第3話
「男っ気がないあんたにも、ようやく相手が現れたんだねえ」
「ははは……」
『宿り木』の女主人カルラがそう言って笑うのに対し、シーラは乾いた笑い声を返すことしかできなかった。
昼の忙しい時間帯を乗り越え、穏やかな雰囲気漂う『宿り木』。
客はまばらで、特に急ぎの仕事もなく、シーラは調理場で皿を洗いながら女主人と話し込んでいた。
「ふぅ……」
実のところ、シーラはくたくたに疲れていた。
今日も『宿り木』のランチタイムは盛況だったため、数多くの客をさばいてもうへとへとだった。
それでも休憩を取らずにカルラの手伝いをしようと思ったのは、得体のしれない命の恩人を泊めてもらっている恩があるからだ。
しかし、今はもうさっさと奥に引っ込みたくなる気分だった。
「ねえ、どこまで進んでるんだい? そう簡単に身体を許しちゃ駄目だよ? 男は調子に乗るからね」
「いえ、だから、そんな関係ではなく、ただの命の恩人だと何度も……」
皿洗いをしつつ、シーラは今日何度目か分からない説明を繰り返す。
恰幅がよく、おおらかな性格の女主人カルラは、良くも悪くも面白い話にはすぐに飛びつく野次馬根性の持ち主だ。
1週間前、シーラがリュウを背負って帰ってきた時は事情を話せ話せとせっつき、「命の恩人だ」と紹介すれば、何を勘違いしたのか「大事な人ができたんだね!」と喜ぶ始末。
何度訂正しても聞く耳を持たず、いくらなんでもうんざりし始めてきた。
「けど、やけに気にかけてるじゃないかい」
「あれはそういうのではなく、ただ彼に注意をしているだけで……」
どうしてあんな男とそういう関係に見られなくてはいけないのか。
シーラはまた1つため息をつく。リュウの生活ぶりをカルラに話せば、少しはこの誤解も解けるのだろうかと考えながら。
1週間、『宿り木』で宿泊している彼を見ていてよく分かったことがある。
彼はひどいぐーたら男だ、ということだ。それも筋金入りの昼行燈。基本的に1日を無意味に過ごしている。
例えば朝。
『うぅ、おはようございます……』
『リュウ殿、もう昼だ。いくらなんでも寝過ぎだぞ』
リュウが起床するのは太陽が高く昇った頃だ。まだ眠気の取れていない顔で、ふらつきながら階段を降りてくる。
それはちょうどシーラが食堂の掃除をする時間帯と重なるので、眠たそうな目で遅い朝食を取るリュウの姿を何度も目撃した。
その度に「だらしない」と思ってしまう。もっときっちりとした生活をすればいいのに、と。
見るに見かねて早起きしろと忠告するも「夜遅くて眠いから」の一言で返されて終わり。改善する様子はなさそうだ。
昼、リュウは宿屋の自分の部屋でこもっていることが多い。何をしているのかと思ったシーラは、一度部屋を訪ねたことがあったが、その時の彼はベッドにごろんと寝転んでいるだけで、何をしているわけでもなかった。
最初は異国の地に萎縮して怖がっているのかとも思ったが、違った。彼はただ単にごろごろするのが好きなのだ。ベッドで幸せそうに昼寝している彼を、苦言交じりに起こした時につくづくと感じた。
『昼間からぐーすか寝ているだけで、他にやることはないのか?』
『昼間から寝るっていう最高の贅沢を味わってるつもりだけど?』
この言葉には頭が下がる。真性のぐーたら男なのだと思った。
ただ、ここ3日ほどは外にふらりと出かけることもあった。何をしているのかはよく分からず、時々土産と言ってシーラやミラセにお菓子を買って帰ってくる。財布を持っていないくせにどこにそんなお金があるのかと尋ねてみると「企業秘密」とよく分からない答え方をされてしまう。
盗品かとも思ったが、どんくさそうな彼に盗みができるとも思えない。謎だ。
金銭に絡む謎と言えば、彼は本もよく買ってくる。やはりどこからそのお金を捻出しているのかは不明で、彼の部屋にはいつの間にか書籍の山脈が出来上がっていた。
夜遅くまで起きているのは本を読んでいるためらしく、夜になるとコーヒーを貰いに酒場にやってくることが度々あった。
その時の酒場は大抵宴もたけなわで、多くの客が酔いつぶれ、シーラや他の従業員が忙しく接客や介抱をしていることが多い。
リュウはそんな場にふらりと2階の部屋から降りてくる。手には分厚い何かの本を持ち、眠たそうな顔で台所へと向かう。
何か用かとシーラが尋ねると「コーヒー」と眠そうな顔で答え、器具を勝手に使ってコーヒーを淹れると、また部屋へと戻っていってしまう――こんな出来事が2,3回あった。
そこまで熱中しているならばどんな本を読んでいるのかと思い、彼の部屋を掃除している時に積み重ねてあった本を改めてみると、なんてことはない、絵物語や小説といった娯楽的な読み物しか置いていなかった。
もっとためになる本を読めばいいのにと、シーラは思う。限りある時間を浪費しているのを見ると、もったいないと感じてしまう。
そう、彼には時間が余りある。1日をぐーたら過ごせるぐらいの、多くの時間がある。
それがおかしな話だった。
旅人というのはそこまで余裕のある身分ではない。自由気ままと言えば聞こえはいいが、本来はその日の糧や宿を探すために必死にならなければいけないはずだ。
はっきりとした身元も持たないため、簡単に職は見つからず、見つかったとしても大工手伝いといった力仕事や、魔物・野獣退治などの危険な仕事ばかり。
また、国によっては宿を取れないこともある。その場合、民家の馬小屋を借りられればまだ良い方で、大抵は野宿になる。土や石の上で眠るのは身体を壊しかねない厳しさだ。
つまり彼は本来、積み重なる宿代という借金を返すために、そして元の土地に帰る交通費を稼ぐために、もっと必死にならなければいけないのだ。
なおかつ、これからも旅を続けていくための路銀を稼ぎ、健康体を保ちつつ、日々研鑽しなくてはいけない。
少なくとも、シーラがこれまで見てきた旅人たちはそうだった。1日1日を生き延びるために皆、焦った顔ばかりしていた。
なのに、彼にはそんなあくせくした姿が見られない。お気楽顔でベッドに寝転がり、本を読み、時々出かける。その繰り返しだ。
やはり貴族のお坊ちゃんが観光目的で旅しているだけなのだろうとシーラは考えていた。
1、2か月すると彼のお付きがやってきて、宿代や食事代をまとめて払ってくれる。だから彼自身は何も慌てていない。そうに違いない。
良いご身分だなと思う。そしてますます、彼という人間の矮小さ、器量の小ささに幻滅してしまう。
貴族ならば貴族らしく、一般市民の模範となるような生活をするべきだろうに。
彼が命の恩人でなければ、その性根を叩きなおそうと怒鳴りつけていただろう。
「シーラちゃん、お皿が割れちまうよ?」
カルラに声をかけられて、シーラはハッとする。いつの間にか、皿を洗う手の力が強くなっていた。今にも陶器製の皿が割れそうになっている。
男への不満が募りすぎて、自然と力が入っていたようだった。
「す、すみません」
シーラは慌てて力を緩めて、洗った皿を脇に置く。
皿を持ち上げた拍子に、水がはねてメガネのレンズにかかってしまった。
シーラはすぐに黒縁メガネを取り、服の袖で水を拭き取っていく。
その姿をカルラがにやにやとした顔で見つめていた。
「うん、大丈夫だよ」
「はい? 何がですか?」
「シーラちゃんなら、きっと一発で落とせるよ。あたしが保証するから。メガネを取ったらそんなに綺麗な顔してるんだし」
女主人は心底そう思っているらしく、シーラの顔をまじまじと見つめては「綺麗だねえ」と呟いていた。
しかしシーラは大して喜びもせず、再びメガネをかけなおし、皿洗いを再開した。
「綺麗」。シーラの素顔を知っている者のほとんどがこう評するほど、彼女は美しかった。鼻立ちははっきりしていて、顔の輪郭は非常になめらか。とび色の瞳は輝き、唇は何も塗らなくともピンク色に染まっている。
その素晴らしい容貌を『赤い髪に彩られた端整な顔つきは彗星のきらめきの如く』と詠む人がいたほどだ。
だがシーラ自身はそんな評判など気にも留めていない。むしろ、忌々しいと思っていた。
いくら顔がよくとも、人間として何もできなければ意味がない。
野に咲く花がどれだけ綺麗であっても、人民を救うことはできないのだ。
「……知らない人間の前でそう簡単にメガネを取れません。カルラさんもそれを分かっているでしょうに」
「そりゃあ、あんたの身元が割れないためにゃ必要だろうけど、男の前ぐらい綺麗にしときたいもんだろう?」
「……」
「で、いつ告白するんだい?」
「しません。私はあのような男に微塵も興味が湧きません」
女主人は意外そうな顔をした。
「そうなのかい? もったいないねえ、なかなか良い男だと思うんだけど」
「どこをどう見て、そのような判断を?」
「女の勘だね。私の勘はよく当たるんだよ?」
確かにカルラの勘はよく当たる。嵐が来る日をぴたりと当てたり、卵が腐っているかいないかを割る前に当てたりといつも驚かされている。
しかし、今回ばかりは外れだろう。あのぐーたら男が『良い男』とは到底思えなかった。
「ああ、そうだ。この後、野菜の買い出しに行ってくれないかい? ちょうど赤羽草と白無垢根を切らしちゃってねえ」
「了解です」
ちょうどよくリュウの話題が切れてくれて、シーラはほっとするのだった。