小話: 背負われた子の頃
大学受験を終えて合格発表までの間、俺達はすっかり気が抜けていた。だから、というわけでもないんだろうがある日突然佐羽の奴が部屋に転がり込んできた。
真っ赤な顔をしたあいつはへらりと笑いながら玄関先で倒れて俺を驚かせた。風邪、だった。
「……具合悪いなら家で寝てろよ。なんでこの寒い中うちまで来るんだよ」
「ん……なんか、1人でいたら嫌な気分になっちゃってね」
「ガキか」
おかゆなどという気の利いたものは作れやしないから、俺はとりあえず薄味のカップ麺を選んでお湯を入れる。食うか、と聞くと佐羽は素直に頷いた。まるきり子どもじゃねぇか。
「ったく……別にいいが、感染すなよ?」
「大丈夫でしょ」
あっさりと言われた。何となく予想はついたが理由を尋ねてみれば「だって何とかは風邪ひかないって言うじゃない」と返される。この受験直後の時期にそういうことを言いやがるんじゃねぇよ。
「俺にしてみりゃお前のそれは普段の不摂生のせいだ」
「頼成だってまともに自炊なんてしてないんでしょ。台所がとっても綺麗」
「うるせぇ、寝てろ病人」
俺が憎まれ口を叩くと佐羽は嬉しそうに笑う。風邪からくる発熱で弱っていることくらいは見れば分かる。だからベッドも貸してやったし布団も足してやった。軽口にも付き合って、こいつの気が済むようにしてやろうと腹をくくる。
風邪をひいたとき、佐羽は大体いつもこんな調子だ。ただ、昔はそうじゃなかった。ひたすらに我慢をして高熱で気を失って初めて周囲がそうと気付くような、そんな馬鹿なガキだった。誰かに頼る、だなんてことは思いつきもしなかったんだろう。ま、それは俺も分からないでもない。
それがこんな風に妙な甘え方を覚えたのはいつの頃からだったか。3分が経過したカップ麺に割り箸をつけて佐羽の方へと押しやりつつ、俺は昔のことを思い出していた。
* * *
「槍昔くん、ちょっといい?」
隣のクラスの担任教師に声を掛けられた小学生の俺は「またか」という顔をして振り返ったはずだ。当時俺と佐羽は普通に小学校に通っていて、普通に授業を受けて普通に過ごしていた。いた、のだが時々佐羽は周囲との間でトラブルを起こした。他人の悪意に敏感な佐羽は自分に向けられたそれに対して防御というには過剰な反応をすることがままある。俺もそれをうまく受け流せなんて言うつもりはなかったが、何故か教師達は佐羽への対応に困ると俺を呼んだ。
「何すか。また佐羽が何かしたんですか」
違うよ、と教師が慌てる。慌てる、ってことは後ろめたさもないではないんだろうが。それは別にいい。
「じゃ、何」
「風邪みたいなの。熱があるから、おうちの人に連絡したんだけど繋がらなくて」
「風邪?」
そういえば、とその日の朝の佐羽の様子を思い出した。どことなくとろんとした目つきをしていて顔が赤かったのは熱のせいか。俺は溜息をつきながら教師の前で携帯電話を取り出してゆきさんにコールする。家にも電話はあるが、俺と佐羽以外に出る奴がいないから基本的に留守電だ。そしてゆきさんへの直通電話もその日に限って繋がらない。チッ、と俺は舌打ちをした。教師がどことなく後ずさる。小学生相手にビビってんじゃねぇよ。
俺は教師を横目で見ながら家の留守電にゆきさんへのメッセージを吹き込んだ。佐羽に何かあったとなればあの人は手を打ってくるだろう。あの人の佐羽への執着は度を越しているが、それが俺達を生かしていることにも当時の俺は気付いていた。だからそれはそれで利用させてもらうまでだ。
それから俺は保健室で寝ているという佐羽の様子を見に行った。案の定あいつはぐったりと寝込んでいて、俺が来たのに気付きもしない。顔色は赤を通り越して少し青ざめていて、これはひどいぞとさすがの俺も少し焦った。
保健室の先生は戻っていいと言ったが、俺は頑として佐羽の傍を離れなかった。結局、この世界に頼る相手が少ないのは俺も佐羽も同じことだ。ゆきさんに連絡がつくまでは俺が、という思いと同時に俺もまた心細かったんだろうな。
しばらくして、俺は黄色い光が斜めに差し込む保健室で目を覚ました。寝ていたことにびくりとしながら身体を起こすと、目の前のベッドに佐羽の姿がない。俺は慌てて、ぐるりと後ろを向こうとして、身体のバランスを崩して派手に転んだ。大丈夫? と柔らかい声が降る。
佐羽の声じゃない。ゆきさんの声でも当然ない。教師の声でもなくて、低い男の声は聴き覚えがあるような、ないような。
「ごめんね、今、手が離せないんだ」
顔を上げた俺の目の前に大きな背中とそこにちょこんと背負われた佐羽。まだ眠っているようで大人しいあいつを軽々と背負って、その背中が声を出す。
「大丈夫。佐羽くんは僕がちゃんと送っていくから」
「あんた」
誰だよ、という言葉を呑み込んだのはどうしてだったか。小学生だった俺は多分あの時ぼんやりと思ったんだろう。
ああ、この人が佐羽の父親なのか……って。
分かってる。そんなことはありえないし、もしそうだとしても佐羽の父親がこんなに優しい声をしているはずがない、と当時の俺は思っていた。何しろ佐羽は捨て子だったんだ。子どもを捨てる親の気持ちは俺には分からないし、捨てられた子どもの気持ちも分からない。だから俺は究極、佐羽に寄り添うことができない。
ただ、この大きな背中の持ち主はそんな佐羽の身体を自分の身体にぴたりとくっつけて、とてもその姿がしっくりきて。だから何となく、そんな馬鹿げたことを思ったんだろう。
それ以来その人の姿を見ることはなかった、はずだ。
* * *
夕暮れの光が斜めに差し込む俺の部屋で、佐羽は呑気に寝息を立てている。安心して眠ったせいなのか、呼吸は穏やかで熱も引いてきたようだ。
相変わらず俺は肝心なところでこいつに寄り添うことができない。ゆきさんの手の中で非道に手を染めて笑うしかできないこいつをどうしていいのか、分からない。
だがきっと、こいつはいつか自力でそのことに決着をつけるんだろう。だから俺はそれまで何とかこいつを守っていこうと思う。
不意にベッドの上の佐羽がごろりと寝返りを打った。布団がずれたのが目についたのでかけ直してやると、薄く開いた白い唇からか細い声が漏れる。
「ありがと……おとうさん」
「……佐羽?」
俺はお前の父親じゃねぇ、とか。高校ももうすぐ卒業するっていう歳になって何言ってんだ、とか。
そんな文句より先に浮かぶ疑問が俺の頭を支配する。
父親を知らないはずのこいつがどうしてそんな嬉しそうな声で父親に対する礼の言葉を口にできるんだ? こいつは一体誰の、何の夢を見ているんだ。
俺には分からない“父親”との記憶でも思い出しているのか、熱に浮かされた佐羽は妙に嬉しそうに微笑んで眠り続けていた。
執筆日2014/09/17




