第13話
青い月がまたのぼる夜、街は喧噪に包まれていた。
宿屋兼酒場の『宿り木』。その建物の一室の窓から顔を出すと、アルトレ王国の首都アルトリアの見事な夜景を見渡すことができる。火のランプがあちこちで煌々と輝き、街全体に星のようなきらめきをもたらしていた。これならば、観光地としても申し分ない景観だ。
10日近くここに滞在しているが、こんなに綺麗な夜景を見たのは今日が初めてだった。昨日までは少し陽が落ちると辺りは真っ暗になり、黒い絨毯のような風景が広がるだけだった。元宰相の圧政により、夜の灯りを点けることもままならない状況だったからだ。
だが、今では街に輝きが戻っている。いや、それどころか普段以上の活気に包まれていた。酒場、食堂、大広場などにはいっそう光が集まり、人がそこに集中しているのが見て取れた。
この騒ぎの原因はただひとつ。今日の昼、王宮前広場にて騎士団団長ゲルマ・リーシェルの演説が行われ、カンドル宰相が失脚し、アルトレ王が復帰されたと人々に伝えられたからだった。
ゲルマはさらにこう宣言した。人々を圧迫していた税のほとんどを撤廃。生活の厳しい者には惜しみのない援助を約束し、宰相によって強制労働させられていた男女全てを元の家に戻すと。
民衆はおおいに喜び、熱狂した。一時、王宮前広場には人が殺到しすぎて倒れてしまう者が出たほどだ。
そうして、多くの人がその喜びを分かち合うための宴会がそこらで開かれたのだった。
その熱狂は今も続いている。『宿り木』にも人がつめかけており、酒場で働いている女将や給仕たちが忙しそうにしていた。従業員が1人辞めてしまったのだからなおさら手が足りないことだろう……もちろん、従業員たちも皆嬉しそうだったが。
「……皆、元気だねえ」
リュウトは自室の窓の縁に腰掛け、下から聞こえてくる喧騒に苦笑する。夕方から始まり、夜になってもまだ続く宴会。よほどの喜びがなければこうも続くまい。
聞こえる人々の笑い声。乾杯の音頭。陽気な歌。
おそらく今、この国の様々な場所でこんな騒ぎが繰り広げられているのだろう。
リュウトは改めて窓の外に広がる風景を眺めて、思った。自分のやってきたことは、まだ間違ってはいないのだと。
「……」
窓から入ってくる温かい風が頬を撫でる。温暖な気候であるアルトレ国は1年のほとんどが春のような陽気で、いつでも気持ちのいい風が吹く。今はさらに、人々の喜びが風に乗っているような気がして、心も洗われた。
コーヒー片手に考え事をするにはもってこいの空気。
しかしこの空気の出所に自分は混ざれない。
そう考えるととても穏やかながら、少し寂しい。
何の気兼ねもせずに入り込める、そんな場所が恋しくなる。
「アルトレ王国か……遠いよなあ」
思えば、ずいぶん遠くまで来てしまった。
最初はただ1人、着るものもままならず、己の足だけで土を蹴って進まなければいけなかった。毎日の食事を常に考え、暴力に抗い、なんとか安定した生活ができないものかと憂う日々。生きることに精一杯だった。
それが、様々な人と出会い、様々な出来事を経ていく内に、いつの間にか世界中を飛び回るようになってしまった。
生まれてから23年。その23年の後半部分がこんなにも波瀾万丈になると、誰が予想できただろうか。夢に溢れ、夢に溺れていた子供の頃の自分でさえ、考えもしなかっただろう。
遠い昔に抱いていたはずの「学者さんになる」という夢も今いずこ……だが、夢破れたとは思わない。抱いた夢よりはるかにやりがいのあることを、今こうして行っているのだから。
神様は何を思ってこんな運命を自分に課したのか……そんなことを考えたリュウトは、その問いのおかしさに笑いそうになった。神を封印したのは自分たちではないか、と。
運命も何もない。ただ歩き続けた結果が今を形作っている。
そう考えることが、最も自分らしい。
「失礼いたします」
部屋の扉が開き、メイドのルシィが外から入ってきた。
何の用かと思ったが、彼女がコーヒーサーバーを持っているのを見て、気付いた。いつの間にかカップの中身がなくなっている。
「おかわりをお持ちいたしました」
「ああ、ありがと」
主人ですらコーヒーを飲み干したことに気付いていないのに、どうして外にいたこのメイドはおかわりが必要だと分かったのだろう……疑問を抱きかけて、やめた。スーパーメイドであるルシィに不可能はないのだ。
リュウトは感心しつつ、彼女がカップを手に取るのを眺める。
優雅な仕草でサーバーを傾けるルシィ。1滴であろうとコーヒーをこぼさないのは当然のこと、淹れたての香りを主人に届けるために、風向きを計算した位置に立っているのは見事だ。
頭にはメイドカチューシャ、体はふりふりメイド服。豊満とは言えないが、きちんと女性らしい身体……こんな女性が自分にかしずくなんて、やはり以前の自分なら考えもしなかっただろう。
それだけでも遠い地に来たことが実感できる。
「……ご主人様」
「ん?」
「何か、私に御用でしょうか」
コーヒーで満たされたカップを差し出しつつ、ルシィは尋ねる。
どうやらじろじろと見すぎていたようだ。
「……いや、別に何もない。ちょっと眺めてただけだ」
「そのようには見えませんでした。不安そうなその目、落ち込んでいらっしゃるのですか? 先ほども外をじっと見ていらしていましたが」
窓から射し込む青い光が、彼女の銀髪を照らす。
彼女の身体における『銀色』は天使の力を失っている証拠。
そしてルシィが自分に仕えてくれている証拠でもあった。
リュウトはカップを受け取りつつ、じっとこちらを見つめてくる銀色の眼を、笑みを浮かべながら受け止める。
「なんとなく、物悲しい気持ちになっただけだ。なんて言うか……【もののあはれ】ってやつだな」
「ご主人様のお国の言葉で説明されても……私にはわかりかねます」
「だな、すまん」
「その悲しみは、もしやシェンラ様が原因でしょうか」
直球の質問に、リュウトは少したじろいだ。
まったくもってこのメイドは主人のことだけなら理解しすぎている。
「……ま、少しはな」
コーヒーカップを傾けながら、小さく呟くリュウト。
今日の昼、シェンラに疑われて色々と詰問されたことは、少なからずショックではあった。仲良くなれたと思った矢先のことでもあり、どうにも堪える。
だが、怒ってはいない。ただ悲しい……その気持ちで一杯だ。
むしろ、シェンラに対して怒っているのはルシィの方だった。
「でしたら、ご主人様が落ち込むようなことはございません。シェンラ様がご主人様を理解していないことが問題なのですから」
「そう言うなって。シェンラさんが疑うのも無理はない。突然やってきた男が英雄だなんて聞かされて混乱してただろうし……それに、人が人を信じることはそう簡単じゃない」
「しかし、ご主人様を信じることは難しくありません。ご主人様は誠実な方なのですから」
「お前だって、最初は俺を殺そうとしたくせに……」
「そのような昔の話を出されても、私は覚えておりません」
いや、絶対に覚えている。力を失っても『時天使』。時と空間を司る以上、過去のことを忘れるなんてありえない。
こんな下手な答え方をするほどに、今の彼女の気持ちは高ぶっているということだろうか。
無表情ながら、若干気色ばった声色を出すルシィ。
「ご主人様にわざわざ助けられていながら、あのような暴言を」
「ルシィ、そういう『助けてやった』っていう考え方はやめとけ。俺たちは恩を着せるためにこういうことをやってるんじゃない。そうだろ?」
さすがに言いすぎだと思ってたしなめると、ルシィはしゅんとした顔をして、
「……はい、軽率な発言でした。申し訳ございません」
と、素直に頭を下げる。
だが、内心では納得していないのが顔で分かり、リュウトはやれやれと息を吐く。ルシィは色々と気持ちが偏りすぎだが、ここまで怒るのは本当に珍しい。
リュウトは実際の所、少し落ち込みはしても、シェンラを責める気などさらさらなかった。むしろこれまでよく自分のことを信じてくれたものだと思っている。突然現れた男の言葉に従って命を賭けるなど、そうそうできることではない。お人好し過ぎると言ってもよかった。
だいたいにして、お互いのことをよく知らないのに仲良くなれることの方がおかしいのだ。そうした関係はどこかで破綻する。同棲もせずに結婚した熱愛カップルが、結婚生活に入ると喧嘩ばかりしてしまうように。
だから、今回のような行き違いがあっても仕方がない。人と人が付き合えば、こういうことは起こって当然なのだ。
「ご主人様……お聞きしてもよろしいでしょうか」
怒気を収めたルシィが、尋ねながらクッキーの乗った皿を差し出す。
リュウトは1枚つまみ、「ん?」と首を傾げた。
「シェンラ様のことは、気に入ってらっしゃるのでしょうか?」
「気に入るって……別に、普通だ」
仲良くなりたいとは、ちょっと思っていたが。
「……なるほど。承知いたしました」
ん? とリュウトは目をまばたきさせた。今、ルシィが一瞬だけニヤリと笑ったような気がしたのだ。
だが、きちんと見てみると、彼女の顔はいつもの無表情だった。気のせいだったのだろうか。
不思議に思っていると、ルシィがさらに尋ねてくる。
「それと、お戻りになるのは何時になるのでしょうか。そろそろお帰りにならなければ……あちらに色々と溜まっております」
「あー、そうだよなあ。帰らないとまずいよなあ」
帰った先に待ち受けているものを考えて、思わず頭を抱えるリュウト。こう心安らかにコーヒーを飲めるのもそう長くはない。
「まあ、明日か明後日ぐらいだな……白蓮はどうした?」
「クレンなら、外の騒ぎに興味を持っているようで見物に出かけております。おそらく朝まで、いえ、呼びに行かなければ2,3日は戻ってこないかと」
「じゃあ、好きにさせとくか。帰る直前になったら呼びに行ってくれ」
「かしこまりました」
そろそろアルトレ王国を去る時期が近づいてきている。
ここで出会った人々――『宿り木』の女将や、その娘、仲良くなった商店のおじさん、おもちゃ屋の子供。そして……と、リュウトは赤髪の彼女のことを思い返す。
齟齬を正す暇はないのだろう。彼女はとても忙しいだろうから。
別れはいつだって物悲しい。
「……はぁ」
コーヒーを1口飲んで、ため息ひとつ。後を引く苦味で寂しさも和らげば良いと思った。
そうして口に含んだコーヒーを飲み込むのと、部屋の扉がノックされたのはほぼ同時だった。
「ん? 誰か来たのか?」
「来客の予定はありませんが……いえ、もしかすると」
心当たりがあるのか、クッキーの皿を空中に消し去って扉に近寄るルシィ。
視線で主人の了解を求め、リュウトがそれに頷いて応えると、ゆっくりと扉を開けていく。
すると、
「シェンラ……さん?」
赤い髪の女性が、真っ直ぐとこちらを見据えて、立っていた。