僕の父と母。
僕の母はマシュー・コルトという。
ザウツートン事変で国境を越えざるをえなかったベルモン人だ。
ベルモン人は肌が真っ黒で、皆体型はどっしりとしている。
背は低く、目が大きくて鼻はまるい。
シビ大陸で生まれ育った母は成人するまで故郷で農業を営んでいた。兄が三人、弟が二人、姉が二人に妹が一人。
マシューという名前は本名ではない。捨てた本当の名前は、ミルカというらしい。
ザウツートン事変はシビ大陸史最大といえる内乱だった。母の祖国、レイア帝国の百年ぶりの政権交代が果たされた矢先の出来事だったという。
母はこの事変についてあまり話さない。
いつだったか、母は未だに、この時家族と離ればなれになり、遠目で兄が一人射殺されるのを見たのが夢に現れると言っていた。
命からがら亡命した母は密漁者だった父に救われた。
広い海原を泳ぎきれないと悟った母は、一度完全に生を諦めたが、再三の密漁停止命令を無視していた父は湾岸警備隊に発砲された時のためにと、人質として、遭難しかけていた母を船へ引き上げた。
「『トド並みに重いなお前』って言われたんだよ」
母はちょっと不服そうな顔で教えてくれた。
僕ら家族は、今果てしなく続くハイウェイを高速で車をとばし、走り抜けている。行き先は父しか知らない。
当の本人は運転席で、煙草の煙を盛大に吐き出しながら、ラジオが流す競馬レース中継に夢中だ。
凄まじいスピードを出しているのに、片手運転で眩しげに目を細め、母が差し出したサングラスをかけた。
僕や母がつけると全く似合わないそれは、父のとがった顎先とか、女の子みたいに小さな小顔には似合う、扱うにはむずかしいやつだ。
ひそかに僕は、サングラスをつけて、煙草を吸う父はあぶない大人の男というようなかんじがして、かっこいいと思っている。
「ッカー!使えねぇな六番!殺処分にしちまえ役立たず!」
…ラジオにむかって、怒鳴り散らす姿は全くかっこよくない。
父は黒い肌の母がベルモン人だと知り、いつでも餓えていた自分の祖国と比べ、体格のよい豊かさの象徴みたいな母に、チクチクと嫌みを言った。でも放り出すこともなく、母にも密漁の手伝いをさせて、シビ大陸の混乱が落ち着くまで一緒に過ごした。
出会ってから三年、シビ大陸に入国する者も珍しくなくなってきた頃、三年の間に生まれた僕をあやす母に父が言った。
「帰るならガキはつれてけ。俺は面倒みれねぇ」
「クズだ…」
思わず呟いた僕に、母がクスクス笑いながら言う。
「でも、次の日には『シビは、天然記念物の宝庫らしいな。隠してんじゃねぇトド』っていって一緒に来てくれたんだよ。でもやっぱり、…もう住めないと思った」
母が悲しそうに顔を曇らせると、何か感じとったのか二歳になったばかりの弟、ノアがむずがった。ノアの手をとって、ぷくぷくの弟の手にキスをする母は教えてくれた。
自分が育った故郷は自然豊かで、他国に比べれば文明も遅れていたらしかったけど、穏やかで素晴らしい所だった。しかし、新しい政権が樹立し、街並みも国民の暮らしもどんどん発達していったその姿に、母はもう故郷という気がしなかったのだ。
その後、母は父についていき、砂漠の国にたどり着く。
いかがわしい商いを次から次へと思いつき、日がな銭を稼いではトンズラを繰り返す父に、くる日もくる日も食事を作り、子の世話をし、時には自覚ないまま犯罪の片棒を担ぐような真似もした母は、それでもどうしようもない父に惚れているのだと言う。
「マシューって名前も、タイラーがつけてくれた」と嬉しそうに言うので、母がいないときに父に尋ねた。
なぜあの名前にしたのか。
たしかに母に似合う、可愛い名前である。僕は父に話をねだり、期待して耳を傾けた。
「マシュー?豚って意味だな、俺の祖国じゃ。覚えとけよ、モーグ。」
「…最低だよ、父さん」
パチモンの壺を、金持ちの若者に売り付けた金で買った酒にべろべろになっている父に母は甲斐甲斐しく世話を焼いている。
それがなんだか気に入らないが、母は結局父に尽くすのが幸せらしい。
北の果てにある大陸に、かつてあった国が父の祖国だ。
父の抜けるように白い肌も、日に当たるとキラキラ光ってキレイな黄金色の髪も、祖国じゃ当たり前なのだという。
意地悪げに見える、つんととがった顎先や、ちょっときつい目付きも、母の目には全く違うように映るらしく、「神様みたいに美しい人」だと褒め称える。
そして二人の子どもである僕ら兄弟の褐色の肌にも、「温かみのある色」だと褒めちぎる。さすがに十歳になった僕まで、「キャラメルちゃん」といとおしそうに呼ぶのはやめてほしい。
でも僕はある日気づいてしまう。
ジャングルばっかりの国に入った時、父が母のことを「マシュー」と呼ぶのを聞いた、同乗していた船乗りが、微笑ましそうに両親を眺めていた。
僕は、船乗りが僕らと違うルートへ進むと言って別の船に移る時、船乗りに聞いてみた。
「マシューだなんて。坊やの行ったことのない、北のうんと寒いところじゃ、“かわいい子”って意味だよ。」
仰天する僕に、船乗りは大笑いしながら去っていった。
母は今でも父が言うとおり、豚という意味の名前だと信じているし、父はなんにも教えてやらない。
なんだか僕は、十歳の誕生日をむかえてからどんどん大人になっていってるようだ。
ある日の早朝、トイレに起きた僕はノアが僕の大事なテディベアにかぶりついたまま眠り込んでいるのに気がつき、腹立たしいやら悔しいやら、でも幸せそうに眠る弟に怒れないというジレンマですっかり目が覚めてしまった。
その日は、父がバブルとか言うみんなが金払いのいい時期の真っ最中だという国に行き先を決めて入国したばかりだった。いつもより豪勢なホテルに泊まり、部屋を二部屋もとってくれた父の機嫌は近頃では飛び抜けて良かった。
今なら父も、僕が両親の部屋に突撃してもいつもみたいに蹴り出さないでくれるはすだ。
でも、ドアの前に立って、僕は焦ってしまった。
苦しげな母の声が聞こえるのだ。
まさか。クズだクズだと思ってはいたが、父は母に暴力をふるっているのか。
ドアの前で、聞いたことのない母の声を聞きながら、固まってしまった僕はなんだか泣けてきてしまった。
僕はあの意地悪でかっこいいクズな父に勝てる気が、これっぽっちも無い。母さん、ごめんなさい。突撃して、怒鳴り声でも浴びせられたら漏らす自信しか今の僕にはない。
鼻をすすっていると、どれくらい時間が経ったのか分からないが、やがてドアが開いて中から父が出てきた。
見上げると、僕を見下ろすその視線とばっちりぶつかってしまい、僕はヒーッと声をあげてしまった。
父は全裸なうえに、いつもよりぎらぎらした目付きで、なんだか酒くさい息で僕に言った。
「もうちょい、待ってろ。お前も妹がほしいだろ」
父さん、約束が違うじゃないか。
十二歳になった僕は、ピンクのふわふわのベビー服に包まれた可愛い弟をおんぶして、父の「見張ってろ」という言いつけを守っている。
無人島なのに、何を見張れというのか。
父は怪しい薬を瓶に詰め、この島の岩山をその隠し場所に選んだ。腹がまたふくれてきた母とノアは、船で待っている。
大人になってしまった僕が分かったのは、両親がそれはもう愛し合っているということだ。
父は相変わらずクズだが、ただ一人意味を知ってしまった僕から言わせると、「マシュー」と堂々と呼ぶあたりからかなり母にぞっこんなんじゃなかろうか。
今日も僕の父は母を「マシュー」と呼び、母のまるい鼻の頭にキスをして、あやしい商売をしに違う国へ旅立つのだ。
タイラー、マシュー、モーグ、ノア。
ピンクのベビー服を着た弟は、タイラー命名のエリザベスくんです。




