間話『白色少女』
アルトレ王国首都アルトリア、その近辺に広がる『青葉の森』。
豊かな自然と穏やかな雰囲気に包まれたこの森の奥には、1年ほど前から魔物が住みついていた。
青い体毛、巨大な体躯、発達した牙を持つ巨大オオカミ『牙狼』。神魔戦争時代、『魔の陣営』が戦力増強のために魔界から連れてきた、人間狩りのための魔獣だ。
魔王が封印され、魔界への道も閉ざされた今、こういった主人を失った魔獣は世界中に散らばっている。大抵は専門の狩人や流れの賞金稼ぎによって駆逐されており、ほとんどいなくなっているはずであるが、時に森や洞窟、山などに隠れ住んでいることもあり、人間に被害をもたらすこともしばしば。高い知能を持った強力な魔物がいた場合は国が軍を動かさざるを得ないこともある。
戦争の爪痕の1つであるこの事案には、効率的な対策案を立てることが急務とされており、各国の頭を悩ませていた。
『青葉の森』に住みついている牙狼も同じだ。1年前から周辺住民の目撃証言が出ていたため、アルトレ国は懸案事項であるみなし、何度か調査隊を派遣した。アルトレ国にとっては戦後初めての魔物出現問題であったため、かなり精密な調査が行われた。
だが、牙狼の存在は認められず、目立った痕跡もなし。継続した調査が必要であるとしながらも、結局は住民に『森の奥には入らないように』という布令を出すに留まり、討伐隊が派遣されることもなかった。
それから宰相による政変が起こったため、『青葉の森』の魔物調査は打ち切りとなってしまっている。
こうして『青葉の森』に住みつく魔物は半年近く放置されているが、これにも関わらず、街に住む人々が不安を覚えることがなかった。
その理由の1つは、あの森には魔物なんておらず、目撃者はただの動物を牙狼と見間違えたのではないかと考えられるようになったため。
もう1つは、牙狼はさほど戦闘能力が高くなく、集団で集まらない限り大きな脅威にならないとされているためだ。彼らの縄張りに入って1対1で対峙するならともかく、何十匹もの仲間が集まらない限り、街を襲ってくることはありえない。
幾度かの調査で見つからなかったということも、まとまった数の牙狼が森の中にいる可能性がないことを裏付けているため、こちらから森の奥に入らない限りは命の危険はない、と皆が考えていたのだった。
しかし、しかしだ。
もし、今の『青葉の森』の最奥で繰り広げられている光景を街の人々が目にすれば、自分の考えが間違いであったと悟るだろう。
ちょうどアルトレ王の復活が国の重鎮たちに告げられたこの朝、『青葉の森』の一画にて、何匹もの――いや、何十匹もの牙狼が一堂に会するという地獄絵図が広がっていた。
見渡す限り、巨大オオカミの姿で埋まっている。
そしていくつもの雄叫びが森の中に響いていた。
クォーン
クォーン
その鳴き声は仲間を呼んでいるのか、時間が経つごとに巨大オオカミの姿が次々と現れる。森のどこにこれほどの数が潜んでいたのか、その場所は牙狼の青い毛で埋め尽くされていった。
もはやこれは有名狩人や騎士団が派遣されるべき事態だった。
クォーン
クォーン
ガルルル
だが、そんな牙狼たちの視線の先――彼らが大量の仲間を集めている原因であり、彼らが数の力を持って威嚇しようとしている対象を見れば、どんな人も口をあんぐりと開けたまま呆然としてしまうに違いない。
「……あー、うっさい。ワンちゃんは大人しく尻尾でも振ってりゃいいってのに」
それは一見すると10代前半の少女のようで、まるっきりこの地獄絵図にそぐわない容貌をしていた。
髪は白色で地面に届きかねないほど長く、まるで絹の糸のように艶やか。
肌は透き通るように白く、シミもなければ黒子すらない。
上は白無地の半袖シャツ。下は光沢のある布でできた、腰から足首までをぴっちりと覆う白い下衣。
木漏れ日に照らされた彼女の姿は、白く輝いていた。
「……むぅ」
そんな白い光の合間に見える赤い双眸。
人形のように整った顔に浮かぶ赤い瞳は、今は不機嫌そうな色を帯び、目前の巨大オオカミを見据えている。
「これ、言葉通じないよな? 魔力も持ってないし、無駄だろうけど……一応言っとくか」
こほんと喉を整える白色少女。
未だ威嚇の唸り声をあげる牙狼たちに人差し指を向け、とつとつと語り始めた。
「『お前たちが魔界に帰るか、もしくは周辺環境を激変せずにどこかに住みつくなら良し。何か希望があるなら交渉の余地もある。しかしただ単に人を喰らい、共存の努力を全くしようとしないというのなら、平和と社会秩序を無暗に乱すモノとみなして適切な処置を取らせてもらう』……よし、言ったからな? アタシは一応『へーわ的かいけつのかんこく』ってやつをしたからな?」
ウガァ!
1匹の牙狼が吠えた。
それに呼応するように、周りの牙狼たちからも一斉に殺気が放たれ始めた。
彼らの目が、獲物を狩るケダモノのものに変わる。ついに少女を自分たちの餌だと認めたのだ。
普通なら真っ先に逃げ出してもよいこの状況で、白色少女はニヤリと笑った。
「そういうのが1番分かりやすい」
次の瞬間、巨大な牙が少女を襲った。
オオカミにふさわしく、常人なら反応することもできないスピードで飛びかかった牙狼。強靭な顎が華奢な喉をひきちぎり、新鮮な血肉をすするはずであったが――白色少女の右拳が一足早く、その牙狼の横っ面をへこませていた。
「っらぁ!」
勢いよく振りぬかれた少女の拳は、牙狼の頭を完璧に打ち砕いた。
近くの木まで飛ばされ、幹にぶつけられた牙狼は、ぴくぴくと手足を動かしたまま動かなくなってしまう。
だが、それでひるむケダモノたちではなかった。
拳を振りぬいた後で隙の出た白色少女に向かって、今度は10匹近い牙狼が襲い掛かる。
巨大な牙が少女の白い肌に食らいついた。両腕、両肩、脇腹、太もも、両脚。いたるところに牙が突き立てられ、全身に穴が開く。
少女はその場から動かなくなった。
グルルル!
そのまま牙狼たちが顎に力を込めれば、四肢は引きちぎられ、血飛沫が上がるだろう。彼らは己の取り分をしっかりと確保するために、我先にと自分の噛みついている場所を噛みちぎろうとする。
が、思った以上に少女の身体は固く、そして重かった。
牙狼たちが顎に一杯の力を込めても、びくともしない。
そうこうしていると。
「……だーれがアタシに触っていいって言ったかなあ? ワンちゃん」
ケダモノたちの頭上から声がした。
「しつけのなってない犬は、消し炭になれ!」
がなり立てる白色少女。
すると、牙狼たちの牙を発火点とし、赤い炎が勢いよく燃え上がった。まるで風でなぶられたかのように、炎のカーテンが牙狼たちの身体を包み込み、青い体毛どころかその下にある身すら焼き尽くしていく。
炎の勢いはすさまじく、たったの数秒ほどで、少女に牙を立てていたケダモノたちは黒い塊と化してしまった。
「ったく、跡が残ったらどうすんだ。いや、残らないけどさ……」
少女がぶつくさと文句を言っている間に、服に空いた穴から見える数多の噛み傷が、物凄い速度で塞がっていく。
グルルル……
これには牙狼たちも警戒せざるを得ず、誰も少女に襲いかかれなかった。
ただの餌だと思っていた人間が、怪力と発火能力、そして高速治癒能力を持っている。
仲間は何匹もやられ、受ける威圧感も強烈。
「あ、まずい。森の中で火はダメだって言われてたっけ……けど今のは仕方ないな、うん、アタシ、襲われたんだし」
もしやこいつは、自分たちのかつての主人のように、とんでもない存在なのではないか。
牙狼たちの本能が危険信号を告げる。
ガウ!
撤退。
1匹の牙狼の鳴き声に込められた意味を仲間たちが了解し、彼らは一斉に四方八方へと走り出した。
さすがに集団行動を得意とする魔獣だけあって、この辺りの統率的行動には目を見張るものがある。
彼らがこの場所から撤退するのに、10秒はかからないだろう。
しかし、今回はあまりにも相手が悪かった。
「犬さんっ、こちらっ」
ある1匹の牙狼は見た。最高速で走る獣の足に、たったワンステップで追いついた白色少女の満面の笑みを。
そして彼女の拳に吹き飛ばされながら、見た。自分の仲間が次々と一撃で沈められていく無残な光景を。
10秒もかからず、森に静寂が戻った。
※
「はぁ……」
ケダモノの死骸が辺りに転がり、鉄の蒸れた匂いが充満している中、彼女は自分の拳についた血を炎で蒸発させながら、疲れた様子でため息をついた。
全身を包むけだるい感覚。身体的な疲れではなく、精神的な疲れだ。
「こんな奴ら相手にアタシを使うなんて……あの馬鹿メイド、いつか燃す」
物騒な言葉を吐きながらトコトコと歩き出す少女。
「だいたい、何が『書類を燃やした罰としての勤労奉仕です』だってんだ。アタシはただ、アイツがいなくなったっていうから心配になっただけで、別にアイツの仕事を邪魔するつもりはなかったわけで……あー! イライラする!」
語気が強くなるたびにその身体から炎が漏れ出し、煽られた周囲の草木が今にも燃え上がろうとしている。
それに気付いた少女はぶすっとした顔のまま漏れ出す魔力を調整し、一瞬だけ息を止める。途端に炎は消えてしまった。
幸いにして森の植物に影響が出ていないようだ、と白色少女はぐるりと周りを見渡して、気づいた。
周囲の空気が変わっている。
今までの『青葉の森』の最奥は、ところどころの木漏れ日の下以外は鬱屈とした空気が充満していたはずなのに、今は入り口付近と同じように青々として清涼感溢れる雰囲気に満ちていた。
少女はその事実だけには満足できた。魔物が消えたことでこれまで怯え隠れていた原生動物が活動を再開し、生命の息吹のようなものが森に流れ始めたのだ。
こういうすがすがしい空気は嫌いではなく、むしろ身体と心に合う。とげついた感情が休まり、頭が冷えてくれる。
「あっと、そうだ」
冷静になった途端、自分のワンピースのポケットに入っているものを思い出し、彼女は急いでそれを取り出した。
彼女の瞳と同じ真っ赤なリボン。白い糸の刺繍で飾り付けられた、一見安物のようでいて彼女にとってとても大事な品。
汚れがついていないことにほっとする白色少女。
返り血なんて浴びるつもりはなかったが、万が一のことを考え、戦闘中、大事なこのリボンだけはポケットにしまいこんでいたのだ。
少女は自分の髪の毛の先をひょいと持ち上げ、悪戦苦闘しながらリボンを巻き付け蝶々結びにする。
彼女の左手側、白い髪の先端に、赤いアクセントがくっついた。
「……んじゃ、行くか」
ゆらゆらとリボンを揺らしながら、再び歩き出す白色少女。
彼女の向かう先は森の出口。
報告のためだとは言え、いけすかないメイドの所へと向かわなければいけないことに、白色少女はかすかな炎を背中から噴き出させることで、イラつきを表明していた。