるんだから。……よし、話を続けるぞ」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 廊下の窓から月が覗いている。今宵は満月だとオリヴィアは言っていた。


 手紙を読んだ少年が向かったのは、ミシェルの部屋だった。

 コンコン、と扉を叩く。声は掛けなかった。

 しばらくすると叩いた向こう側から、小さな物音が聞こえて、そろそろと扉が小さく開いた。

 扉を叩いたのが誰なのか分からないため、当然の反応だろう。

 だが、それを『警戒している』というには、あまりに無防備すぎる。


「本当に目が視えないんだな」


 少女はひどく驚いた。狼狽した。勢いよく、声がした方を振り向いた。

 そう、振り向いたのだ。

 ノックが聞こえたのに。だから扉を、それも小さく開けたのに。さっきまで確かに、部屋に一人でいたのに。声は後ろから聞こえた。部屋の外じゃなくて、部屋の中から。

 様子が分からない盲目のミシェルにとっては、この状況は恐怖でしかないだろう。叫び出したっておかしくない。だが少女は声一つあげなかった。

 少年は、先ほどの手紙を思い出す。呪いは、近しい者に伝染しやすいという。だからこれはきっと……目途は付いていた。

 声をあげないのではなく、あげることが出来ないのだ。


「声も出ないのか?」


 近づいてくる、知らない声と足音に、少女は怯えた。息は速くなり、額には汗が浮き出る。腰を低くして、とりあえず足を動かすも、それはすぐにもつれてしまう。

 その様子を見て、「あ、ごめんごめん」と少年は言った。

「今さらだけど、俺ここの使用人。……一応。今日から入ったんだ。……すぐ辞めるけど。ま

あとりあえず、別に取って食ったりはしないから安心してよ」

 そう言うと、少女は徐々に落ち着いていった。四つん這いの姿勢で、うんと頷く。

 今度は逆に少年が戸惑った。この言葉は本心だし、少女を落ち着かせるために言ったものだったが、こうも効果が覿面だと、この子の将来が不安になる。

 いかにも『箱入り娘』といった反応だった。いつか悪い奴に騙されて、攫われるなんてことが起きるんじゃないだろうか。

 

 そんな心配は胸の内に留め、少年は少女に問う。

「目が視えなくなっただけじゃなくて、声も出なくなったんだろ?」

 少女は頷いた。

「辛いか?」

 また少女は頷く。

「治りたいか?」

 少女はそれには頷かなかった。口を『え』の形に開き、目を大きくさせて、少年に顔を向けている。瑠璃色の瞳が、少年のものと合うことはなかったけれど。

 少女は口を動かした。だがすぐに、思い出したように口をつぐむ。

 少年は、察して言った。

「いいよ。大丈夫。読み取るから言って」

 その言葉を聞くと、少女はもう一度唇を動かした。先ほどよりも大きく、ゆっくりと。


『わたしなおるのですか』


 わたし、治るのですか? 読み取った少年は快活に答えた。

「ああ、もちろん! 俺がいれば、俺があれば、きっと治るよ。どう? 治したいか?」

 それを聞いた少女は力強く、何度も頷いた。

「そうか」

 少年は、どこか安心したように、ふっと口元を緩めると言葉を継いだ。

「ただ条件がある。俺にはやり遂げたいことがあるんだ。そのために、いろんな所へ行かなくちゃならない。ここから遠い所にも。つまりな、君の目と声が治るまで、ここには帰れないんだ。それでもいいか?」

 出された条件に、少女は間髪入れず頷く。その迷いのない返事に、少年は笑った。

「にひひっ。そう来なくっちゃな! 決まりだミシェル。出発は今」

 床に座り込んだままのミシェルの両手を取り、立ち上がらせる。


「俺は正義の怪盗。屋敷の中で最も価値のあるものを一つだけ頂戴する。今宵、この屋敷では君を頂いてこう!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 七


 怪盗が、ふうと息を吐いて言った。

「これが、俺とミシェルの出会いだよ」

「いや待て。ちょっと待て。お前それは……どう考えても人攫いだろ」

「人聞きの悪いこと言うなよ。同意の上だ。攫ってない」

「お前目線の話でも、誘拐しているようにしか聞こえなかったぞ。大体なんだ、『俺があれば』って」

「何でもかんでも訊いちゃうの、探偵さんの悪い癖なんじゃない? 少しは考えなよ、探偵なんだからさあ」

 その言葉、言い方には棘があった。なんだよ、仕方ないだろ。探偵の基本は聞き込みなんだぞ。

 怪盗は、でも、と続けた。

「どうしても分かんないなら、全部が終わった後で教えてあげるよ。ていうか、そうだ。それも依頼にしよう」

「それも?」

 追加依頼ということだろうか。謎かけみたいなそれが? 

 顔をしかめているであろう僕に、にやりと怪盗は笑いかけた。

「そう。今決めたんだ! その方が面白いだろ? だから俺からの依頼は二つだ」

 そう言って奴は、人差し指を立てる。

「一つ。さっきアンタが分からないって言った言葉の意味、その答えを見つけること。二つ」

 指が二本に増やされる。

 追加依頼ではないほう……、そっちの内容は大方予想が付いていた。

「ミシェルの目と声を治す協力をすること。期限は明日、がいいんだろ探偵さん。早急の依頼だ。報酬は弾むぜ」

「報酬内容は」

「金はもちろん、最初に約束した『俺の情報』。それから追加依頼分はそうだな……。ミシェルのとびきりの笑顔と『ありがとう』でどうだ。なかなか豪華だろ?」

 言う通りだな。全然悪くない。

「……いいだろう。その依頼、引き受けよう」

「にひひっ。そう来なくっちゃな! よろしく頼むよ、探偵さん」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 八


「引き受けておいてなんだが、彼女に『治してやる』とか言っておいて、僕の力を借りていいのか?」

「いいでしょ。俺は目的の為なら手段を選びはしないよ。探偵さんだって同じだろ? 今まさにそうしてるじゃん」

 まあ確かに。警察からの依頼を達成する為に、警察の敵であるこいつに協力しているのだ。こいつのしていることに口を挿む権利は、僕にはないだろう。

 ましてや、今こいつは僕の依頼人なのだから。

 黙り込んだ僕に、奴は言った。

「俺たち似た者同士だな!」

「やめろ、きもちわるい」

「照れるな照れるな」

 照れてなんかいない。だが、どうせ言っても茶化されるだけなので、出来るだけ嫌そうな顔を作った。

 すると怪盗は、けらけら笑って、それから話を変えた。

「あ、そうだ。アンタの他にも協力者がいるんだ。ずっと前から世話になってる人なんだけどね。紹介するよ」

 よしよし。なんとなくこいつの扱い方が分かってきた。こっちが無駄にイラつかない為にも下手に言い返さないことが大事なんだ。

 それにしても協力者か。ずっと前から? まともな奴だと良いが。

 こいつと長く付き合えるのは、天使のように優しい心の持ち主か、よほどの変わり者だろう。紹介する……ということは、今ここにいるのか。

 

「入ってきていいよ、ジェシカ」


 ……ジェシカ? いやいやまさか。別人だろう。よくある名前だ、多分。僕はまだ、アイツ以外にその名を持った人を見たことはないけれど。

 扉が開いて、人が入ってくる。


 女性にしては、高い背丈。小麦色の肌に、やや吊り上った目。ポニーテールの黒髪。

 そのどれもに見覚えがあった。


「……久しぶり。相変わらずみたいね」


 数秒前の僕へ、残念ながら別人じゃなかった。

 怪盗が紹介した協力者とは、僕の幼馴染だった。


「な、なんでお前がここに……」

 戸惑いの言葉が口から漏れた。漏れるよりほかないだろう。

 幼馴染との久しぶりの再会が、怪盗の隠れ家で、しかも怪盗の紹介で果たされたのだから。

「なんでだと思う?」

 そのつっけんどんに答える様子は、よく見たことのあるものである。

 さっきジェシカは僕を『相変わらず』と言ったが、相変わらずなのはそちらもだろう。人はなかなか三か月では変わらないのだ。

 ジェシカの問いに返事をしようとして、ふと、濡れた烏のような黒髪が視界に入った。挑発的に訊き返し首を傾げた、その拍子に揺れたものだ。すると、用意した返事は忘れてしまって、先ほどまでの思考に巻き戻ってしまった。

 ああでも、人を撥ねつけるような態度は相も変わらないけれど、

「……髪は伸びたんじゃないか?」


 しまった、と思ったときには遅かった。

 キッとジェシカの目が吊り上る。


「あたしの話聞いてた!? ほんっとに変わってないのね! 心の中で会話進めるのやめなさいよ!!」

「ご、ごめん。なんでお前がここにいるか、だろ。考える、考えるから!」

「ほんとアンタは昔から……」

 ジェシカの顔は、怒りからか赤く染まっていた。まずい。これは長くなる。

 止め処なく溢れる僕への不満を、軽く受け流しながら、僕は幼馴染がここにいる理由を考えようとした。だが出来なかった。なぜか? 後ろから奇声が聞こえてきたからである。

 振り返って見ると、怪盗が腹を押さえてうずくまり、震えていた。笑っているのだ。

 ヒィィィィと、苦しげに引き笑いをしていた。

「あっははははは!!ま、まじか……! 探偵さん、まじか!」

「うるさいぞ怪盗!」

 何笑ってるんだ。特徴的な『にひひ』はどうした。

 

 愚痴が止まらないジェシカに、不気味な笑い声をあげる怪盗、そして怪盗に喚く僕。

 しばらく続いた騒がしい時間に終止符を打ったのは、ジェシカだった。

「うるっさいわよ二人とも! ミシェルが起きちゃうでしょうが!」

 耳がキィンとなる。そんな声量で、お前がそれを言うか。怪盗も同じことを思ったのだろう。顔を見合わせる。

 だが、こういう時、彼女に反論してはいけない。長い付き合いで学んだことだ。怪盗もちゃんとそれを分かっているらしい。

 こういう時に大切なのは……


「「はい、すみません」」


 大人しく謝ることである。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 九


「あれ? 考えなくてもお前がここにいるのって、怪盗に協力するためじゃないか」


 ジェシカの怒号で静かになった空間に、ぽつりと呟きを落とすと、また隣で引き笑いが起きた。先ほどよりも控えめなそれである。

「そうだよ……っふふ、最初から、ヒッ……そう言ってるじゃん! あははは!!ヒィィ、嫌だもうしんどい! ……はぁ、ジェシカが来てから探偵さんのポンコツ具合が露呈してきたね!」

「怪盗、お前ほんとうに五月蝿いな。まだ十分な睡眠時間が取れてないんだよ」

「三か月前も、毎日睡眠不足だったってわけ?」

「ひぃ、も、もういいよ。笑いの供給は十分だから。これ以上は死んじゃうから俺! 進めよう、話を!」

 笑い死ねばいいだろ。なんなんだ、こいつ。僕がおかしいんじゃなくて、こいつの笑いのツボが浅すぎるんだと思う。

 まだ震えている怪盗は置いて、僕はジェシカに聞いた。

「最近忙しいって言ってたのは、これか。怪盗の情報をネット上から消してたのジェシカだろ」

「そうよ」


 そりゃあ、いくら警察でも手こずる訳だ、こんな僕にさえ頼ってくる訳だ。藁にもすがる思いで依頼してきたんだろう。

 ジェシカのハッキング能力はずば抜けている。

 僕と同じく魔法が使えない彼女は、持ち前の気の強さで蔑みの声を撥ね退け、その優れた能力で他を押し退け、優良企業に就職した。

 その存在が露わになって十数年の魔法より、古くから人々の生活を支えてきたネットの方が、世の中ではまだ重宝されている。少しずつそれは変わってきてはいるのだが、そんな中、世界単位で見ても類い稀なる才能を持った彼女は、たとえ黒髪の劣等種であっても欲しい人材なのである。

 そんなすごい人が、なぜ僕と仲良くしてくれているのか、十年以上経った今でもわからない。一度尋ねたことはあるが、睨まれただけで終わってしまった。

 

「三か月前から、だよな? 何がきっかけでそうなったんだ?」

「それは……」

 彼女は口ごもった。珍しい。サバサバとした性格の彼女は、いつだって思ったことをそのまま言葉に変えるのに。

 横から怪盗が言った。

「お! 探偵さん、それも報酬にしちゃおうか」

「ちょっと! 勝手なことやめてよ」

「大丈夫大丈夫。ちゃんとオブラートに包むから。ていうか最低限これくらいはやっとかないと。いやほんと、これはちょっとひどい。話には聞いていたけど、まさかここまでとは思わなかったよ、俺は」

 怪盗が、憐みの目を僕に向けてくる。なぜ、そんな顔で見てくるのか、少しも読み取れなかったが、ジェシカが怪盗の話に、しぶしぶといった感じで小さく頷いたのは分かった。

「そうね。アンタが全部解決できたら、教えてやってもいいわよ」

 頷いてジェシカは、やっぱり、ぶっきらぼうにそう言ったのだった。


「さて、協力者の紹介も終わったところで、さっそく作戦会議を始めようか。動き出すのは今日の夜、ミシェルが起きてからだ。それまで皆も寝てていいぜ! 特に探偵さんは、寝不足だと何するか分からないからな」

 またしても怪盗は、心底腹の立つ顔でからかいの言葉を掛けてきた。分かっている。言い返すと、こいつは更に面倒なのだ。だから、ぐっと堪えて返した。

「……僕がしなくちゃならないことはなんだ」

「え、だから寝ることだって」

「違う、今夜することだ。分かっててわざと言ってるだろお前。その髪、毟り取って脱色して、くそじじいのカツラにしてやろうか」

 前言撤回。どうしたって面倒だった。堪えた対応をしても、ストレスが溜まるだけである。

「ちょっと、やだこいつ! 眼鏡で真面目そうなのに、なんでこんなこと言うの。あー俺今何も信じられなくなった、心折れちゃった! ジェシカ、後はよろしく」

 そう言って怪盗は、背もたれに体重を乗せるようにして天井を仰ぎ、目を閉じた。

 眼鏡が真面目だなんて偏見だ。そもそもこれは、視力が悪いのではなく測眼のコントロールの為のものだ。形状がそうでも、眼鏡じゃない。


 怪盗の様子を見て、ジェシカは元々無表情だったそれを、くしゃりと歪ませた。なんであたしが、と顔で言っている。元来、人から指図を受けるのが嫌いで、とことん集団行動に向いていない奴なのだ。

 だから僕は密かに感動していた。彼女と三か月以上、交流が続いている人間が、僕以外にいたことに。

 その相手が、怪盗だったのは少し複雑な心情なのだが。

 

「……ちゃんと聞いてなさいよ」

 嫌そうな顔をしながらも、説明してくれるようだ。言われた通り、僕はしっかり耳を傾けた。

「今夜あたし達は三手に分かれて行動する。ミシェルとアンタは探し物。こいつは人探し。あたしはここに残ってアンタらのサポート」

「探し物っていうのは?」

「手紙よ。ミシェルの母親が遺した手紙」

 聞き覚えがある。というかさっき聞いたばかりだ。

「おい、怪盗。それってさっきの……」

「そうそう。さっき話した手紙のことだよ。ミシェルの屋敷にある。そういや話の途中だったね」

 どうやら怪盗は、もう『心の折れ』から立ち直ったらしい。二分程度しか折れてなかった。

「開封したのに持って帰らなかったのか?」

「うん、置いてきたよ。入った場所からは一つしか頂かないっていうのが俺のモットーだからな」

 人の手紙は躊躇なく開ける癖に、そこに律儀なのはやっぱり理解できない。というより、しようとするだけ無駄である。

「じゃあ、僕はミシェルと一緒に、あの子の家に侵入して手紙を探せばいいんだな」

「そう。屋敷のセキリュティは、あたしが解除しておくから、安心して入っていいわ。だから絶対に手紙を探し出して、それからミシェルに読ませて。その手紙が一番大事だから」

 ジェシカが念を押す。そういえば怪盗も同じようなことを言っていたな。鍵とかなんとか。

 そのとき、依頼を受けてくれたら知ることが出来るって言ってたのは、もう僕がすることは決まってたからなのか。

「分かった。だがセキリュティを解除しても、屋敷には少なからず人間がいるだろう?」

「あそこの使用人は、全員年寄りだから早寝だよ。警戒するべきなのは、ただ一人。ミシェルの父親、屋敷の当主だけ。でも今屋敷にソイツはいない。俺の人探しってのが、ソイツを見つけることだ」

「あたしが街中の防犯カメラのデータを取得して、ミシェルの父親の居場所を探し出す。こいつには、そこに行ってもらう。アンタは手紙を見つけ出したら、こいつと合流して。ミシェルと父親を会わせるの」

「俺たちが何かするのはここまで。あとは二人次第だ。でもきっと上手くいくだろ」


 かわるがわる、矢継ぎ早に二人は説明をしていった。

 つまり僕は、手紙を探し出してそれを読み上げた後、ミシェルを、怪盗と父親がいる場所に連れていけばいいんだろう。

「了解だ」

 とは言ったものの、正直どうしてそうするのか、理由が分からない部分も多々ある。だが、いい加減訊きすぎると、幼馴染に叱られるのだ。

 すべて終わったら分かることだろうし、ここは黙って、出された指示に従おう。


「作戦会議終了~! そんじゃ、夜に備えてみんな寝ようぜ。おやすみ」

 怪盗は硬そうな椅子の上で大きく伸びをすると、そのままふんぞり返って目を瞑った。

「あたしはミシェルの部屋に行ってくる。……おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 立ち上がって言ったジェシカにそう返すと、彼女はそそくさと扉へ向かって、この部屋を後にした。

 僕ももう一度寝よう。

 とりあえず、ずっと腰かけていたベッドからタオルケットを一枚引っ張り出して、怪盗に投げ掛けた。この家、古いのだろう。雨風は凌げるものの、気温は外とほぼ同じなんじゃないか。それくらい肌寒かった。

 それから僕は横になる。椅子に座って寝ている家主に遠慮はないのかって? ない。五日間働きっぱなしだったのに、まだ五時間しか寝てないんだぞ。一日平均一時間の睡眠だ。かわいそうだと思わないのか? 僕は思う。

 

 だから、この硬いベッドで出来る限りゆっくり寝かせてもらうよ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 十


夜になった。

ここは、屋敷の中。ミシェルが生まれ育った家である。怪盗から話は聞いていたが、なるほど。あんなに大きさを強調していたのも納得がいく。とても立派なそれだった。

この屋敷、街からだいぶ離れた場所にあり、場所を知らされたときは(体力的な面でも)不安だったが、ジェシカの案内のおかげで迷わずスムーズに到着することが出来た。すんなりいきすぎて逆に怖いくらいだ。


だがジェシカは急げといっていた。

『父親の居場所、見つけたわ。今向かわせてる。アンタも早く手紙を見つけて、読んで、合流して』と無線で言われた。

 

そのため、やや急ぎ足で行動している。肘を掴んでいるミシェルを気に掛けながら、広い屋敷を歩いた。手には、怪盗からもらった屋敷の見取り図。ただそれは、字が汚すぎて読み取れない。

「全然分からないな……」

 スクールに通えてなかったのだから仕方ないのかもしれない。その割には難しい言葉をよく使っているのは少し気になるが、今は関係ないことだ。

 僕は硬い表情をしている少女に顔を向けた。

「ミシェル。君のお母さんの部屋の場所って、覚えていたりするかい?」

小声で聞きながら、いやどうだろう、と思った。

ミシェルの母親が亡くなったのは、ミシェルの目が視えなくなる前のことだったから。……どうだろう、分かるんだろうか。

心配する必要はなかったようだ。こくりと彼女は頷いた。

「そうか、良かった。今いる場所は……図書室の前、かな。行けるか?」

 そう言うと少女はまた、一つ頷いて、迷いなく歩き出した。


 しばらく歩くとミシェルは足を止めた。僕も続いて立ち止まる。辺りを見渡すと、少し先の壁に扉があった。

「……あれか」

 うん、とミシェルが頷く。ああ言ってなかったが、そう、彼女、ノートとペンは持ってこなかったらしい。

 扉に近づいて、ノックした。人はいないだろうが一応だ。

 もちろん、返事は返ってこない。それでも他人の部屋なので「失礼します」と言って中に入った。


 手紙はすぐに見つかった。思ったより便箋が厚い。

 ちょうどその時、またもジェシカから急かしの連絡が入った。手紙は見つけたと報告すれば、さっさとミシェルに聞かせろ、とのことだったので、便箋から丁寧な文字が書かれた紙を取り出し、言われた通り読み上げる。


「ミシェル、君のお母さんからの手紙だ。話はアイツから聞いてたか? ……そう。じゃあ読むよ。ミシェルへ……」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


ミシェルへ


 この手紙を読んでいるということは、わたしはもう、この世にはいないのでしょう。まだ幼いあなたを残していってしまって、ごめんなさい。

 わたしが手紙を書いたのは、あなたにいくつか伝えたいことがあるからです。少し難しいかもしれないけれど、大事なお話です。

 まずひとつめ。ミシェルの髪は、あなたのお父さんと同じ綺麗な黄金色をしていますね。わたしとは、違う色です。

 今、外の世界には、魔法が溢れています。そんな中、魔法が使えない人の髪色は、みんな同じく黒髪です。わたしも魔法が使えません。

 外を怖がって欲しくないから、あまりこういうことは伝えたくはないのだけれど……、魔法が使えないから、という理由でわたしは子どもの頃いじめられていました。

 

 あなたはどうか、そんなことをしないで。


 心優しいあなたのことですから、言わなくてもきっとしないでしょう。なぜ、そんなことをするのかと思うかもしれない。

 でもね、悲しいことに世の中は、それが普通になっている。

 おかしいことです。本当は心の何処かでみんな分かっているはずなの。そうやって、差別をするのはおかしいと。

 昔『わたしたちは皆平等だ』と誰かが言いました。まだ魔法が現れるよりずっと前……魔力ではない、別のことで差別があった時代、世の中を変えようと働きかけた方の言葉です。

 

 今の不平等も、いつか変わるはず。きっと変えてくれる誰かがいるはず。……わたしはずっと、そう望むだけで何もしませんでした。わたしにそんな力があるはずないし、わたしの言葉になど、きっと誰も耳を傾けてなどくれないと思っていたからです。

 

 近所にわたしと同じ黒髪の子はいなかった。わたしは仲間にいれてもらえなかった。実の母でさえ、わたしを疎ましく思っている。鮮やかな髪の兄や妹といる方が楽しそうだし、実際言われてしまった。「あなたはいない方がよかった」と。

 辛かった。そんな時に、唯一優しくしてくれた祖母さえ死んでしまった。悲しくて悲しくて堪らなくて。


 そうしたら、何も視えなくなってしまったの。声も出なくなった。


 不思議でしょう。わたしは魔法が使えない代わりに、そんな不思議な呪いを持って生まれたみたい。

 そんな呪いを解いてくれたのは、あなたのお父さんでした――。

 …………


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「これは……」

 手紙をすべて読み終わったとき、なにかがストンと音を立てた。

 怪盗がこれからしようとしていること。

 なぜ怪盗が手紙の内容を教えてくれなかったのか。

 そして『俺があれば』の言葉の意味。


 手紙を僕に読ませたのは、無駄な説明を省くためでもあるだろうが、多分それよりも……。

 きもちわるいと否定した『似た者同士』という怪盗の言葉、不本意ながら今だけ頷ける。僕が奴の立場だったら、内容の説明はきっとしなかった。


 とにかく手紙は読み終わった。僕が次にするべきことは、怪盗の場所へ……ミシェルの父親の元へと行くことである。

「ミシェル、今から……」

 言いながら少女を見ると、思わず言葉が止まる。


 ずっと瞼に隠されていた、瑠璃色の瞳がまっすぐ僕を見つめていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


十一


『もうすぐ二人がそっちに向かうわ』

「へえ、早かったね」

『一つは解けたみたいよ』

「そっか、良かった。問題はこっちだな」

『上手くやんなさいよ』

 そう言って、こちらの返事も聞かず、ぶつりと音が切れた。

 結構いい感じに進んでるみたいで安心した。でもまあ、こんなに準備したんだ。失敗することはないでしょ。

 もう俺、すっごい大変だったんだぞ。怪盗が本業なのにさあ、なんでも屋さんみたいなことばっかりやってさ。

 ミシェルと探偵さんが来るまでちょっと時間があるから、少し世間話でも聞いてもらおうかな。


 探偵さん、手紙を読んで、どう思ったんだろ。絶対俺と同じこと思ったはずだ。だって似てるもん。ああ、見た目じゃないよ。

 ミシェルから「会った時に、あなたに似てるなって思った」ってきいたときは、どこが? って思ったけど、なるほど。話してみると確かに俺と同じくらい捻くれてる。                         

 

 自分で言うのもなんだけど、俺が怪盗じゃなかったら……それか探偵さんが警察直属の探偵じゃなかったら、俺たちきっと友だちになれたんじゃないかな。アイツ、めちゃめちゃ面白いし、良い奴だし。

 

 ジェシカが惚れた理由もなんとなく分かったよ。……こんなことジェシカに言ったら殺されるけど。「惚れてない!」とか何とか言って。

 だけど、そうじゃないと、プライドが高いジェシカが頼みごとなんてしてこないでしょ。俺になんて言ってきたと思う? うーん、最初に教えちゃうのも面白くないよね。

 とりあえず、頼まれたんだ。「今までどれだけ協力してあげたか、よく考えてね」って。そんな脅迫じみたこと言われたら断れないだろ。自分でやればいいのに、とは思ってもさ。

 でもジェシカも大変だな。俺、やりとり見たとき、腹よじれちゃうかと思ったもん。探偵さんは、乙女心ってものをよく勉強したほうがいい。

 髪は伸びたんじゃないかって言われてジェシカが怒ったの、照れ隠しだって気づいてないんじゃない? 

 頑張れジェシカ。陰ながら応援してるぞ。きっかけくらいなら俺が作ってあげてもいい。

 

 ……っと、二人がもう来たみたいだ。探偵さんが俺を指差して、ミシェルに何か言っている。

 するとミシェルは頷いて、こちらに向かって走ってきた。俺は一瞬焦る。走ったりなんかしたら……でもそうか、もう大丈夫なんだ。

 勢いのままに飛び込んできたミシェルを両手で受け止める。


「目、治ったんだな! 良かった!」

 そう言って腕の中に視線を下ろすと、瑠璃色の瞳がしっかり俺を映していた。

 会ったばかりの頃は、視えてなくても瞼を開いていたんだけど、冬は乾燥するからかずっと閉じられたままだったんだ。それに慣れたんだろう、春を迎えても、ミシェルはそうしていた。

 久しぶりに見るそれは、やっぱりとても綺麗だ。

 頷いたミシェルは、心底嬉しそうに、可愛く微笑んでいる。

「声はどう?」

 聞くと、首を横に振った。一応試してはみたんだ。

「そう、まだ足りないかあ。……ミシェル、約束覚えてる? 君の目が治ったら、俺の名前を教える。だから声が治ったら、俺の名前を一番に呼んでって」

 何度も頷いて、『もちろん』と唇を動かしたミシェルに、続けて言う。


「目が治ったからね。約束通り、俺の名前を教えてあげる」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


十二


 内緒話をするように、怪盗は少女の耳元で、自分の名を呟いた。

「覚えた?」

 うん、と大きく頷く少女に怪盗は表情を緩ませる。

「じゃあこれで約束、一個果たせたわけだ。……あのな、ミシェル」

 一度離れたあと、再び怪盗は顔を近づける。

 怪盗の言葉を聞いた少女は、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていった。

 それから。

 

「にひひっ」

 ミシェルの反応を見ると、いつものように怪盗は笑った。

 それから。


「これでもうひとつもだな」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


十三


 草、木、花……たくさんの植物に囲まれた穏やかな場所に、小さな墓はあった。

 そしてその墓の前に、男が一人立っている。

「やあ、こんばんは」

 突然背中から聞こえた声に、男は驚いて振り返った。

 振り返って、そして更に驚いた。声を掛けてきたのが、見覚えのある少年だったというのもあるが、それより、その少年の横にいる自分の娘に驚いた。

 まともにその顔を見るのは、いつぶりだろうか。昨日は閉じられていた瞳が、今はしっかり自分を見据えている。

 瑠璃色の瞳と、まっすぐに見つめてくるその表情は、亡くなった妻に瓜二つであった。

 今日は、その妻の命日。そんな日であったため、また、薄暗い墓場では髪色も確認しづらいため、男は一瞬、亡霊を見たような、そんな感覚に陥る。

 

「お父さま」


 雪解け水のような、澄んだ声。それが聞こえて、男は夢から覚めた。何も言わず、驚愕の表情で声の主から目を離さなかった。

「お父さま」

 少女はもう一度言ったが、男は答えない。いや、答えることが出来ないのだ。

「……声が、出ないのですか?」

 返事のない父に、瑠璃色が滲む。そして続けて言った。

「……ごめんなさい……!」

 謝罪の言葉だった。それを紡ぐ声は、ゆらゆら儚く揺れている。

「勝手にいなくなって、さみしい思いをさせてしまってごめんなさい! お父さまも、お母さまが亡くなってしまって辛かったでしょうに、わたしは自分のことばかり……。なぜ自分ばかりが、こんなにも辛い思いをしなくてはならないのかと。ひどい娘です、わたしは。お父さまのこと、これっぽっちも考えていなかった、分かろうとしなかった……!」

 男は大きく首を振る。しかし、話しているうちに、とうとう目を覆った娘は、父の否定が見えなかった。

 男は一歩、娘に近づく。

「全てわたしのためだったのに。わたしはずっと、ひどい思い違いをしていました」

 一歩、また一歩。ゆっくり慎重に歩み寄る。

「誰もわたしを愛してくれていないと。そんなことを……お父さまとお母さまの気持ちを踏みにじるようなことを……! とんだ親不孝者です。本当にごめんなさい! 今なら分かります。お母さまの手紙を読みました。二人はちゃんと、わたしを愛してくれていた。大事に想ってくれていた! ほんとうに、大事に……! 調子の良いことだと、呆れるかもしれません、それでも。わたしを育て、大切にしてくれた……わたしを愛してくれたお父さまを、わたしも愛しています! だから」


 言の葉が、ふいに途切れた。

 男が、愛娘を抱きしめたからだ。

少女は一瞬固まる。それから、覆っていた手を外し、おそるおそる、父の背にそれを回した。そしてもう一度、言葉を紡ぎなおした。

「だから、もし許してくれるなら……わたしに、お話をしてくださいませんか。今まで出来なかった分、たくさん……」

 やわらかな風が吹き、葉がざわめく。それに紛れて聞こえた。


「ああ」


 ひどく、かすれた返事だった。

「ああ、もちろんだ。ミシェル」

 背中に回された手に、ぎゅっと力が小さくこもった。

「だからどうか謝ってくれるな。そうしなくてはならないのは私の方だ。まだ幼いお前に、そこまで抱え込ませてしまった。仕事ばかりで、お前をずっと」

「それはお母さまとの約束を守るため……わたしのためでしょう?」

「だが結果、お前を屋敷に長く縛っただけだった」

「でも今、こうしてわたしは外に出ています」

「……お前が屋敷から居なくなったことを知ったのは、つい昨日だった。やはり私は」

「では、知ってすぐに、わたしを探し出してくれたのですね」

「気づいていたのか?」

「後からそうじゃないかと。……一緒に歩くのは、久しぶりでしたね」

「……そうか。そうだな」


 互いに腕をほどいて、少し離れる。

 娘は、少し目のふちが赤くなっている顔に、綺麗な笑みを浮かべて父を見つめていた。


「……親子で積もる話もあるだろ。俺たちは俺たちで、世間話でもしてくるよ」

 ずっと黙っていた少年が後ろから言った。

 俺たち、そう親指を向けたのは、少年よりさらに後ろに立っている、眼鏡を掛けた青年である。

「いいのか?」

 男は少年に問うた。

「昨日あれほど、私を叱責したのに」

「俺が決めることじゃないもん」

 一瞬、口を尖らせて答える。

 それに、と続けた。


「一番に名前を読んでもらったからな。俺はそれで充分だ」

 そう言って、少年は自慢げに笑ったのだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


海は盲目 俺があれば


「お前正気か?」

 ミシェルたちから離れるなり、僕は怪盗に言った。言わずにはいられなかった。

 なぜって、先ほどの男、ミシェルの父親は……

「この国の大統領に説教するなんて、何考えてるんだ」


 そう、あの男、何度かテレビでみたことがあった。先日就任したばかりの大統領である。

 『魔法を使えない者も暮らしやすい世の中へ』という言葉を掲げ、政策を進めている第一人者だ。


「大統領だろうが父親だろうが、今まで放置してたくせに、思い出した途端ミシェルを連れて行こうとしたんだ。そりゃ怒るだろ」

 昨日、博物館でミシェルの手を掴んで引っ張ったのは、ミシェルの父だったらしい。

「ミシェルのために世の中を変えようとしてもさ、ミシェルの目が視えないことに……そもそもミシェルが家にいないことに気付かなかったってのはダメでしょ。大変なのは分かるけど、家でも考え事ばかり、ミシェルの存在にすら気づかない。そんなんで変えても、あの子は救われない」

「まあそれには同意する。だが、亡くなったミシェルの母親との約束を守るのに必死だったんだろうな」

 手紙には、ミシェルへの謝りの言葉も綴られていた。


 外に連れて行ってあげれなくてごめんね、と。

 この世の中が平等になったら、きっと、と。


 屋敷に籠らずとも、あの髪色のミシェルが、差別を受けることはなかっただろう。だが、逆はどうだろうか。子どもというのは非常に染まりやすいし、多数の意見に『それは間違いだ』と言い切れる人間は少ないのだ。

 ミシェルに真っ白のままでいてほしかったんだろうと思う。と同時に自由にいきてほしいとも。


 ミシェルの父は、盲目になってしまったミシェルの母に会ったとき、誓ったのだという。自分が不平等を平等に変えてみせる……彼は、少ない方の人間だった。


「お前だけでも、彼女の呪いは解けたんじゃないか?」

「まあ自信はあるよ。でも手紙に残されたら嫌だろ」

 思わず笑ってしまう。やっぱりな。怪盗が手紙の内容を教えずに、僕に読ませたのは、思った通りの理由のようだ。

 そうだ、僕も君たちに教えなかったけど。

 なんで、だって? 他人の惚気話ほど話したくないものはないからだ。逆に聞きたいのか? 他人の惚気話や色恋沙汰を。


「あ、ジェシカ? 終わったよ」

『おつかれ』

 怪盗が報告すると、短くそれだけ返ってきた。それから何も聞こえない。相変わらず、素っ気ない。

 そういえば、と思い出した。

「ジェシカがお前に協力するようになったきっかけって、結局なんなんだ?」

「ほう、探偵さん。それは報酬なんだけど、『俺があれば』の意味はわかったわけ?」


 ああ、そうだった。それも依頼だったな。はあ、と息を吐いて答えた。

「海は盲目」

「……海ってシー?」

「なんで難しい言葉はよく使うのに、簡単な英語は分からないんだ?」

「仕方ないだろ。俺の育ての親は、売れない小説家だったんだ」

 なるほど、話が下手な理由がようやっとわかった。

「そうだ。海はseaだ」

「じゃあ正解だ」

 にひひっと笑う。

「ジェシカな、アンタと俺を会わせたかったみたいだよ」

「は?」

「まあ、そうなるよな! 頭が良い奴の考えることってよく分かんないけどさ、『アンタといれば、変にバカ真面目なところも治りそう』って。『面白い奴と関われば、考え方も広がって、探偵として成長出来るんじゃないか』って」

「……ジェシカが?」

「うん。めんどくさそうだから、後回しにしてたんだけどな? ついに痺れを切らしたみたいで、すごい顔で脅されたんだ。だからアンタに依頼したんだよ。昨日アンタと会ったのは偶然だけど丁度よかった」

「話がよく分からないんだが」

「だからさあ! 『俺』だよ! そこまでアンタのこと思ってくれてるんだか」

『オイ』

「げ、ジェ、ジェシカ? あれ通信切れてたんじゃ」

『アンタ覚えときなさいよ』

 そう低い声が聞こえると、ぶつり、と通信機器が音を立てた。


「ど、どうしよう俺、死ぬ。俺が生きてるビジョンが視えない。探偵さん依頼だ! 追加依頼! 俺を守って! ねえ、ちょっと! 聞いてる!?」


 海は盲目。彼女は盲目。

 俺があれば。……





 物語はここで終わろう。なんでって?

 僕だったら聞きたくないからだ。


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