一握りの幸福 前編
「わぁぁぁぁ!」
叫んで必死に逃げた。追ってくるのはベヒーモスと呼ばれる四足で走る猛獣型のモンスターだ。図体がデカくて凶暴。知能は高くないが、勘が鋭く身体能力が高いために正面から倒すのは難易度が高いとされる。
(確か!ここの階段を上って!)
僕が曲がりなりにも逃げられているのは、ひとえにダンジョン内でも狭い通路を選んで逃げているからだ。マッピングのスキルを持たない僕は、記憶を頼りに逃げ道をひた走る。
一本道を間違えただけで即、お陀仏。
もう二度と娘に会えなくなる。
それだけはごめんだと、力を振り絞ってダンジョン内を駆け抜ける。
「GURaaaaaaaaaaaaaa!!」
「ヒィ!」
さっきから獲物が捕まらないせいでベヒーモスさんは酷くお怒りのようだった。
唸り声はより大きく、ダンジョンを破壊しながら進むさまはより荒々しくなっていく。
(あと少し、あと少しなんだ!)
次の通路が目的地のはずだ。真っ直ぐ行けば小部屋、左には通路が続いているあのポイント。
なんとしてでもあそこまで逃げなければ。
「Raaaaaaaaaaaaaaaaa!」
だけど、ベヒーモスはそんな僕の希望的な動きに何かを感じ取ったのか、その腕を振るって地面を抉る。
「う、がぁ」
その衝撃派と岩の礫を背中に受けて、僕は地面を転がった。
(あ、危なかった)
今の一撃で保険の護符と防具の耐久値がほぼゼロになったのが分かる。
これらがなければ即死だっただろう。けど、もうそれらに頼ることもできないのだ。次はどんな攻撃も生身で受け止めることになる。
(そう、なれば、し)
「う、うぁぁぁぁぁ!」
ぞっとした。
と、同時に地面を転がるように駆けだして、命からがら立ち上がって何とか逃走を再開する。
距離は、より詰まっていた。
(次だ、次の通路が目的の!)
もう後ろを振り返る余裕すらなかった。
僕は角を曲がって目的の通路に出る。あとはここを駆け抜けて小部屋の前を素通りして左に曲がるだけ。それで、いい、はずだったのだが。
(!嘘だろ)
思っていたよりも通路の幅が、広い。
今ままでその図体のデカさと通路の狭さを利用して追いつかれてなかっただけに、その光景は絶望感があった。
しかし、迷っている余裕はない。
躊躇は、イコール詰められる距離だ。
死にたくなければ覚悟を決めてこの道を進むしかない。
(なんで、なんで僕がこんな目に……!)
死にたくないと心の中で叫びながら、僕は全力でその通路を駆ける。
徐々に、後ろからの圧力が増している。
これは、駄目かも。
(あずさ、すまない!こんな、こんなふがいないお父さんでごめん!)
諦めが心をちらつくと同時に、ベヒーモスの、その殺人的な腕が振われる。
娘の顔を思い出して、僕は咄嗟に左へ飛んだ。
そこは、目指していた通路の終わりだ。
しかし、ちょっと、ほんのちょっと距離と時間が足りなかったように思う。
その凶椀を運よく躱し、左側の通路に飛び込むことはできたが、それまでだ。この先には道は無い。袋小路に追いつめられただけ。
僕はもう立ち上がることもできずに、情けない顔でその怪物の顔を拝むしかなかった。
そいつは、僕のことを見ると、さっきまでの勢いはどこへやら、今度はゆっくりゆっくりと近づいてくる。
ダンジョンのモンスターには、こういう特性があったりする。
例えば、獲物が絶望的な顔で居る様を眺めて愉悦に浸ったり、そんな残虐性を覗かせたりするのだ。
僕は立ち上がれないまま後ずさって、とうとう通路の端まで追いつめられる。
完全に逃げ道をなくし、ただ丸まって恐怖に慄いていた。
怖い、助けて、誰か。
僕の『恐怖』を堪能したのか、ベヒーモスが鼻息も荒く僕に襲いかかろうと姿勢を作る。
その牙で貫かれて、僕の生命は終わるのかと、そう思ったその時だった。
「よくやったトオル。全弾、放てぇっ!」
待ち望んでいた声が響く。
僕がさっき目の前を通過したあの小部屋から、僕の部隊の隊員たちが次々と現れて、ベヒーモスに向けて武器、魔法を一斉に放つ。
その巨体では振り向くことすら困難な狭い通路で完全に背中をとっての奇襲。
これにはいくらこのフロアでは規格外の化け物であろうと、ひとたまりもなかったらしい。
僕は巻き込まれないように縮こまって目を瞑っていたので詳細は分からないけど、ベヒーモスの断末魔がダンジョン内を反響した。
あとはそのまま倒れてくれ。
間違っても僕を道ずれにするような真似だけはよしてくれ。
そういう願いも虚しく、なにか、暗い影が僕に覆いかぶさるように降ってきて。
(ああ、終わった)
そうして、バターンと大きな音が響いた。
まだ死んでいなかった僕は、恐る恐る目を開ける。
すると、目の前数センチ。そんな位置にベヒーモスの巨体が倒れていた。
下敷きにならなかったのは、最後の最後まで通路の端っこで動けず縮こまっていたからで、運が良かったというべきか。
「よか、良かった。生きてる」
「トオル」
ベヒーモスを挟んだ通路の向かい側から声がかけられる。
「よくやってくれた。お前がいなきゃ、犠牲無しでは済まなかっただろう」
身長190センチを超えるその大柄な人は、油断なくライフル銃をベヒーモスに向けたまま、手招きをする。
「どうした、はやくこっちにこい」
「いや、それがですねブライアン隊長」
僕は仰向けに寝っころがりながら、情けなく呻くしかなかった。
「腰が抜けて立てません。至急、手を貸してください」
「にしても」
ブライアン隊長はベヒーモスの解体を行いながらぼやくようにそう言った。
「変だよなあ、ここ最近」
「隊長でもそう思うんですか?」
僕は入手した素材を帳簿にまとめながら聞く。
「ああ。俺はここに潜るようになって長いが、この階層にベヒーモスが出たことなんてなかった。他の隊員からもきな臭い報告が上がってきてる」
「それってどういう」
視線を上げてさっき隊長たちが潜んでいた部屋に向ける。
現在、他の隊員たちはあの小部屋で休んでいるところだ。この場には解体の達人である隊長と、本来はこういう記録とか備品の管理とかが仕事の僕だけが残っていた。
「この辺の階層じゃあ見ないモンスターを見た、なんてのは序の口。迷宮変化の頻度が上がってるなんてのも多い。それに反してダンジョン全体の強度は落ちているみたいだ。あとは、そうだな」
隊長は難しそうな顔で顎を撫でる。
「個人的に一番気になってるのは発掘品の変化だ。数は減ってるのに、質は上がってる。そんな奇妙な状態、噂でも耳にしたことはなかったんだが」
「ああ、それは僕も思ってました」
手元にあった回収品のリストを確認する。
「回収品の数そのものは二割も減ってますけど、その分こっちの格付けが高いものが出ているんで収支はトントンって感じなんですよね。これ、どういうことなんでしょう」
「さあな、俺が知りたいくらいだ。……よし、これで終わり。撤収掛けるぞ」
「あ、はい」
ベヒーモスの解体も終わり、必要な素材をリュックに詰めて、僕たちは元来た道を戻っていく。
「今回の探索はこれで終わりだな。でけえ獲物仕留められたおかげで、いつもよりデカく稼げただろ」
「ええ、見てください。今回の報酬、計算したらほらこんなに。隊員全員で分けても十分なくらいですよ」
隊長は僕の出したリストを眺めると満足そうに頷いた。
「このペースが続くなら、借金なんてあっという間なんだが」
「いえいえ、あんな目に遭うのは、少なくとも二度とごめんです」
いくら報酬が良くても、死んでしまったら元も子もない。僕はギャンブルでここに来ているのではなく仕事として稼ぎに来ているのだ。それを忘れてはいけないと、いつだって強く自分を戒めている。
「じゃあ、欲かかねえで帰りはちゃっちゃとするか。……今日も、向こうに戻るんだろ?」
「はい。いつも便宜を図って貰ってありがとうございます」
「気にすんな。早く帰って娘さん、安心させてやんな」
この人には本当に頭が上がらない。
「ほら、行くぞ。今なら、きっと晩飯一緒出来るぞ」
「はい!」
僕は隊長の大きな歩幅について歩いていく。
さあ、今日も生き残れた。
帰るんだ、家に。
「う、これだけは何回やっても慣れないな」
隊長の力を借りてこっそりとゲートを通って、元の世界に帰ってくる。
本来ゲートの無断使用は厳罰ものなのだが、隊長は穴を見つけて秘密裏に僕をこっちに返してくれる。僕も書類の偽造なんてしたくは無いけど、背に腹は代えられない。
娘が待っているのだ。
ゲートの開いた先は会社がダミーとして用意しているビルの一室だ。駅から近いし、ビルの中にはほぼ人がいないのでよくこの場所を利用させて貰っている。
僕はゲートを通った後に残る独特の違和感を頭を振って追い払い、こそこそとビルから出て駅に向かう。
時間は、まだ十分夕飯に間に合う時間だった。
「ただいまあ」
「あ、お父さん!お帰りなさい!」
鍵を開けて玄関に入ると、部屋の奥でテレビを見ていたあずさがぱっと顔を上げて満面の笑みを浮かべる。
「今日は早かったんだね!」
「ああ、仕事が早く終わってね」
この子には寂しい思いをさせてると思う。
「今日は、一緒に夕飯を食べよう」
「それでねそれでね、今日お友達のエリちゃんとね……」
僕は笑顔で頷きながらあずさの話を聞く。
あずさは、今年で九歳になる。母親はなく、父である僕も家を空けがち。そんな環境で真っ直ぐに育ってくれている。それは、奇跡と呼んでいいだろう。
まだ外で遊んでいたい年ごろだろうに、家事の多くをしてくれるし、夜は戸締りをきちんとして一人で眠る。
娘の成長はもちろん嬉しい。けど、どこか悲しい。それは家を空けなければならない罪悪感からか、それとも、もう僕なんか必要ないんじゃないかという焦りからか。
少なくとも、あずさは他の子よりも早く自立するだろう。
「お父さん?」
「うん?どうした?」
「なんだか、疲れてる?」
気を、使われてしまった。僕はやっぱり父親失格かも知れない。せっかくの二人の夕食を、暗くしてしまってはダメだ。
「そんなことないよ。あずさと一緒に居られる幸せを噛みしめてたんだ」
そう言って笑顔を見せても、あずさの顔から不安の色は消えなかった。
困ったなぁ、と少し思考して、それを思い出す。
「そうだ、今日はお土産があるんだった」
「お土産!」
「うん。見ててごらん」
僕はあずさの目の前に軽く握った手を差し出して『スキル』を使う。
スキル『一握りの幸福』
「うわぁ!」
開いた手の中には、小瓶に入った不思議な色合いをした砂が出現していた。
『一握りの幸福』は僕の手のひらに収まるサイズのものに限り、それを自分の中に収納しておける能力だ。好きな時に手の中の物をしまえて、好きな時に取り出すことが出来る。
大したスキルを持つことができなかった僕が、唯一持っていたスキルである。
「綺麗だろ」
僕は小瓶を梓に渡す。
あずさはそれを宝物のように胸に抱いた。
「うん、とっても」
「それだけじゃない。その瓶をゆっくり逆さにしてごらん」
「こう?」
あずさが小瓶をゆっくり回すと、砂は少しずつ側面に、そして逆さになって流れていき。
「あ!」
その砂が、きらきらと不思議な光を放ちだす。
「凄く、綺麗……」
あずさはさらに瓶を逆さにするが、今度は勢いが付きすぎて砂は一気にそこに落ちてしまった。そうすると、砂は光を放たない。
「あれ?」
「ふふ、それはね、ゆっくりとした速度で流れるときにだけ光るんだ。焦っちゃだめだよ」
これはダンジョン内で手に入るアイテム『星の砂』だ。
どういう原理かはまだ判明していないけど、ゆっくりと流れるときにだけ光を放つ不思議な砂で、本来は無断でこっちに持ってきていいものではない。
けれど、光るだけで利用価値のないこのアイテムは換金率が低く、この程度の量だと無料同然で引き取られるために、こうしてこっそりと、スキルを使って娘のお土産に持って帰ってきたのだ。
「また今度、同じものを持って帰ってくるから、それで砂時計でも一緒に作ろうか?」
「本当に!」
興味津々といった表情で砂を眺めていたあずさが顔を上げる。
その目は、星の砂に負けず劣らずきらきらと輝いていた。
「ああ。約束だ」
「うん、約束」
それからあずさは、食事中も寝る前も、ずっと星の砂に夢中だった。
持って帰ってきてよかったと、心の底から思えた夜だった。
「くー、くー」
「……」
静かな寝息を立てているあずさ。その手には星の砂が入った小瓶が握られている。
まるで大事な宝物のように。
「ごめんな、あずさ。いつも寂しい思いをさせて」
寝ている娘に対しての、意味のない謝罪だ。
僕はその頭を、そっと撫でる。
この子は、二年前に重い心臓病にかかっている。
その時この子を救ったのが、異世界の技術だった。けれど、それと引き換えに、僕は膨大な借金を背負うことになった。
それだけじゃない。僕がこの借金を返せなくなったら、その返済はあずさが背負うことになる。この子が、あのダンジョンに潜って。
「……」
そんなことは絶対にさせない。
だから僕がやるんだ。危険でも、家に帰るのが大変になっても、生きて帰って、あずさともう一度、普通の生活を取り戻す。
「大丈夫、大丈夫なんだ」
僕は自分を鼓舞するために、小瓶の上からあずさの手をぎゅっと握った。
これで、明日も頑張れる。
きっと。