せんぱいは今日も本を読む
「ねぇ琴ちゃん、私完璧な絶望ってあると思うのよね」
部室で小説を読んでいると突然せんぱいが話しかけてきた。
琴ちゃんというのはわたしのことだ。ちなみにわたしの名前は『琴』ではなく『由紀子』だ。部活で初めてせんぱいと一緒に本を読んでいたとき、偶然彼女が読んでいたのが『春琴抄』で、そこでふと閃いてめでたくわたしのあだ名は『琴ちゃん』となった。
このことを思い出すとき、わたしって本物の琴ちゃんほど横暴じゃないと思うんだけどなぁ、と頰を膨らませた。
「藪から棒にどうしたんですか。せんぱい」
「今ちょっと春樹くんを読んでたんだけどね、冒頭にこうあったの。『完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね』って。でも私はこう思うのよ、完璧な文章は存在するし、完璧な絶望も存在するってね」
せんぱいには作家や小説の登場人物を『くん』や『ちゃん』をつけて呼ぶというおかしな趣味があった。彼女によると、そうすることでより物語を親身に感じることができるらしい。それを聞いた夜、わたしも自室でやってみたが顔が熱くなってベッドの上で悶えただけだった。
「それでね、私たち二人でチームを組まない? きっと何もかも上手くいくと思うの」
「完璧な文章と完璧な絶望の話はどこにいったんですか……」
「うーん、それはあとで?」
せんぱいはそう言ってたいして悪びれた様子もなく舌を少し出して笑った。せんぱいはいつもそうだ。そんなせんぱいをじっと睨みつけようとしていたが、やがて唇の間からはみ出た小さな桃色がいやに気になったのでわたしはそっぽを向きながら答える。
「まあいいですけど。それで、まず手始めに何をするんですか?」
「ビールを飲もう」
「わたしたちまだ高校生じゃないですか……紅茶ならありますけど飲みますか?」
「のむのむ! 琴ちゃんはなんだかんだで付き合い良いから私好きよ」
「はいはい」
「やーん、つれない。じゃあ好いとーよ?」
「方言の問題じゃないです」
わたしは床に置いていた学生鞄から水筒を取り出して紅茶を注いだ。それを受け取ったせんぱいは「あちっ」と言って顔をしかめていた。それからふうふう息を吹きかけて慎重に飲んだ。その様子を眺めていたわたしは少しずれてしまった眼鏡をかけ直した。
「せんぱいは……」
「ん、なにかしら?」
「いや、せんぱいは悩みとかなさそうでいいなって。せんぱいは勉強も運動もできるし、人気者だし、おまけに美人だし……」
「えっ、最後のもう一度言ってくれない?」
せんぱいは目を輝かせてせがんだ。
「言いません」
せんぱいは「えー」とか残念そうな声色を出していたがわたしは気にせず続けた。
「それなのにどうして読書部なんて作ったんですか」
「んー、秘密かな」
「そんなに重大な理由があったんですか」
「そのうち言うかもね」
読書部の部員はわたしとせんぱいの二人しかいなかった。
高校に入学してから一ヶ月ほど経った頃、特に部活に入っていなかったわたしは図書委員会の仕事をして暇をつぶしていた。毎日本に囲まれているというのは実に気分の良いことだった。
ところがある日の図書室、わたしは初めて会った綺麗な先輩にこう告げられた。
「あなた本は好き? もし好きなら読書部に入ってみない?」
それからはせんぱいと二人きりの、それでいて賑やかな日常が始まった。
今思えばどうしてそんな怪しい勧誘にほいほいとついていってしまったのだろう。せんぱいが可愛かったから? そのカリスマ溢れるオーラにあてられたから? 透き通るような瞳に吸い込まれてしまったから?
いくら考えても言葉にならない感情が胸のなかで渦巻くだけでよくわからなかった。
「ところで、せんぱいにとっての完璧な文章って何ですか?」
わたしは紅茶のおかわりを注ぎながらせんぱいに尋ねた。せんぱいは部活動が始まる前に買ったクッキーをかじっていた。
「ほーひへほひひはひ?」
せんぱいは手のひらで口元を押さえながら答えた。けれど聞こえるのは言葉にならないは行の音がいっぱいとクッキーが口のなかで砕ける音のみであった。
「せんぱい、飲み込んでからでもいいです」
わたしは苦笑した。でもそんなところが可愛いなと思った。普段はきちんとしているせんぱいがわたしにしか見せない顔。
せんぱいはクッキーを呑み込み、仕上げに紅茶で一息つくと先ほどの答えを繰り返した。
「琴ちゃん、どうしても聞きたい?」
「まあ無理にとは言いませんが気にはなります」
「なら特別に教えちゃいましょー」
せんぱいはそう言って自分の鞄を漁り始めた。目的の何かを探している間、彼女は「だらららー」と結果発表の前にかかる音楽を口ずさんでいた。
「だらららー、じゃかじゃん! わたしが完璧だと思う文章はこれなのです!」
そう言って自慢げに取り出したのはコピー用紙の束だった。その右端には穴が開けられていて、その全てのページにはたくさんの文字が印刷されていた。
わたしはその紙の束に見覚えがあった。誰よりも。
「それわたしの書いた小説じゃないですか!」
わたしは思わず大きな声を出してしまった。全く、わたしらしくもない。
「そう、これが私の考える完璧な文章よ」
どう返事をすればわからなかった。
そんなわたしの様子を見て悟ったのか、せんぱいは力強く念押しした。
「私、琴ちゃんの文章は完璧だと思うもの」
わたしは机の上に突っ伏した。
どんな顔をしているか自分でもわからなかった。少なくともせんぱいに見せられる顔ではないのは確かだ。
腕の隙間からせんぱいを盗み見る。彼女は少し楽しそうだった。ちょっと悔しい。だから面倒くさい質問をしてお返ししてやろうと思った。
「本当ですか?」
「うん、本当よ」
「絶対ですか?」
「ええ、絶対よ」
せんぱいは自信満々に答えた。そしてこうつけ足した。
「嘘だなんて、それはもうものすごくありえないわ」
「どのくらいありえないですか?」
「目が覚めたら双子の女の子が目の前にいるくらい」
「だったらありえるかもしれないじゃないですか」
「ふふ、そうかもね」
「せんぱいのいじわる」
やっぱりせんぱいには敵わなかった。
世の中には影響を与える側の人間と与えられる側の人間がいる。せんぱいは圧倒的に前者だった。しかも無自覚だから余計にタチが悪い。
「じゃあ完璧な絶望っていうのは?」
「うーん、法律かな?」
「これはまたずいぶんと大きく出ましたね」
冗談めかしたような口調であったが、それとは対照的にせんぱいの表情は沈んでいて、どうやら本当に絶望しているのかもしれないと思った。
「世のなかやっぱりままならないのよ」
せんぱいは自分の気持ちを落ち着かせようとしているのか長い髪を手で何度も梳いていた。
「そういうものですか」
「そういうものなのよ。やっぱり卒業もあと半年だと思うと色々考えちゃってね」
卒業。
あと半年でせんぱいがいなくなると思うと胸が苦しくなった。
わたしたちはしばらく無言になった。
そして沈黙を破ったのはわたしだった。
さっきはせんぱいにしてやられたのだ。今度はこちらの番。
「たとえ法律がせんぱいを絶望させたとしてもわたしはちゃんと隣にいますよ。せんぱいが卒業したあとも。まあわたしが横にいたところでなんなんだって感じかもしれませんけど……」
「ううん、嬉しい」
我ながらくさい台詞だと思った。でもせんぱいは明るい表情になった。うん、やっぱりせんぱいはこうでなくては。
「そうですか」
そのあまりにも曇りのないまなざしに、わたしは視線を逸らしながら返事をするのが精いっぱいだった。結局わたしは与えられる側だったのだ。
「うん」
せんぱいは満足そうに微笑んだ。それは言い訳のしようがないくらいとびきり綺麗だった。
それから一時間ほどしてせんぱいが言った。
「じゃあ今日の部活はこのくらいにしようかしら」
「そうですね」
わたしも同意した。
そうしてわたしたちは読んでいた本に栞を挟んで、帰り支度をした。
校門前まで一緒に歩き、そこでわたしたちはそれぞれの帰路につく。
「また明日ね、琴ちゃん」
「はい、せんぱい」
せんぱいは駅の方へと歩いて行った。
わたしは遠ざかるその背中を静かに眺めていた。いつもはしないけれど今日はそうしたい気分だった。
するとせんぱいが突然こちらを向いて言った。
「琴ちゃん! 今日はありがとう!」
わたしは手を振って応えた。
それはこっちの台詞だよ……。
やっぱりせんぱいは、ずるい。
そして翌日。
放課後になった。部活の時間だ。
「せんぱい、こんにちは」
「うん、こんにちは。琴ちゃん」
部室に入ってせんぱいと挨拶を交わす。そして各々が読みたい本を鞄から取り出す。
「じゃあ今日も読書部の活動を始めましょう」
「はい、せんぱい」
わたしとせんぱいは今日も本を読む。
ちょっと疲れたら紅茶を飲んで、お菓子を食べて、おしゃべりをする。
それがわたしの日常。
わたしの好きなせんぱいとの日々だ。
願わくばもう少しだけこんな日が続きますように。
最後までお付き合いいただきありがとうございます!
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