第五話 鳩を出すのはやめましょう
「父上、少しお聞きしたい事があるのですが」
「おお、なんだい? 怜ちゃんの質問ならパパ何でも答えちゃうぞー」
怜が味噌汁を飲み干して、机にお椀を音も立てずに置いた。綿式家の朝食は和風の御膳でしっかり量を摂る為に、随分と時間的には早い習慣である。
そんな部活をしていない高校生ならばまだ夢の中の早朝に、眠気さえ欠片も見せずに怜は口を開いた。
「以前お聞きした『男性専用緊縛型強制限界突破器具』ですが、使い方を誤ると怪我の危険性もあったのでしょうか?」
「なんだそれは?」
目を丸くする父親に怜は気色ばんだ。
「ほら、従姉殿の結婚式の二次会で少しお酒を過ごされた時、私の男友達関係をしつようにお尋ねした後で教えてくださったじゃありませんか」
「ああ……そんな事もあったな」
遠い目でその二次会を思い出している父親にもう一度問いかける。
「それであの特訓器具は使う時には、拘束衣を着せてスイッチを押すだけでしたよね?」
「なんだ怜ちゃんはあれを使うつもりなのか? あんな半分冗談で作った装置なんで実際には使用禁止だぞ。あれはどちらかというと拷……ごほん。お仕置きのためのものだからな。
素人が使ったら間違いなく怪我しちゃうぞ……あれ? 怜ちゃん、なんで頭を抱えているの?」
「な、なんでもありません」
怜は額を押さえていた手を外し、ふらふらと立ち上がった。
「用事を思い出したので、もう登校しますね」
「ああ、怜ちゃん気をつけていくんだよ」
いつになく精彩をを欠いている愛娘を、父親は気遣わしげな視線で送り出した。
◇ ◇ ◇
「……というわけで全治二ヶ月って事になっちまった。入ってそうそう怪我で訓練をリタイアってのも情けねぇが、ま、俺一人の責任ってもんでもねぇしな」
「何を言ってるんだよ! 全部正義のせいじゃないか! ピンチに陥ったらパワーアップの一つもできないなんて……やる気あるの!?」
かなり無茶苦茶な文句をつける千美の頬を正義は無事だった右腕でつねる。
ダメージは左腕に集中していたとはいえ、まだ右手も動かすと微かに痛んだ。正直、今日ぐらいは部活動を休もうかとも考えたが、教室でのパンダ以上の注目度に負けて部室へ逃げ込んできたのだ。
さすがにこの部室内の方がはるかに居心地はいいが、千美にここまで言われる筋合いはない。
「お前がいきなりスイッチ押したんだろうが! 責任をとれとまでは言わんが、もう少し罪悪感を感じてもいいだろうに。
それにしても餅よりよく伸びるな、ほーら、ほーら」
「その手を離せー、無礼者ー!」
「正義、千美をつねるのをやめるんだ! そしてどうせなら僕の頬を……はあはあ」
思わずドン引きした弾みで手を離してしまった正義は、しみじみとご褒美を期待している悟を眺める。
「お前って本当に全方位型で弱点なしの変態だな」
「いやあ、それほどでも」
「誰も褒めてはおらん」
なぜか顔を赤らめた悟るの頭を軽くはたいて怜が登場した。
いてて、と嬉しそうに頭を押さえる悟に処置なしと肩をすくめて怜は正義の具合を観察するかのように目を鋭くした。
「おいおい、この部室にきている時点でそれほど大した怪我じゃないのは判るだろう。まあ、次の番長戦争には厳しいがどうにかするって。
確かにあの修行道具はどうかと思うが、失敗したのも俺が未熟なだけで怜には文句はないぞ。だからそんなに気にしないでくれ」
「……そう言ってくれると助かる」
複雑な表情で怜が頭を下げた。その上に「あ、これはお見舞いだ」といそいそと果物の入ったバスケットを手渡ししてくる。正義が懸念していた通りに彼の怪我に責任を感じているようだ。
「だから、気にするなって言ってるだろ。わざわざ準備してくれた道具を使いこなせなく怪我するなんて、こっちが謝らなきゃいけないぐらいなんだからな。
貴重な道具を使わせてくれた怜にむしろ悪いことをしたかなって……おい、なんで胸を押さえて暗い顔をしてるんだ?」
「い、いや、なんでもない。そのほら、リンゴをウサギさんにむいてやろう。頼むからむかせてくれ。だから、もう正義のほうこそ謝らないでくれ」
持ってきたリンゴを綺麗な居合いの型で一振りごとにウサギの形に切り裂いていく怜の姿に、千美は訝しげに首を捻る。
普通リンゴなどをうさぎにするというのは、皮を耳の形に残してむいていくものだが、怜は彫刻のように刃で果肉を削りリアルな造形のウサギを作っていく。むいているというよりもリンゴをその形に削っていくのだが、目は皮を残して赤くしてある点などが無駄に凝っていた。
だが、どうもいつもの怜のキャラクターには似合ってないようだ。
「怜はどうしたんだい? まるで捕まりそうな犯人が名探偵に必死で媚を売っているみたいだよ」
「それは言いすぎだぞ! 怜がそんな卑怯な事をする女性じゃないのは千美だって知っているだろ!」
悟が珍しく語気を荒げて千美を叱った。怜の清廉潔白さはこの番長部でも周知のようだった。いかにも気品のある女剣士というのが彼女のイメージとして相応しいと正義ですら納得する。
千美もさすがに言葉が過ぎたと感じたのか素直に怜に謝った。
「怜、ごめん! 怜が見たこともない態度をしてたからちょっと口が滑っちゃった。怜がそんなに汚いまねするはずないの知ってたのに、本当にごめんね!」
「……千美がこんなに真面目に謝ってるのは初めてだな。俺に対する謝罪がないのを考えるとかなり複雑だが、怜も許してやれよ……だから、なんで怜は心臓の辺りを押さえて『すまん』って口走ってるんだ? 謝るのはこっちの方だろうが」
なぜだか千美や正義が口を開く度に雰囲気が暗くなっていく怜をだった。
気遣う正義に「大丈夫だ……お願いだから私の事は気にしないでくれ。ああ、ウサギは一匹じゃ寂しくて死んじゃうんだった」と、悲愴な表情で日本刀を振るってうさぎさんを量産していく彼女に周りの番長部員も困惑気味だ。
雰囲気を変えようとどんどん増えていくうさぎファミリーを見ないようにして、正義が千美に左腕のギブスを差し出す。
「千美の技術でなんとか回復を早められないか? どうにかして一ヵ月後の本戦にでたいんだが」
「うーん、僕も色々考えてはみたんだよ。なにしろ正義がいなくちゃメンバー不足で試合放棄になっちゃうし、うちの学校で募集しても正義が転校してくるまで誰も入部しようって子はいなかったからねぇ。
正義が復帰してくれないと部としてもこまるね。そこで……」
と千美はどこかで見たようなビーカーから異臭を漂わせる液体を掲げた。その蛍光色の得体の知れない液体からは異様なオーラが漂っていると正義には感じられた。
前回の千美ご自慢のピーチ味のドリンクを思い起こし、さすがに腰が引けてゆく。
「また怪しげなドリンクを……」
「ち、違うよ! これはそう、こんな事もあろうかと準備していた『骨成長促進剤』だよ! この薬さえ飲めば骨折ぐらいの怪我なら一晩で完治するよ。さあ、正義。今すぐ一気飲みするべし」
千美は「ふっふっふ」と含み笑いを浮かべてビーカーを前にしてじりじりと間合いを詰めてくる。明らかにその姿は薬を勧める医者ではなく、人体実験を行おうとするマッドサイエンティストだ。
そんなどこか別の世界を覗き込んでいるような視線の千美から、一定の距離を保とうと正義も目立たないように後退していく。
「本当に骨折が一晩で治るのか?」
「うん! 保証するよ!」
逃げ腰の正義に向かって、千美は自信たっぷりの笑顔で頷いてくる。その薬の効果に対する信頼には一点の曇りもないらしい。
だがそれでも正義の胸から不安は去るはずもなかった。
――この骨折を一晩で治せるのに千美はお墨付きを与えた。しかし、その後の保障はしてないよな。
「治せるというのは判ったが、副作用はないんだろうな? 本番は一ヵ月後なんだ、もしも妙な影響がでてデメリットが大きいならその薬は飲めないぞ」
「だ、大丈夫だよ! ……きっと」
千美はさっきまでの確信に満ち溢れた態度から、急にきょろきょろと辺りを見回す仕草になってけして正義と視線を合わせようとしない。
うん。つまりこの薬は効果は抜群かもしれないが、副作用はもっと大きいってことだな。正義は一ヶ月で骨折を完治させる薬なのに病院で処方されずに千美が持っているのにようやく納得がいった。
そりゃこの番長部部長が口ごもるような副作用のある薬なら、どんなに効果があっても認可される訳がない。
内心でマッドサイエンティストを極めて真っ当に評価しながら、あわあわと挙動不審な千美の手からビーカーを奪い取る。
何を勘違いしたのか「さ、一気にぐいっと!」と顔を輝かせる千美に突きつけた。
「副作用がないなら試しに千美が飲んでみてもいいよな?」
正義に向けられたビーカーが、まるでメデューサの首だったように千美は硬直した。ポーズボタンを押されたゲームの登場人物並みの静止状態に「やりすぎたか? いや、そんなのを俺に飲まそうとしていたのか」と怒りが湧き上がってくる。
その怒った雰囲気をサングラス越しにでも悟ったのか、千美は強張った顔に涙を浮かべた。
「やだよぅ。これは骨の成長速度を促進させる薬だから、飲んだりしたら骨折も治るけど同時に関節ごとに骨も伸びちゃって身長がプラス二メートルされるんだよ! 僕の背を伸ばす研究結果の一つだけど、あんまり効果がありすぎて実験もできなかったんだ!
動物実験しようにも、マウスでさえ最近は僕のあげる餌を食べてくれないし……、せっかくの人体実験のチャンスなのに僕に飲ませようとするなんて信じられない!」
「いや、信じられねぇのは俺の方だよ。そんな怪しげな薬を人に勧めてたのか」
「だって明日には骨折がくっついてるんだよ!? 身長が二メートルもプラスされてるんだよ!? 高身長はもてる条件なんだよ!?」
「だったら千美が飲めばいいだろうが」
「僕は怪我してないし、飲んだら身長が三メートル五十になっちゃうじゃないか! 女の子にそんな身体的特徴をあげつらう事言うのはセクハラだよ!」
背中の毛を逆立てた猫のごとく逆切れした千美がセクハラだと騒ぎ出す。いや、最初に飲めって言ったのはお前だとか、正義なら身長四メートルを超える巨人になっても良かったのかなど抗議したいのは山々だったが、正義はぐっとその憤りを抱え込んだ。
泣く子には勝てぬとの格言通りなのか、なぜか他の部員二名が絶対零度の視線を正義に投げかけていたのだ。
理不尽な状況におちいった正義は、ひくつく表情筋をなんとか制御しながらおだやかに語りかけた。
「泣くなよ、別に怒っているわけでも絶対にその薬を飲めと強制している訳でもない。ただ俺が飲んで巨大化するのはちょと無理だと思っただけなんだ。だから俺をジャイアント化させるその薬は今回は無かった事にして他の手を考えようぜ」
「……本当に怒ってない? 僕に飲ませない? ちょっとでいいから飲む気ない?」
逆上していたはずの千美が一転して涙を滲ませて胸の前で手を合わせ上目遣いで尋ねてくる。いや、身長差の関係で千美はほとんどいつも上目遣いになっている為に慣れてはいるが、それでも可愛い幼女による破壊力は抜群だ。
普段のボーイッシュな態度からかけ離れた可憐な態度に、怒りが正義の腹の内から消滅していった。
「ああ、本当に怒ってもいないし無理に薬を飲ませたりもしない。……そして俺も絶対に飲んだりしない」
「ちっ」
千美は潤んだ瞳をすぐに乾かして舌打ちする。合わせた手を外すと猫っ毛のショートカットをぼりぼりとかきまわす。
「あー、じゃあどうしようか? 今から正義の代役を立てるのも無理なんだよね。なら、少しでも戦力の減少を食い止めるためには正義の怪我の影響を少なくしなきゃいけない。
ここまでは異論がないよね。そこで提案なんだけど正義が千美印の薬を飲むのが嫌なら、その骨折した左腕に『ギプスロケットパンチ』を装着するのはどうだろう?」
正義は無意識でギプスに守られている左腕を右腕でかばいつつ、千美に疑問符を投げかける。
「ギプスロケットパンチってこのギプスを飛ばすのか?」
「うん、そうだよ。ドン! ピュ―って!」
オーバーな仕草で爆音と空気を切り裂く音を描写する。このマッドサイエンティストは本気で折れた腕をロケットの発射台にするつもりのようだ。
「それ本当にやったら俺の左手は反動で酷いことになるんじゃないか? ただでさえ怪我してるんだぞ」
「……あ、第二案としては『仕込みギプス』とかはどうかな?」
千美は何かを誤魔化すようなそぶりで第二案を出す。おい、本当に俺の怪我した手のこと気にしてなかったわけじゃないよな?
仲間への信頼が削られていくのを感じながらも正義は答えた。
「仕込みギプスって……まあ、仕込み杖や鞘に入った日本刀がお構いなしならルール上の問題はないわけか。
だったら中に何を仕込むかが思案のしどころだな。千美に何か腹案はあるのか?」
「えーと、ドリルとかいいね!」
笑顔で削岩機を進めてくる幼女に左腕だけではなく頭痛も感じる正義だった。大体俺はドリルなんぞにロマンを抱く科学者ではない。
すると怜がウサギを量産するのを止めて口を出してきた。
「基本的に仕込み武器というものは隠し武器なんだから、相手の意表を突くものでなければわざわざ隠している意味が無いだろう。
そういう点を考えて――鳩とかウサギを出すのはどうだ?」
「俺は手品師か! というか怜はそんなにウサギが隙だったのか!?」
正義の突っ込みに怜は微かに口を尖らすと「それなら正義は何を仕込み武器にするんだ?」と追求してくる。
ギプスの中から鳩やウサギを出すという意見を否定されたのがかなりご不満のようだ。正義からすれば「鳩なんかを出して受けをとった後はどーするつもりだ?」と尋ね返したい所だが、ここは大人になるべきだと自制する。
何より、隠すのならこれだろうというアイデアを持っていたからだ。
「俺のギプスには旗を仕込んでくれ」
「それもやっぱり手品だよ! 鳩もウサギも万国旗も手品師がシルクハットから取り出すようなのは駄目ー!」
千美の科学者のロマンも怜の小動物も正義のかなり真面目な提案も、全部まとめて却下されそうな雲行きだった。