小話: 玉子色の魔術師の話
表札、というものはうちにはない。代わりに馬鹿みたいな“関係者以外立ち入り禁止”の文字が来訪者を拒むこの扉が俺の家の玄関扉で、それを開けるときに俺が声を発することはない。鍵を差し込んで、回して、開けて、中に入って扉を閉めて鍵をかけて。そうして俺が自分の部屋で着替え終わって出てきた頃にときどきゆきさんが顔を出す。それから、俺はゆきさんに付き合って。
頼成が家を出てからはそんな毎日だった。俺は家に帰らないことも多かったし、ゆきさんもいつも家にいるわけじゃなかったから本当にそこが自分の家である実感なんてこれっぽっちもなかった。たまに泊まりにいく頼成のアパートの方が落ち着くくらいだった。
家なんてそんなものなんだろうね、って俺はどこかでそう諦めていたんだけど。
「ただいま」
そう声を掛けて玄関を開けるようになったのはつい最近のことだ。返事はあるときとないときがあるけれど、今日はあると確信できた。扉を隔てていても道路に漏れていた匂いに俺の胃袋がきゅううと鳴く。嘘吐きな持ち主に反して正直な臓腑を宥め、俺はもう一度。
「緑さん、ただいま」
おかえり! と明るい声が聞こえて奥のキッチンから黄色いエプロンを身に着けた緑さんが笑顔を覗かせる。人間離れした緑色の髪は向こうの世界を思い出させるし、この人が昔俺達の大切な子の生命を奪ったことは未だに許す気になれないけれど。
でも、当の彼女はその辺りのことを全然気にしていないみたいだから、俺も頼成も正直に言ってこの人を憎み切れなくなっているんだ。御覧の通り、いい人だしね……緑色だけど。
「佐羽くん、今日はオムライスだよ!」
佐羽くんオムライス好きでしょ? そう聞かれて俺は一瞬だけ言葉に詰まった。嫌いじゃないよ、オムライス。でも、外で食べるときには半分も食べられればいい方。そして俺がそれくらい食べるのはむしろ珍しいくらいで。だからオムライスは多分、俺にとっては好物のひとつに数えられるんだろうけど。
「好きだよ」
俺が笑って答えると緑さんも笑う。屈託のない笑顔で差し出された黄色い皿を前にして、俺に降参以外の何ができたっていうの? 俺は緑さんの作る料理だけは残さないで食べることができたよ。だって、本当に美味しかったんだ。今でも信じられないくらいにさ。
「お前最近よく食うようになったよな」
頼成の指摘に驚いて、俺は綺麗になった自分の皿を見る。休学中だというのに頼成は遠慮なくこうやって学食で昼食をとっている。安いから、がその理由。安直。さすが頼成。
これまでにもたまに2人で学食に入ったことはあったけれど、俺が出された料理の全てを食べたことなど一度だってあっただろうか。頼成はただ不思議そうに、そしてどこか嬉しそうに「もっと食えよ」などと言っている。ああ、呑気なものだね。でも分かって言っているのかもしれない。頼成の目は少しだけあの日の緑さんに似ている。俺は黙って笑った。けど、うまく笑えていたのかな? 自信、ないや。
「ただいま」
そう声を掛けて玄関を開けるのはもうこれはすっかり癖のようなもので、返事がないと分かっていてもやめられない。自分の部屋に鞄を置いて服を着替えて手を洗って、キッチンの壁にかかっている黄色いエプロンを手に取る。俺の身の丈には長すぎるそれを腰で折って纏えば、染みついた美味しい料理の匂いがした。緑さん……このエプロン、大きすぎるよ!
そして俺は2個玉子を割る。
ところで、ねぇ、緑さん。あのオムライス、一体どうやって作っていたのかな? 俺が作るといつも、どうしても、塩辛くって食べられやしないんだよ。綺麗な玉子の色もぼやけた視界に溶けて見えなくなっちゃうんだ。
俺がいないキッチンに黄色いエプロンと、一口しか食べられなかった塩味のオムライス。緑の色は、もうどこにも見えやしない。
執筆日2014/09/05




