第1話
「はっ、はぁ、はぁ」
うっそうと生い茂った森林、通称『青葉の森』。
どんな季節でも何かしらの木に青葉がつき、1年中緑木に覆われ続けているのが『青葉の森』の名の由来だ。
都市郊外に位置するこの森はとても広い。入り口付近ならば比較的平穏な森で、普段平民たちが散歩がてらの散策をしたり、子供が湖で泳いだりする、憩いの場となっている。
「はぁ、はぁ、はぁ」
だが、そんな森も入り口から離れた奥深くへと入れば、道はなくなり森は深くなる。
人の手が入らない森は、静かで、幽玄で、凶暴だ。
若干の木漏れ日に照らされ、陰鬱とした雰囲気すら感じられる中、シェンラ=ミルウェイは己の命の終末を予感した。
ボロ布のようなシャツ、ごわごわとしたスカート、汚れたエプロン――こんなものが自分の死装束かと思うと、彼女は運命の非情さに呪いもしたくなった。
「はぁ、はぁ」
胸を大きく上下させて呼吸を整え、目の前にいるオオカミ型の動物を注視する。
それはただのオオカミではない。体長3メートル、牙が異常に発達し、岩ですら噛み砕けそうな巨大オオカミ――魔物だ。
牙狼と名付けられているこの魔物は、前足をゆらゆらと動かし、今にも飛びかかろうとしている。
「くっ」
シェンラは赤い髪を翻し、とび色の輝く瞳で後ろをちらりと振り返り見る。
後ろには背の高い草と太い木の幹が立ちふさがっており、彼女は自分に逃げ場がないことを悟った。
ぐるるるる
巨大オオカミが唸っている。獲物に威嚇行動を行っているのだ。口に収まらないほどの太い牙からは白く濁った涎がしたたり落ちていて、食料を前にして喜んでいる様がうかがえた。
そんな明らかな危機を目にしてもシェンラがその場から動けないのは、今の今まで森の中を逃げ回り、もう体力が尽きてしまったからだった。
せめて剣を、いや、剣に準じる何らかの武器があれば、彼女は抵抗していただろう。逃げるだけでなく、自らの腕でもって魔物に斬りかかろうとしたに違いない。
だが、薬草摘みに来て道に迷っただけのシェンラがそんなものを持っているはずもなかった。
そもそも神魔戦争が終わってすでに2年が経ち、魔物の姿などついぞ見られなくなったこの世の中で、薬草摘みのためだけに武器を携帯する者がどれだけいるだろうか。
「はぁ、はぁ……運がないな、私も」
武器はなく、逃げ場もない。今にも魔物に喰われようとしている。
絶望を感じるにふさわしい状況。
これで終わりなのか。こんな暗い森で、1人の女として死ぬしかないのか。
国に恩返しすることもできず、己の志を遂げることもできず、死んでしまう。こんな死は自分の望むものではなかったはずなのに。
「神はいなくとも神を呪いたくなるな、これは……」
ぽつりと呟き、皮肉めいた笑みを浮かべるシェンラ。それでも心の底では諦めるつもりはなく、逃げる方法を懸命に考え続けるが、現実は彼女を待ってはくれない。
魔物がついにその牙をもって飛びかかろうとしてきた――その時だった。
ぐるるるるる、ぐぎゃっ!
「それ」は空から降ってきた――爆発音と共に砂埃が舞い上がった。
「それ」は魔物の身体を直撃した――潰された魔物は完全に沈黙した。
「それ」は人の形をしていた――地面が凹むほどの衝撃だったのに怪我ひとつしていなかった。
「すぅすぅ……」
シェンラはこの世界に神がいないことを改めて実感した。
もし神がいるならば、熟睡している男が空から降ってくるなどという、馬鹿げた出来事を起こすはずもないだろうから。