第16話
「返事はどうしたシェンラ。王の辞令であるぞ」
「……は、はい! いえ! す、少しお待ちください! 今、頭の中を整理しているところでして!」
玉座に座るアルトレ王とその横に控えるゲルマが悠然と見下ろす中、シェンラはわたわたと慌てた様子で頭を下げていた。
リュウトはそれを見て無理もないと同情する。降って湧いたような王の辞令には驚いて当然。リュウト自身、この突然の事態を理解するために頭をフル回転させなくてはいけなかった。
王から話があると城に呼び出され、シェンラと共に城に出向いたまではいい。改めて礼をすると言われていたので、その件だと思っていた。
だが、玉座の間に来いと呼び出された時、リュウトはまず不思議に思った。シェンラ1人ならばともかく、この国では数少ない人間しか正体を知らない自分を、どうして周囲の目がある玉座に呼び出すのか、と。以前会った時と同じく、王の私室で会えばいいはずだ。
考えられる理由としては1つ。ゲルマは大臣や貴族たちへの説明で、今回の王様救出作戦の際に外部の協力者を雇ったと言ったはずだ。今回はその協力者として王からの言葉を頂戴しろという意味なのか。
だが、玉座の間に入ってすぐ、その答えすら間違いであると分かった。
どういうわけか、玉座周辺にはアルトレ王とゲルマの2人しかいなかったのだ。
玉座というのは王の居る部屋なのだから、警備は厳重のはず。さらには謁見者の質問に答える時、王に助言を与えるために大臣などが傍に控えていなければならない。給仕が1人もいないのも変だ。
何かがおかしい。
4人の人間と1人の元天使しかいない玉座の間。
いったい何が始まるのかと思っていたら。
シェンラに「リュウト殿についていけ」という命令が出された。
(……まさか)
リュウトは頭をフル回転させる。
今ここで起こっている出来事を理解し、事実の裏側を見極めるために。
シェンラの後ろで静かにたたずみ、じっと彼女たちの話に耳を傾けることにした。
「その……ゲルマ騎士団長、質問をしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「なぜそのような命令をなされるのでしょうか?」
シェンラの問いに、リュウトも頷いて同意する。そう、理由を聞かせてほしい。シェンラを自分につける理由を。
もしその理由が、こちらの推測通りのものだったならば、とかすかに目を細める。
ゲルマは「ふむ」と顎に手をやった。
「理由はいくつかあるが……大きな理由は2つ。1つは、この国の未来のためだ」
「この国の未来……?」
「この1年、元宰相に国を操られ、多くの民衆が苦しんだ。我々はこの先、決してこのような事態が起こらないようにしなくてはならない」
「は、はい。だからこそ私たち近衛隊も、一層王の警備を厳重にし、よからぬ輩が入り込まないようにと」
「それでは不十分なのだよ、シェンラ。元宰相はこの国の仕組みを悪用した。アルトレ王に全ての権力が集中する仕組みをな。よって」
ゲルマはそこで一区切りをつけ、玉座に座るアルトレ王をちらりと見た。
アルトレ王は何も言わない。だが、その目から見えるのは慈愛の意。
ふっ、とゲルマは小さく笑う
「……アルトレ王は王制の廃止を検討しておられる」
「なっ……!」
「もちろん、今すぐにというわけではない。じっくりと、何年もかけた上で国の仕組みを変えていくのだ。私個人として、何もモデラート大陸の国々のような民衆主体の国にせずとも、権力の分散を行うだけで十分だと考えているが……何にせよ、我々は変わらざるをえない」
リュウトはその言葉に彼らの強い意志を感じ取った。
国を変えるというのはそう簡単ではない。長く続いてきた国ならばなおのこと。反対する者も数多く出るだろう。
それでも彼らが決意を固めているのが、ゲルマの言葉の端々から感じられた。
その意志、何者にも代え難い。
「我々は変わる。だが、いったいどう変わればいい? 何百年も続いてきた国の根幹に、どこから手を加えていけばいいのか。目的と目標をどこに建ててればいいのか……古い因習にばかり縛られてきた我々では分かるものも分からない。ならば、外から学べばいいと我々は結論づけた。そしてそのために、シェンラ、お前を外に送り出す」
シェンラの喉がひゅっと鳴る音がかすかに聞こえた。
「外は広い。ガーラスト大陸の国々はおろか、モデラート大陸の国々などは我々とははるかに違った文明だと聞く。島国アマテルの技術や、魔大陸にある貴重な資源はどれほどのものか……外から学ぶべきものはたくさんある。
シェンラ、お前にはそれらを学び、我々にとって必要だと思うものを知らせてほしいのだ。それを参考にし、我々は国の改革を行う」
ゲルマは1枚の紙を取り出した。それはおそらく今回の辞令をしたためた書類なのだろう。
玉座から降りてきた彼は、シェンラにそれを手渡しする。
受け取ったシェンラは、震える手で文面を読み上げ、小さく首を横に振った。
「こ、こんな重大な役目を私などに! 国を変えるための方針作りなのですから、もっとふさわしい者がいるはずです!」
「もちろん、外に出るのはお前だけではない。そもそもすでに他国に駐留している人間はいくらかいるし、他にも何人かを友好国に送り込む予定だ。それに、何も外国の技術を見てくるだけではなく、書状を届ける使者としての役目も担ってもらうつもりだ」
なるほど、とリュウトは思う。ゲルマたちが行おうとしているのは、『あちら側』の世界で言う『使節団』や『大使』の派遣に近かった。
外国に滞在し、外交交渉や条約締結、その国に滞在する自国民の保護などを行う全権大使は、外の国とのつながりを保つ上でとても重要な立場にある。外国に駐留し、外の情報を自国へきちんと知らせるのは外交戦略上大切なことだし、ある程度の交渉事でいちいち自国から人を派遣する必要もなくなる。
『あちら側』ほどの確固とした仕組みがこの世界にあるわけではないので、ゲルマたちの計画がどれだけの成果をあげられるかは未知数だが、大陸の南で引きこもっているよりは、外国文明を調査して良い物を取り入れていく方が効率的だ。
計画自体は悪いことではない。
だが。
「ならばなおさら私などを外国にやっても……」
「シェンラ、私は前に言ったな。お前の長所であり、短所でもあるのは素直すぎることだと」
ゲルマの諭すように言う。
「こう言ってはなんだが、魔法も使えず、生まれも我々とは違うお前が、どうして近衛隊副隊長にまで上り詰めることができたと思う? なぜ皆が、お前を尊敬していると思う?」
農民上がりのシェンラが、騎士としての地位を確立できた理由。それはきっと……と、リュウトはその続きを予想する。
続くゲルマの言葉が、予想の的中を示す。
「それはな、お前の見る目と、吸収力にあると私は思っている。物事をまっすぐに捉えられるからこその力だ。お前には独断や偏見が少ない。あったとしても間違いだと気付けばすぐに修正できる。そして吸収したものを自分なりに発揮できる。
騎士として教えられた剣技や体術を、お前はあの離宮への潜入でよく見せてくれた。近衛隊副隊長としての知識は、この宮内警備案を見れば、きちんとお前の中に蓄えられ、熟成されていることが分かる。
他の者ならこうはいかない。体術、知識共に、お前ほどによく吸収し、発揮できる人間を私は見たことがない」
「私はそんなたいそれた人間では……」
「ならば他の例をあげようか……そうだな、例え相手がどれだけ偉かろうが、間違っている部分があると思えばそれを指摘できること。それはな、できて当然というわけではないのだ」
ゲルマの視線がこちらに向けられていることに、リュウトは気付いていた。『相手がどれだけ偉かろうと』というくだりは、おそらく先日のごたごたのことを言っているのだろう。
シェンラもそのことが分かっているのか、申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。だが、リュウトは会釈を返すこともなく、その場で佇むことにした。
ゲルマが「まあ」と繋げる。
「今回は、お前の早とちりと理解不足でしかなかったが……もっと物事を知れば、お前はさらに輝けると私は思っている」
「そんな」
「外の国の文明や考え方に触れてこい。国のためだけでなく、お前のためにもな」
「……しかし、ならばわざわざリュウト殿についていけと言わず、何人かの供と各国を回れば済むことでは」
「リュウト殿は様々な国を訪れているらしいのでな。しかもその国の最も発展した技術や思想にも触れていると聞く。この方についていくことは、それだけで何百回の外遊に値するだろう」
「リュウト殿がそれを承知するはずが……」
「昨夜、従者であるルシィ殿と話したのだが、リュウト殿もお前を気に入っているとのことだ。1人の女を連れることなど何の問題もない、とルシィ殿から聞いている。リュウト殿に直接お話をするのはこれが初めてだが……」
ルシィの名が出てきた瞬間、リュウトは口出ししそうになるのをぐっと抑えた。そしてそういうことかと納得する。
「どうでしょうか、リュウト殿。シェンラを連れていってもらえますかな」
期待を寄せるゲルマと、不安そうにしているシェンラ。2人の視線に晒される中、リュウトは己の思考に1つのピリオドを打った。
この国の目的、ゲルマの言動、そしてシェンラが負わされる役目。全てを鑑みて、リュウトはこれから取る行動を決定した。
だが表向きはまだ逡巡している風を装い、リュウトは口を開く。
「少し考えさせてもらってもいいですか?」
ゲルマは少し意外そうな顔をした。
「何か、ご心配されていることでも?」
「人を1人預かるとなれば、迷いもしますよ。さほど時間はかからないので、お願いします。外の空気を吸って考えをまとめたい」
「それは構いませんが……では、ここを出てまっすぐ行ったところにあるバルコニーでどうぞ。そこなら静かだし、考えもまとまるでしょうな」
「ありがとうございます。では」
リュウトは踵を返し、早足で玉座の間を後にした。アルトレ王は何も言わなかった。ゲルマも黙って見送った。シェンラだけがついてきそうな気配がしたので、扉を勢いよく閉めることでそれを防いだ。
後に残ったのは王と騎士団長、そして女騎士だけ。
銀髪の従者の姿がいつの間にか消えていることに彼らが気付くのは、その少し後のことだった。
※
リュウトの足はバルコニーに向かうことはなかった。王宮の廊下を、警備兵の目に止まらぬよう隠れて歩く。しばらくして人通りのない物陰を見つけると、そこの壁にもたれかかった。
そこは王宮の最も端に位置している場所だった。長い廊下の少し折れたところが行き止まりで、人通りが少なく、あるのは物置に使われている部屋だけだ。
わざわざ物置に来る人間はそう多くない上に、曲がり角が壁になって長廊下を通る人間からは見られることがない。また、部屋の中には外につながる窓もある。今のリュウトの目的に、最も適した場所がここだった。
リュウトはふぅと一息つき、一言。
「ルシィ」
「ここに」
短く名前を呼ぶだけで、銀髪メイドが廊下の角からひょいと姿を表した。どこからついてきていたのか、なんて疑問は不要。彼女というメイドは「そういうもの」なのだ。
短めのスカートの上で手を組み、背筋をぴんと立てたルシィは、主からの言葉を待ち受けている。
リュウトはそんな従順なメイドに対し、厳しい表情を向けた。
「答えろ。昨日の晩、俺がシェンラと話してる間に部屋の前から少しの間気配が消えてたのは、ゲルマさんと話をしていたからだな」
「はい。彼が宿を訪ねられたので、対応いたしました」
「そこでシェンラを連れていく云々っていう話もしたのか」
「はい」
淀みなく答えるルシィ。
リュウトは自分の頭をひと掻きし、不機嫌そうに口元を歪めた。
「それがどういうことか、お前も分かってるはずだろ」
「はい」
「これ以上は過干渉だ。撤収する。白蓮は街をぶらついてるんだな? すぐに見つけて、この国を出る」
そう告げたリュウトは、物置部屋への扉を開けようとする。この部屋は、事前の調べで警備態勢が薄い区域に当たっていることが分かっていた。王様救出作戦の前日、ゲルマに手紙を自分で届けた際(郵便配達では事前の検閲で弾かれる可能性があったため)、王宮に忍び込むついでに調べたのだ。
この物置の窓からならば、警備に気付かれることなく外に出ることができる。客が長く戻ってこないことを不審に思ったゲルマが兵たちに探しに行かせる前に、自分たちがもうこの街の外に出ているようにするのが当面の目標だ。
だが、やることは数多くあり、間に合うかどうかは微妙なところだろう。自分がここにいた痕跡を全て消さなくてはいけない。宿屋の部屋を片付け、ゲルマに宛てた手紙やシェンラに貸していた護符は回収。子供に売ったおもちゃは他の大陸でも売っているようなものなので、まだ許容範囲か。
人の記憶に残ることだけはどうしても防げないが、ゲルマたち以外には偽名を使い、正体も隠していた。こういう時は『流舞武人は筋骨隆々の大男』という誤解も役に立ってくれるし、早々簡単に自分がここにいたことを証明することはできまい。
自分に仕えるとまで言ってくれたシェンラには申し訳ないが……これもまた巡り合わせ、当初の予定通りというやつだ。
リュウトがそうやって撤収の手順を確認していると、ルシィが直立不動の姿勢のまま一向に動こうとしないのに気付いた。
時間がないぞと注意しようとするが、彼女の強い意志のこもった目に気付き、リュウトは一瞬たじろいだ。
「ルシィ?」
「お言葉ですがご主人様」
流れるように紡がれる言葉。
ルシィは何事かを主張しようとしているのだ。
「シェンラ様はご主人様にとって必要な方と、私は考えております」
扉を開くリュウトの手がぴたりと止まった。
一瞬耳を疑った。内容はもちろんのこと、ルシィが自分の指示に逆らい、あまつさえ私見を述べてくるなんて――それもじゃれつきや破廉恥な言動ではなく、至極真面目な状況でだ。
これまでにないわけではなかったが、非常に珍しいことだった。
いや、そもそもルシィが勝手に旅の道連れを増やそうとすること自体、ありえない話だった。彼女は主人に従うことが己の全てであると考えている節がある。己の利を捨て、他人の利を捨て、主人の利を全てに優先させている。天使からメイドになって以来、ずっとそうだった。
そんな彼女が、シェンラを連れていくという危険な決定を行った……ただの悪ふざけなのか、それとも?
「……なんでだ?」
ルシィがそこまでしてシェンラを連れていこうとする理由が知りたくて、リュウトは時間がおしていながらも彼女の話を聞くことに決めた。
ルシィは手を前に組み、表情を変えないまま語り始める。
「ご主人様がこの国への干渉を過度に行わないようにしていることは、重々承知しております」
ああ、とリュウトは返答する。
ルシィは銀色の瞳に強い意志を込め、さらに続けた。
「干渉は結びつきを生み、結びつきは他者への影響力となる。アルトレ国が『流舞武人』の助けを得て国を再建したどころか、その後も英雄の庇護を受けているなどという話が広まれば、周辺諸国との無用な軋轢を生みかねない。ご主人様が後ろについていると分かれば、人々はこの国に集い、友好国はさらに厚い同盟関係を望む。そして敵対国は尻込みし、たとえ自国に不利な条約を突きつけられても飲んでしまうでしょう。
シェンラ様を連れていくというのはそういうこと。ご主人様はそれを嫌った。自分の存在があらゆる国の政治や経済、貿易、外交に影響が現れないように、ご主人様はどの国のどの組織にも属さず、数少ない仲間と共に活動しておられます」
全てルシィの言うとおりだった。
リュウトがゲルマの話の中に感じ取ったことは、シェンラに対する親心や期待だけではなかった。「英雄との繋がりを保ち、できうるなら国のために利用したい」。そういう国益を考慮する心がどこか見え隠れしていたのだ。
例えば、シェンラが他国を見聞するだけでなく、アルトレ国の使者として親書を届け、簡単な同盟を結ぶという話。彼女が大使として活動すること自体には何も問題ない。だが、もし自分がシェンラと行動を共にし、世界各国を流れていけばどうなるか? シェンラが親書を渡している傍で自分が突っ立っていれば、渡された国の元首はいったいどう思うのか?
「使者の横にいるということは、彼はアルトレ国についたのか」「アルトレ国は流舞武人を味方につけた」「敵対すれば英雄にも敵視される」「同盟を結べば、自分たちも英雄を味方につけられる」と思うだろう。強力な味方を求めて、多くの国がアルトレ国との結びつきを強める。
だが一方で、社会構造上、政治上、思想上、どうしてもアルトレ国と同調できない国も現れる。そういった国は自分たちが滅ぼされることを恐れ、態度を硬化させ、同じ反アルトレを掲げる国同士で結びつく。彼らは英雄がいるアルトレ国に対抗するために、軍備を増強し、新たな武器を作り、超越級の魔法石すら持ち出してくる。
そしていつしか始まるのは……考えたくもないこと。
自惚れと取られるかもしれないが、知識と経験上、そうなってしまうことを恐れなければいけないのだ。繰り返される歴史に学べば、明確な敵のいない世界での過剰な力が多くのバランスと調和を崩すのは明白だ。天下布武が実質不可能であるのなら、平和を求める人間としてバランスを保つことに心を砕かなくてはいけない。
他の英雄たち――特に秀麗騎士という具体例がある以上、自然とそう考えてしまう。国の騎士として生きる彼は、あのひねくれた性格の裏で多大な苦労を背負っている。外国に1日出るだけでも1ヶ月の手続きの時間を必要とするぐらいだ。
それを見れば、自分の力によって傾くシーソーを平行に戻す作業がいかに大事かを思い知らされる。そして国に属することで制限される行動と思考の多さも。
馬鹿みたいな話だが、英傑五星という存在はこの世界でそれだけの影響力を持っているのだ。
だから撤収する。これ以上アルトレ国に影響を及ぼさないために。自分という存在の痕跡を全て消して。
関わり過ぎないこと。それこそがバランスを崩さない最良の方法だ。
全てはルシィの言う通り。だが。
「別にそんな分かってることを確認しなくていい。理由を言ってみろ」
自分とルシィとの間で、こんな基本的なことを改めて話す必要はない。この2年、こういう考えの元で活動してきたのだ。今更話しても仕方ない。さっさと話の核心に移ってほしかった。
だが、ルシィはあくまでマイペースだった。
「ご主人様、私どもの行っていることは、決して順調ではありません」
「……ああ」
「それはなぜでしょうか」
彼女は問いかけていながら、こちらが答えることを期待していないように見えた。当たり前だ。これもまた、あらかじめ分かっていることのひとつに過ぎない。答える時間すら無駄。なのに彼女はこの確認話を進める。
「ほとんど全ての人間が、戦うことも傷つくこともない世界を望んでいるというのに、そうするために行動しているご主人様にはおよそ理解を示さない。『机上の空論』と言われること幾度にも及び、私たちを利用しようとしてくる者は有り余るほど溢れている。愚かにも他人の言動の中から己の利となる部分だけを抽出し、私利私欲に絡まなければ言葉のひとかけらすら理解できない人間がとても多いこと……かつてのお仲間はそうでもありませんが、彼らですらかろうじてご主人様に淡い期待を抱き、応援している程度。
だからこそ、ご主人様は従者である私、および契約者であるクレンとだけ行動を共にしております」
何も言い返さない。全てルシィの言う通り。
今回のように訪問した国から逃げ出したことは、もはや数え切れない。
ルシィの整った唇が、とつとつと説明を続ける。
「私の至らぬ推測といたしましては、こうです。ご主人様の出自故のあまりにも違い過ぎる価値観、それこそがご主人様が『人間』に理解されない原因であると。基盤となる知識や精神構造が、この世界の人間のものとはまるで違う。海泳ぐ魚は空飛ぶ鳥と同じ景色を見ることはできないのです」
「……」
「私のような天使や、クレンのような人外の存在、かつてのお仲間のような超人ならば、まだ理解できる。人間外の存在は、一部を除けばおしなべて理解力が高いものですので……神や魔王も、ご主人様の言葉には耳を傾けた」
ルシィは昔を思い出すように目を細めた。おそらく神魔戦争の終わりの記憶でも頭によぎったのだろう。
リュウトも一瞬眼底に浮かんだ。剣と魔法と血に包まれたあの時、耳を傾けてもらえただけで納得はしてもらえなかった己の無能さが。
だが、すぐにルシィの声によって引き戻される。
「人間には理解されない。これこそが私たちの行く末を阻害する重大な要素だった」
『だった』。
この世界の共通言語で過去形を意味する単語を耳にした時、リュウトはまぶたをぴくりと動かした。
「だった?」
「現れました。シェンラ様という理解者が」
きっぱりと言い切ったルシィは、じっとこちらを見つめ続けていた。その目はリュウトの顔を見ているわけではなく、こちらの心の奥底を見据えているような鋭さだった。
「これは驚くべきことであり、そして憂慮するべきことです」と彼女はさらに続けた。
「人外でも超人でも、天使でも悪魔でもない。それどころか王でも貴族でもない。農民上がりの娘がご主人様を理解した」
シェンラの忠誠の誓いの光景が思い返される。
あの時、彼女と心のどこかが結びついたような気がした。これまでこちからから投げかけるだけだった言葉が、受け止められ、返されたような気がした。
「もちろん、今はただご主人様の言葉に圧倒されただけかもしれない。全てを飲み込んでいるわけではないかもしれない。彼女は十分な知識も知性も持ち合わせていない半人前です。が、ただ1つ、『目』を持っています。私利私欲に振り回されず、立場に縛られもせず、論理と倫理によって相手を判断しようとする、ご主人様と同じ『目』を持っている。だからこそご主人様を否定すらできた……
昨日の夜、シェンラ様の前に立った時、私は怒っていたわけではありません。彼女の『目』が本物なのかどうかを見極めていたのです」
あの夜、シェンラの目の前に立ったルシィがじっと相手を見つめ、苦労する云々と言ったこと。
あれには『ご主人様に仕えることには苦労する。男女関係的に』という意味の他にもう1つ、『ご主人様と同じ生き方をするのは苦労する』という意味も持っていたのかもしれない。
このメイドは……いったい何時から、こんなことを考えていたのだろうか。
「これは転換期の1つであると私は考えております。吉兆なのか凶兆なのかは、まだ分かりません。しかしどちらにせよ、あのような人間は滅多におりません。彼女がご主人様を真に理解したならば……もし彼女が引き継ぐ者となり、ご主人様とこの世界を結ぶ糸になってもらえたならば、私たちが望んでいた変化が訪れるはずです」
ここで言葉を切り、ルシィは深々と頭を下げた。背中を60度に曲げた、とても綺麗なお辞儀だ。
頭を下げたまま、ルシィは言う。
「ご主人様、どうか御熟慮くださいませ」
これに対してリュウトは、熟慮? そんなものが必要なのかと心の中で自嘲した。
(まったく……こいつは本当に)
考える必要なんてなかった。ルシィが話したことは全て、自分の心の中のどこかでくすぶっていた考えでもあったからだ。
そう。あの忠誠の誓いがあった夜から淡い期待を抱き続けてきた。シェンラになら、この人になら自分の考えの全てを提示することができるではないかと。
しかし、そんな自分の心に深く入り込まないようにして、「また国に利用される」という事態にだけ目を向けてしまった。げんなりしてしまった。
だから特定の国と親密にしてはならない、己の立場に配慮しなくてはならないというルールを、何も考えることなく事務的に守ろうしてしまった。
人が決めたルールに絶対も永遠もない、ルールがもたらす効果の方を常に理解していなくてはいけないと、分かっていたはずなのに。
全てにおける前提は『平和構築と維持』だ。特定の国と親密にならないという自分ルールもそのために制定した。
対してシェンラを連れていくことも、ゆくゆくはその大前提を満たすかもしれない大きな要素。
相反するように見えて、実はどちらもが大前提を満たす命題なのだ。
ならば自分がやるべきことは――相反するものをつなぎ合わせて、新たな考えを作り上げることに他ならない。
「……ルシィ」
「はい」
「お前は、本当に俺以上に俺のことが分かってる奴だよ」
この言葉に、表情の変化が少な目なルシィが一瞬華やいだ。その瞬間だけ、まるで誉められて無邪気に喜ぶ少女のようになった。
が、すぐにいつもの涼しげで落ち着いた顔に戻る。
「ありがとうございます。ですが、ご主人様、ゲルマ様が仰られた条件をそのままお受けするわけにはいきませんが」
「当たり前だ。いくつか条件を変えていくしかない。任せとけ」
「さすがご主人様。シェンラ様を引き連れることができて、女性3人に囲まれてウハウハ、やる気も出るというものですね?」
うっ、とリュウトは言葉に詰まる。
全てを受け止める優しい微笑を浮かべながら、こいつはなんと俗っぽいことを言うのだろうか。
「あのなあ、気に入る気に入らないって、そういう問題じゃなくてだな」
「私がシェンラ様に怒っているフリをしている時、よくかばわれていたではありませんか。少しでも好意を持っているからこそではないのですか?」
こいつ、シェンラが来る前から芝居をしていたのか……。
どうりでルシィにしては不自然な怒りようだったわけだ。元大臣のような悪意に満ちた言葉ならともかく、ただの食い違いにあそこまで怒るほどルシィは理解力がないわけではない。あれはシェンラを否定することでこちらがどういう反応をするか見ていたのだろう。
「……はぁ。さっきまで真面目な話をしてたのに、なんですぐに破廉恥なことを言うんだ」
「破廉恥で忠実なメイド、というのは男性にとっての夢ではないかと」
本当にこのメイドは元天使なのだろうか。
「……お前、変な本を書庫に入れてないだろうな?」
「そのようなことは決して。そもそもご主人様にはそのような本など必要ないではありませんか。ご希望なら私が日夜ご主人様の寝所に」
「あー! もう! さっさと玉座の間に戻るぞ!」
これ以上話しているとますますエスカレートしそうだったので、途中で打ち切って物陰から出ることにする。
ただし、言葉の上ではルシィに怒りながら、リュウトは内心彼女が傍にいてくれていることに心から感謝していた。
彼女が背中についていてくれるから、自分は進める。彼女が客観的に自分を見ていてくれるから、自分は間違いに気付ける。本心を見つけられる。
彼女との出会いに感謝しよう……そして新たな仲間との出会いにも。
「ん?」
長い廊下に出た時、リュウトはちょっとした違和感を覚えた。一番手前、角を曲がってすぐ近くにある部屋の扉が少しだけ開いている。来た時は閉まっていたいはずだ。
もしこの部屋の中に誰かがいて、扉がずっと開いたままになっていたのなら、自分たちの話がその誰かに聞かれていたことになる。
別に都合が悪いというわけでもないが、こんな近くに人がいたことに自分が気付かないことが不思議だった。手練の兵士や、身を隠すことが得意な給仕でもいたのだろうか。
興味が湧いてきたリュウトは部屋の中を覗こうとするが、
「ご主人様、急ぎましょう。アルトレ王とゲルマ様がお待ちです」
「あ、ああ」
ルシィに急かされ、断念する。
今は人の気配もしないし、おそらく誰かがこの部屋に入った後扉を開けっ放しにしたのだろう……リュウトはそう決めつけ、その場を後にした。
※
リュウトが気にしていた部屋の扉は、2人が完全にいなくなった時初めて全開になった。中にいた人間の手が扉を内側に向かって引いたのだ。
女性の姿が現れる。赤い髪を揺らしながら表に出てきた。
しかし彼女の足音は、部屋を出た時になって初めて周りに響いた。それまで全くの無音だったのだ。扉が開いた音すら起こっていない。
部屋の中で発生したどのような物音も、外に漏れないようにされていたのだ。それでいて、外からの音は中まで届く。つまり、外の会話を盗み聞きできる――銀髪メイドの魔法の効果だった。
「……私が、理解者?」
彼女は愕然とした様子で呟く。
突然姿を消したメイド。何か嫌な予感がして探しに出ると、城内の一角で彼女を見つけた。
『あなたに大事なことを聞かせてさしあげます』
メイドはそう言うと、有無を言わさず彼女をこの部屋に押し込んだ。
やがて聞こえてきた2人の男女の話し声。片方はメイド。もう片方がリュウトであることはすぐに分かった。
そうして聞いてしまった、彼らの真意。
シェンラは自分の身体が震えているのを抑えるしかなかった。
「そんな、そんな期待をされても、私は……」
声を震わせ、俯く。
しばらくの間、彼女は動けなかった。
いったい自分の何がそこまで彼らに評価されているのかが分からなかった。
『目』を持っている?――それはいったいどんなものなのか。特別らしいその能力を持っているなんて自覚はない。
彼を理解した?――とんでもない。正直に言うと、人権利やら『いまぬえる』やらの意味はてんで分からない。自分の理解できる範囲は至極狭い。
ゲルマもリュウトも、自分を過大評価し過ぎている。こちらはただ単に、言われたことや感じたことをそのまま受け止め、考えたことをそのまま口にしただけなのだ。それはただの阿呆ではないのか?
「……」
ただ、狭い理解ながらも彼の言葉に未来を感じたことだけは確かだった。
平和を諦めるのでもなく、自分が平和を作るのでもなく、皆に平和について考えてもらう。そのための土台を作る。
今までそんなことを言う人間に出会ったことがなかった。
王も騎士も貴族も商人も農民も、皆自分のことで手一杯。もし余裕があったとしても、今度は『自分の考える通りに物事を進めたい』として他人に言うことを聞かせようとする人ばかりいる。カンドル宰相が良い例だ。
だが、リュウトは違った。彼はあくまで皆のことを考えている――優しすぎるほどに。
そんな彼の掲げる旗はあまりにも大きく、ともすれば大きすぎて虚構にすら見える。だが、確かに彼が示した道の先には『何か』がある。
その『何か』を見たい。だからこそ、忠義の誓いだって行った。
その気持ちに嘘偽りはない。
「……よし」
自分の気持ちを再確認したシェンラは、大きく深呼吸して気合いを入れた。
当初はリュウトと離れていながらも、同じ志を抱きながら細々と活動できればいいと思っていた。時々手紙でも交わして彼の教えを乞いつつ、国のため、彼のためになる仕事をすればいいと。
だが、そんな逃げのような道では『何か』を見ることができる可能性は低いと分かっていた。
だから決意する。メイド曰く『苦労する道』を進む決意を。
彼らが期待しているような人間になれる自信なんてないけれど、自信のなさを理由にして進むことをやめるような柔な人間ではないつもりだ。
自信がないなら、自信がつくまで努力するまで。
この国の外には、いったい何が広がっているのか……
少しの不安と大きな期待を感じながら、彼女は玉座の間へと急ぐのであった。
※
その後、玉座の間に戻ったリュウトは、アルトレ王とゲルマに対して1つの条件を突きつけた。
「他国への使者としての役割を担わない、1人の人間としてのシェンラならば連れて行ってもいい」
これに対して慌てたのがゲルマだった。
彼にはリュウトの予想通り、英雄と自国との繋がりを構築して、これからの国の復興に有利に働くようにしたいという思いがあったのだ。シェンラがリュウトに仕えたがっていることに気付き、さらにはリュウトも彼女を気に入っているとメイドに聞いてから、ゲルマは自分でもさもしいと思いながらも、国のためにこの企みを進めていた。『シェンラ』という隠れ蓑を使えば、彼が上手くこの話にのってくれるのではないかと思っていたのだ。
だが、リュウトの出した条件は明らかにこちらの企みを見抜いてのものであり、ゲルマは焦った。彼がどこの国にも属したがっていないというのは、風の噂で聞いている。無理やり宮仕えさせようとしてくる国からは、すぐに姿を消してしまうとも。
よくよく見れば、リュウトの顔が不機嫌そうに歪んでいるのが分かる。
(まずいな……姿を消さないということは、私たちに何か罰でも加えようと?)
もしかすると、彼の不興を買ってしまったのでは、とゲルマは冷や汗をかいていた。すぐに姿を消さずにわざわざ戻ってきたのは、自分たちの企みに気付いていることを示すためではないか。だとすればこの後に起こるのは、英雄の怒りだ。
ダメだ。それだけは避けなくてはいけない。国に不利益がもたらされるのはもちろんのこと、せっかくのシェンラの未来を潰してしまいかねない。
ゲルマは己の軽率さを呪った。あんな遠回しにシェンラにつなぎ役を頼むような真似をすれば、こちらの真意を見抜いたリュウトが何と思うかなんて予想できたはず。
いきなり救世の英雄が現れたことに舞い上がっていたのはシェンラだけではなかったということか。
なんとか彼の機嫌を直すことはできないか。迷っていると、玉座の間の扉が突然勢いよく開いた。
「はぁ、はぁ。り、リュウト殿、やはりもう戻っていたのか」
シェンラだった。リュウトたちを探しに行くと言って出て行ったのだが、どうやら彼が戻ったことを知らずに今まで歩き回っていたようだ。急いでいたのか、息切れしている。
そんな彼女にリュウトが歩み寄った。
「シェンラ。どこ行ってたんだ? 今、けっこう大事な話してたのに」
「い、いや。少し用事が……大事な話とは?」
「んー、君を連れて行く上で大事なことだよ。あ、ちなみに連れてくことは決定してるんで、よろしく」
そう言って微笑み混じりに先ほどの条件を彼女に説明するリュウトを見て、ゲルマは衝撃を受けた。
彼は確かに言った。シェンラを連れていく、と。
こちらの不義を戒めるわけではなく、まさか本当に、シェンラを連れていく上での条件を出してきたとでも言うのか。
(これは……驚いた)
ゲルマは、正直に言えば、彼がシェンラを気に入っているのはただ単に彼女の見目麗しさに惑わされているからではないかとどこかで思っていた。英雄殿がそのような下世話な考えを抱くような人間ではないとは分かっていたが、本当にシェンラの価値に気付けているかは疑問だったのだ――だからこそ、彼の前でシェンラの良さを説明すら行った。彼女がただの凛々しい女ではないことを分かってもらいたくて。
しかし、そんなことをする必要はなかったようだ。彼はシェンラを正当に評価している。噂とは違った行動を取っているのも、そんなシェンラを買っているからだ。
ならば交渉次第で英雄との繋がりをいくらかでも作れるのでは……そんな計算がまたゲルマの頭の中によぎった時、視界の端に人影が現れる。
今まで沈黙を保っていたアルトレ王が、すくりと立ち上がったのだった。
ゲルマが驚いている中、王は悠然とした態度で玉座からリュウトたちを見下ろす。
「シェンラよ」
「は、はい」
「お前の念願であった、仕える者を見つけたいという夢。それが叶ったと見て良いのか?」
いきなりの問いに最初は戸惑っていたシェンラだが、王がじっと答えを待っていると、顔を引き締めて大きく頷いた。
「……はい。今までこんな私を騎士仕えさせていただいた王にご恩返しもできず、申し訳なく思っております」
頭を下げるシェンラを、アルトレ王が手で制した。
「よい。始まりからして、戦争中の人員不足からお前を無理矢理騎士にさせたのだ。そのように国に兵役を課せられた者全員に、私はすまないと思っている」
「そんな……! 私は騎士としての生き方を教えてもらえたことに感謝しております!」
「そうか……すまんの。さて、リュウト殿」
アルトレ王はリュウトに向かって毅然と言い放つ。
「貴君の出された条件、飲みましょうぞ。シェンラはこの瞬間から、アルトレとは何の関係もない1人の女となった。どうぞ連れ出して下され」
「アルトレ王……!」
ゲルマは思わず抗議の声を上げそうになるが、
「ゲルマ、多くを望むな。お前の本当の願いはそんなものではあるまい」
お前はシェンラの親代わりなのだから、娘の幸せを願え。
そう問いただすアルトレ王の目に、ゲルマは何も言えなかった。
そして王はふっと優しげな笑みを浮かべた。
「シェンラ」
「はい」
「ゲルマに手紙のひとつでも出してやってくれ。ずっと音信不通では、この男も私も寂しがる」
「それは……」
シェンラが確認するようにリュウトを仰ぎ見る。
アルトレ王の真意は不明だが、ゲルマにもシェンラが迷う理由が分かった。手紙はシェンラとアルトレ国をつなぐ唯一の糸となり、上手く使えばリュウトとアルトレ国をもつなげられるかもしれない。それはリュウトの出した条件に反するのではないのか。
しかし、リュウトは首を横に降らず、小さく笑みを浮かべた。是、ということなのだと皆が分かった。
すぐさまシェンラが「では、必ず」と答える。
アルトレ王は満足そうに頷いた。
「息災に暮らすのだぞ、シェンラ。騎士ではなくとも、この国はお前の生まれ故郷。いつでも戻ってきてよいのだからな」
「はい」
「では、行け。多少の路銀は渡しておく。後で勘定係を訪れるのだぞ」
「ありがとうございます!」
これで本当に決まった。シェンラがこの国を出ることが。
計画通りとはいかなかったが、ゲルマの胸は晴れやかだった。自分の娘が他の男に取られてしまう一抹の寂しさは常にあったものの、
「じゃあ、これからよろしく、シェンラ」
「こちらこそよろしく頼む。私は精一杯やってみるよ……いつか君の本当の理解者になりたいと思う。期待を裏切りたくはないからな」
「へ? 期待って……あれ?」
「いや、ただの決意の現れ、とでも取っておいてくれ」
「は、はあ」
つい最近出会ったとは思えないほど仲のいい彼らを見て、ゲルマは笑みを隠せない。
「さて、この国を出る準備をしないと。リュウ、君を待たせないよう、今日中には済ませてみる」
「あ、いや……あ、あはは、いいよ。ゆっくり用意してくれれば。知り合いへの挨拶もあるだろうし」
「ご主人様、シェンラ様の準備にかこつけて戻るのを先延ばしにしても仕方ありませんよ。家にはご主人様宛の書簡や書類がたんまりと溜まっておりますので」
「うへ、勘弁してくれ」
「英雄殿が仕事を嫌がるとは……ふふっ、感心しないぞ、リュウ」
シェンラがあんなにも充実した笑顔を浮かべるのならば、笑って見送れるというものだった。