第10話
離宮の中を走るシェンラと団長。ここに住んでいるはずの侍従たちはもう休んでいるのか、中はとても静かだった。本来なら警備兵が巡回しているので人の気配があるはずだが、今はそれもない。
しかしまさか全員が北門の騒ぎに加わっているわけもなく、この不気味な静けさを演出したのがゲルマ団長であることを、シェンラは走りながら聞かされていた。
「警備の内の3割は正規兵と聞きました。もしかして?」
「そうだ。その3割は私の騎士団の人間だ。こういう時のために、騎士団の人間をいくらか宰相の下に潜り込ませておいた。表向きは宰相に恭順したように見せかけてな。
今、彼らが他の親衛隊の者どもを抑えてくれている。だからこその静けさなのだ」
時折聞こえる剣の交わる音がそれなのだろう。騎士団の者たちもまた、この作戦に命をかけてくれている。
もし失敗すれば、自分も含めてこの作戦に関与した者全てが、反逆者として宰相に処刑されることだろう。
シェンラは改めて身を引き締めた。協力してくれた者たち全員のためにも、絶対に王を助けなければならない。
「団長、王を助けた後はどこに向かいましょうか。できるだけ安全な場所でなければ」
「私の自宅がいいだろう。しかし……果たして助けてどうにかなるかどうか」
言いよどむ団長に、シェンラは妙な感覚を覚えた。
「どういうことですか?」
「……そうか、お前は城を離れていたから知らなったな」
ゲルマは1つ間をを置いて、説明を始める。
「親衛隊のリーダーの、フリードという男を知っているか?」
「はい。街中でも一度会いました」
「あいつは魔法を使える。その魔法が問題なのだ」
「魔法?」
「ああ、そうだ。あいつの魔法のせいで私たちは迂闊に動くことができなかったのだ」
初めて聞く話にシェンラは驚く。あの粗野で乱暴そうな男が魔法を使えるとは予想外であった。
「睡眠の魔法だ。それもかなり強力な。どこでそんな魔法を修得したのかは知らんが、フリードはこいつを手足のように使いこなす」
「魔法、ですか? しかしあいつは貴族には見えません。貴族以外で魔法が使えるなんて……」
「ありえないことでもない。神魔戦争では、戦力補充のためにあらゆる国で一般の兵士にも魔法を教え込んでいた。フリードもこの線だろう。ん、来たぞ」
「はい」
「貴様等、何を、ぐはっ!」
2人の反応は素早かった。廊下の角から出てきた親衛隊を見つけるや、シェンラがローキックで転ばせ、ゲルマが剣の鞘で腹に強烈な一撃を与えた。
これにはたまらず、親衛隊は声を出すこともできず気絶する。
それを捨て置き、再び走り出す2人。走りながら喋っていても、シェンラとゲルマの息は切れない。
「睡眠魔法ということは、まさか王も?」
「そうだ。王もあいつの魔法で強制的に眠らされている。何度か我々で魔法を解こうと試みたが……治癒系の魔法を持たない私たちでは、どうにも上手くいかないのだ」
ゲルマ団長は悔しそうに言うが、それも仕方ない。前衛での戦闘が専門の騎士団には衛生兵がおらず、そういった後方支援の魔法部隊は別の指揮系統にある。そしてその部隊は今や宰相に牛耳られている。
「それでは、私たちが助け出しても」
「そうだ。王が目覚めてくださらない限り、宰相を問責することはできない。
だがな、離宮の外にお連れすれば、まだなんとかなる。他の街や国から専門の医者を呼ぶつもりだ」
だから安心しろとシェンラを励ますゲルマ。だが、そう簡単にはいかないことは彼自身もわかっているのは間違いない。
王を外に連れ出しても、宰相の手の者が自分たちを追い立ててくる。奴らに捕まるのが先か、それとも王が目覚めるのが先か……時間との勝負になる。
ふと、リュウのことが思い浮かんだ。
彼は今、誰と戦っているだろうか。
「……団長」
「なんだ」
「フリードという男の実力、どれほどのものなのでしょうか」
「……睡眠魔法への対策を立てなければ、私でも負ける」
その言葉は衝撃的すぎた。
ゲルマは騎士団の長。騎士たちをまとめ上げる統率力だけでなく、単騎での戦闘力も随一。この国で最も強い人間と言える。
そのゲルマでも勝てないのならば、いったい誰がフリードを止められるのか。
(大丈夫なのだろうか……)
魔法は戦闘能力の差を簡単に埋めてしまう。それまで無敵を誇った剣術の達人が魔法使い相手には手も足も出ないという話もよくあること。
だからこそ貴族や正規兵は魔法を使えるように訓練される。最低でも自分の魔法で相手の魔法への対処法を身に着けるために。
彼は以前「魔法を使えない」と言っていた。
ただの親衛隊相手ならば問題はない。しかしもし、リュウがフリードと戦うことになれば……
シェンラは言いようのない不安に襲われるのであった。
※
繰り出した斬撃に手ごたえはなく、刃は宙を切り裂くだけ。必中の確信を持って蹴りを放っても、相手はするりとかわしてしまう。
1度だけ、相手の武器に刃を当てることに成功しても、いったいどうやったのか、少し手首を返すだけで交わした刃を引き離し、逆にこちらの態勢を崩してくる。
こちらの出す攻撃全てがまるで空気に当たっているかのようで、かけ離れた実力差に絶望すら感じてしまう。
(ありえねえ。こいつ、マジで何もんだ?)
フリードは心の中の動揺を相手に悟らせないことに必死だった。
油断はしていなかった。気絶した男十数人を自在に操る技術の持ち主だ。警戒に警戒を重ねていた。
それでも相手はこちらの予想のはるか上の実力を持っていた。今なら言える。こちらの剣は、絶対に相手には当たらないと。
久々に出てくる冷や汗が身体の表面を這い回り、気持ちの悪い感覚に背中が震えてしまう。神魔戦争中、傭兵として戦ってきたあらゆる戦いの中ですら、こんな感覚が起こったことはない。
つまり、自分が負けてしまうかもしれない、という感覚。
(ありえねえ、ありえねえんだよ!)
心を叱咤で埋め尽くし、邪魔な恐怖を排除する。戦争中もこの方法でいくつもの難局を乗り越えてきた。今回もできない道理がない。
それに、自分には切り札がある。実力差を容易に覆してくれる、最大の切り札。
タイミングを見極めて、その切り札を出す。
「おぅらぁ!」
フリードは己の剣をしっかりと握りしめ、相手の胴を切り裂こうと薙ぎ払う。
「よいっと!」
しかし優男は柔らかな素材でできた棒で剣を受け流す。普通なら棒ごと斬れてもおかしくはないというのに、どんな技を使っているのか、男はその棒で剣の力の方向を逸らしてくる。結果、こちらの剣は何もない場所を通過していく。
やはりダメだ。当たらない。
こうなれば切り札を、魔法を使うしかない。
「てめえ! 舐めてんじゃねえぞ! 受けるばっかで攻撃してこねえじゃねえか!」
「いや、してるしてる」
そう言う優男だが、その攻撃は全てあの柔らかい棒によるものだ。
「そんなへなちょこな棒で叩かれても痛くも痒くもねえんだよ! 人を馬鹿にしてんじゃねえ!」
「うお」
怒鳴り散らすフリード。どんな相手であっても、至近距離で大声を出されれば、多少はひるむ。
優男も驚いたように目を見開き、動きを止めた。
(今しかねえ!)
魔法を使用するには2つの条件がある。
1つは使用者が魔力を持っていること。
もう1つが魔法石を持っていることだ。
フリードの剣の柄には緑の宝石のようなものが埋め込まれている。これが魔法石。
そしてフリードは生まれつき一般人以上の魔力を持っている。傭兵時代、ある国で働いていた時に見出されたもので、訓練の末、魔力操作も習得した。
ここに魔法使用の条件が揃った。
フリードは右の手のひらを剣にかざし、一杯の魔力を魔法石に込める。
「これで終わりだ! ねんねしな!」
様々な戦場を経て最も相性の良い魔法石を見つけ、修練を繰り返した結果、彼の魔法発動までの時間は一般の魔法使いのそれよりもかなり短い。
剣で敵を指し示す。たったそれだけで、生ぬるい風が剣先から発生し、敵に向かって流れていく。
ただしそれは敵を吹き飛ばすような強烈な風ではない。いわばそよ風。しかしただの風ではない。
「……くっ、こ、れは」
そよ風を浴びた優男が途端に表情を変える。目がとろんと瞼を落とし、頭が自重に耐えきれずに垂れていく。さらに風を吸い込めば、身体中の筋肉が弛緩し、立っていられなくなる。
もはや逃げられはしない。
「うっ……」
優男は成す術もなく地面に没した。
「……」
フリードはしばらく様子を見る。
優男は動こかない。地面に倒れたままだ。
「……く、くははは!」
あっけない幕切れに、フリードは笑った。
あれほどの実力を持った男が、こんなにもあっけなく沈んだ。
死んではいない。ただ安らかな眠りが彼を包み込んでいるだけでしかない。
それでも勝敗は決した。
「……はっ、やっぱり魔法様々だな」
フリードは剣片手にふぅと息をつく。
あとは息の根を止めて、終わり。
刃が男の首筋を撫でていた。
※
離宮の頂上にある三角塔。その一室に王は眠っていた。
いや、眠らされていた。
「……アルトレ王」
シェンラはベッドに近寄り、ぽつりと呟く。
ベッドとテーブルしかない室内。カーテンもかかっていない窓から降り注ぐ青い光に照らされて、アルトレ王は横になっていた。
その様は安らかな眠りとは言えなかった。半年前までは太り気味だった顔はやせ細り、病的なまでに青白くなっている。王族の象徴である金色の艶やかな髪と髭もぐしゃぐしゃ。魔法による強制的な眠りと、最低限の栄養しか与えられていないことにより、身体が弱っているのだ。
シェンラは王の手を取り、握った。筋力がほとんど落ちてしまい、皮と骨だけになった手は今にも折れそうだ。
試しに身体を揺らしても、王は規則的な呼吸を続けているだけだ。
目覚める様子はまるでない。
「ひどすぎる……本当に、外に連れて行ってなんとかなるのですか?」
「……ここに置いていては宰相に殺されることは確実だ」
ゲルマ団長の言うことは間違いではない。宰相はこれから、この国の帝王になるつもりだ。だとすれば、前王など不要。いつ殺されてもおかしくはない。
だが、外に連れ出しても事態が好転するとは思えない。むしろ眠ったままでは弱った身体の負担になり、王の衰弱を早めてしまう。
せめて、王が目覚めてくれれば、対処のしようはあるというのに。
せっかく救出に来ても、これではどうしようもないのではないか……シェンラの心に陰がさし、無力感に苛まれていく。
そんな時、窓の外に見える赤い炎に、シェンラの記憶が呼びさまされた。
あの赤い炎はリュウが起こしたもの……そうリュウだ。リュウに何かを渡されたのではないか?
『「もうどうしようもない!」と思った時に開ければ、もしかしたら突破口になるかも』
シェンラは慌ててズボンのポケットをまさぐり、リュウから渡された封筒を取り出した。
じっと、白い紙封筒を見つめる。
宛先は『宿り木』の住所、宛名は読めない文字。そして差出人は……『ルシィ』とだけ書かれてある。
「シェンラ? 何をしている。すぐに王をお運びしなくては」
「待って、待ってください。これは……」
封筒を開け、中から1枚の紙を取り出し、広げる。
それは手の平より少し大きめの、長方形の紙。表裏にびっしりと読めない文字が書かれていて、規則正しく、左右対称に書かれたそれらの文字群はまるで絵画のようでもあった。
「これは、いったい……」
正体不明の紙1枚。リュウがこんなものを渡してきた意味を測りかねて、思わず紙を落としてしまうと、突然白い光が視界を覆った。
「なっ……!」
そのすぐ後、シェンラは驚愕に顔を染めることとなるのであった。
※
優男の首筋に刃を添えたその時、フリードの足首を尋常ではない力で掴む手が現れた。
「おーはーよーございまーす」
仰向けに倒れたまま、顔だけを上げて笑っている優男。彼の手は足首を締め上げており、フリードは痛みで剣を落としそうになってしまった。
「て、てめえ、眠ったはずじゃ!」
「ああ、寝てたよ。数秒ほど意識がなくなってた」
「数秒だと!? 1年以上は眠るような魔力を込めたんだぞ!」
「そうだな、大層な魔力だったよ。たった1枚しかないとは言え、護符で打ち消しきれないとはね」
「ぐっ!」
足首を掴む力がさらに強くなると、フリードはうめき声をあげ、たまらず優男の腕を斬ろうとした。
しかし優男は間一髪のところで足首を離してしまう。なんとか彼が持っていた柔らかい棒だけはとっさに蹴飛ばすことができたが、足首の痛みはかなりひどく、まともに足を踏ん張ることすらできなくなってしまった。
「く、くそ野郎が! 魔法を打ち消すだとぉ!」
「この護符が手品の種」
跳ねるように立ち上がった優男が、懐から1枚の紙切れを取り出す。
それは表裏に文字と幾何学模様が重なり合った不思議な紙。
微かに白い光を放っているそれは、まだ周囲に漂っている『魔法の空気』をかき消してしまっている。
「なんだそりゃあ……!」
理解ができなかった。魔法を打ち消す紙……聞いたこともないーーいや、1度だけフリードは噂を耳にしたことがあった。
神魔戦争にて、『魔法を打ち消す魔法』を使いこなす奴が『人の軍勢』にいたという、そんな噂を。
「ちなみに、王様を救出しに行った『紅の女騎士』さんも同じものを1枚持ってるから、よろしく」
「……!」
フリードは激昂し、感覚のない右足首を気合で前に出すと、剣を大きく上段に振りかぶった。
勝算はあった。優男の唯一の武器は蹴り飛ばしている。相手には攻撃を防ぐ手段がない。
加えてまともにかからなかったとは言え、睡眠魔法で意識を飛ばされていたのだ。今なら相手の反応も悪くなっているはず。
斬る。全てを台無しにしてくれたこの優男だけは。
フリードの剣が、袈裟斬りの軌道を描く。
だが、
「残念」
剣は空を斬り、逆にフリードの腹部に拳がめり込んでいた。
目にも留まらぬ速さで放たれた突き。身体全体を貫く衝撃にフリードの息が止まる。
「ぐ、は……」
「武器持ちよりも素手の方が強い人間もいるってこと、覚えとくといいよ」
その言葉が届くことはなく、フリードは地面に沈んだ。
一撃で完全に意識を刈り取られてしまったようで、彼の身体はピクピクと手足を痙攣させている。
もはや起き上がれるはずもなかった。
「お、おい、マジかよ……」
「お頭がやられた……」
「やべえ、やべえよ」
ざわめく親衛隊たち。
自分たちにとって最強で最恐のリーダーがやられてしまったことは衝撃的だった。
フリードは強いはずだった。切れる頭、熟練した剣技、どんな人間も一瞬で眠らせてしまう魔法。彼に勝つなんて、それこそ天使や悪魔や英雄でもなければ不可能だと思われた。
しかし、そのフリードがあっけなく沈んだ。弱そうな優男の手によって。
優男へ注がれている視線は様々だった。呆然と見つめる者、恐怖に震えた視線で見つめる者、むしろ憧れや羨望の眼差しを向ける者。
「ふぅ……」
周りの注目を集める当の優男は、いまだ悠然と立ち尽くしている。
倒れているフリードを見つめるその目は、若干の憂いを帯びていた。まるで遠い地に去りゆく友人を見つめるような。
しかしそれも束の間、顔をあげて一言。
「さて、夜遊びに付き合ってくれる人はまだいるかな?」
親衛隊たちの間に緊張が走る。
「うっ」
「やべえ……」
「逃げろお!」
「うわあああ!」
誰かが発した悲鳴を引き金にして、親衛隊たちは一斉に四方へ散らばっていく。
もはや彼らに警備を続ける度胸などなかった。
結果、北の門に残っている人間は優男ただ1人となってしまったのだった。
※
まるで蜘蛛の子を散らすようだ、とリュウは思った。
元々はごろつきが集まっただけの集団。まとめ役のリーダーを倒してしまえば、こうもあっさり瓦解してしまう。
「ふぅ……」
誰1人いなくなった正門。リュウは青い月を見上げてため息をつく。
あっけない。こんなひ弱な集団が国ひとつを思いのままにできていたのだから、リーダー個人の実力の高さが伺いしれる。今回の事案は、彼が率いていたからこそ起こりえた。
しかしそのリーダーはもう……
憂鬱に転じる思考内容。すかさず頭を振って気持ちを切り替える。
考えても仕方ない。それよりも今は、やるべきことを成して少し疲れた。
「ふぅ……」
喉の渇きを感じたリュウは、顔を少し上げ、周囲に聞こえるように少し大きめの声を出した。
「ルシィ、何か飲み物はないか?」
「はい、ご主人様。こちらに」
門の陰から姿を現したのは、黒ワンピースに白エプロンのメイド服、膝上スカートがひらりと舞うもその中身は決して見せない銀髪女性、ルシィだった。
彼女は窈窕たる動作でリュウの横に並び立ち、銀のサルヴァ(小さなトレイ)に乗ったティーカップを差し出した。
「どうぞ。アイスティーです」
「ん、ありがと」
戦闘後の場にそぐわない豪奢な白いティーカップに苦笑しつつ、リュウはアイスティーを飲み干す。相変わらずルシィの淹れる紅茶は美味い。口の中だけでなく胃でもその味がじんわりと味わえるような気がする。
葉から厳選していると彼女はよく言っているが、元天使の世間知らずがよくぞここまで完璧なお茶を淹れられるようになったものだ。
「ふぅ……で、いつから見てたんだ?」
「ご主人様がたわいもない輩とお遊びになり始めた頃です」
淀むことなく答えるルシィ。
リュウはやっぱりかと納得する。リーダーが現れた頃から、自分を見つめる視線の中に不純なものが混じっていたような気がしていた。あれは勘違いではなかったようだ
「ご主人様が楽しそうで何よりでした。あのように快活な顔をしているご主人様を見ていると、私はもうときめきが抑えられず、混ざりたいと思う気持ちを必死に抑えて」
「はいはい。それより、ここに来るのが遅かったな。何か手間取ったのか?」
暴走し始める銀髪メイドを押しとどめつつ尋ねる。
『あの事故』からすでに10日。ルシィにしてはやけに遅いお出迎えには、一昨日頃から不思議に思っていた。
さりとて特に非難するつもりはなかったが、ルシィは叱られていると思ったのか、「申し訳ありません」と優雅に頭を下げた。
「あの森の調査自体は終わっておりましたので、あとは報告書を仕上げて提出するだけなのでしたが……ご主人様が消えたことに、クレンが大いに腹を立ててしまいまして」
「……ああ、なるほど。うん、想像はつく」
「『アタシの契約者が消えたっていうのに、お前はのこのこ帰ってきやがってこの馬鹿メイド!』と」
ルシィが今出した声は、いつもの鈴のようなかわいらしいものではなく、少々野性味溢れたものだった。
「異様に上手い物まねはいいから、続き」
「はい。怒ったクレンは私に向かって炎を浴びせてきました。私はとっさに避けたのですが、報告書の方は勝手に避けてくれるはずもなく」
「燃えた?」
「それはもう、すっきりとした灰になってくれました」
「……はぁ」
リュウにはもうそれ以降の予想がついた。ルシィが記憶を頼りになんとか報告書を書き直し、所定の機関に提出。それからようやく自分を探し出し、見つけるとアルトレまで来る足を手配し、今晩到着した、というところだろう。
ルシィがそんな苦労をすることになった元凶にはきちんと反省していてほしいものだった。
「分かった。ご苦労さまだな」
「ありがとうございます。よろしければ、私にご褒美を」
「ご褒美ね。そうだ、ルシィ。面白いものを見せてやるよ」
リュウは倒れている親衛隊リーダーの傍に寄り、転がっている彼の剣を拾い上げた。
緑色の石の部分に指を添え、ぎゅっと押し出す。
「ほら、これだ」
そのまま石をひょいっと放り投げた。
ルシィは慌てる様子もなく、それを受け取った。
「これは……魔法石ですね」
「ああ。お前も見てたんなら知ってるだろ、こいつが魔法を使ってたのを」
「はい。睡眠魔法ならば系統は『風』、しかもこの石はかなり純度が高いものですね」
石を青い月の光にかざし見ているルシィ。透明度の高い魔法石であるため、月の光を通せば四方八方に偏向して、まるで発光しているように見える。
リュウは気絶しているリーダーを見下ろした。
「この男、この国に来る前はどっかの国で傭兵をしてたらしいな。魔法の技術はそこで学んだんだろ。けど、戦争が終わっても魔法石を回収しないほど、その国の兵器管理がずさんだったとは思えない。傭兵に貸し与えた武器は全部回収するはずだ。だから、この男は戦後になってその魔法石を手に入れたことになる」
「……これほど純度の高い魔法石を持つ国は、なかなかありませんが」
「そうだ。だから出所を調査してみると、ちょっと面白いことになると思わないか? ま、戦後のどさくさで盗んできたこともありえるけど、調べてみる価値ありだ」
「かしこまりました。帰り次第、調査してみましょう」
メイド服のポケットに石を入れるルシィ。彼女に任せておけば、1か月後には出所が判明するだろう。
魔法石という兵器を、どこぞの傭兵崩れが手に入れられるルートがあるのならば、非常に憂慮すべき事態だった。
「にしてもだ」
「はい?」
「お前からの手紙だよ。どうして俺に護符が必要だってことが分かったんだ?」
リュウは思い出す。今日になって転送魔法便で送られてきたルシィの手紙のことを。
てっきり『迎えに行く』程度のことしか書いていないかと思ったら、今回の作戦にとても重要なアイテムが入っていて、とても驚いてしまった。
「どうしてだ? ついに千里眼にまで目覚めたのか?」
「いえ、百万呪言様と戦巫女様からお手紙を頂きました。その中でそれぞれ『送った方がいい』『送るのじゃ』とありまして」
「あいつらか……あの2人は本当に勘がいいな。時々近くで見られてるんじゃないかと思うぐらいだ」
「……むしろ本当に見られている可能性も」
「なんだ?」
「いえ、何も」
異様に小さな呟き声はちゃんと聞こえず、首を傾げるリュウ。
ルシィが呆れたようなジト目で見つめてくるが、どうしてかが分からない。何か変なことを言ってしまったのだろうかと心配になる。
「では、ご主人様」
リュウの心配事もよそに、クールな表情のままのルシィが紅茶のカップとサルヴァを地面に落とす。瞬く間に食器たちは消失し、それで移動支度は完了。
「これからどうされますか? お帰りの準備はすでにできておりますが」
「んー、もう少しここに留まっとこう。ここの成行きを見ておきたい」
「では、その気絶している男を拘束しておきますか?」
「それは別にいい。あとはシェンラたちがやるべきことだからな」
リュウがそう言うと、ルシィの目が一瞬険しくなった。
すぐにいつもの冷めた目に戻るものの、視線はリュウを捉えて離さない。
「……ご主人様、少々よろしいでしょうか」
「なんだ?」
「シェンラ、とは女性の名前でしょうか?」
「ん? そうだけど?」
暢気に答えるリュウに、ルシィが「はぁ……」と大きなため息をついた。
「どうした、ため息なんて」
「いえ、またか、と」
「何がだ」
「こればかりは仕方ないと諦めております。美女・美少女をものにするのが趣味のご主人様ですから」
ひくり、とリュウの頬が引きつった。
このメイドはいったいどんな勘違いをしているのか。
「……あのなあ」
「どこか間違っていますか?」
「大違いだ。まったく、いい加減、お前を名誉棄損で訴えるぞ」
「訴えたとて私を裁ける神はおりません。いえ、ご主人様でしたらもちろん裁けますが……ああ、なるほど。直々にお仕置きをしていただけるということですね? 責められてばかりのご主人様がなんともまあ……これは楽しみです。思わず興奮して、今にもお情けを頂きたく」
「頭を冷やせ変な吐息を出すなズボンを掴むな、この破廉恥天使」
ズボンを引っ張ってくるルシィの手をしたたかに叩き落とす。このメイドは放っておくと本当に『始め』かねないので油断がならない。
しかも叱ってもほとんど無駄。『メイドは主人の意に沿わないことをやってはいけない』と注意しても、この銀髪メイドは『しかし私はご主人様が本当にしてほしいことを先読みして行っているだけです』と、リュウにとって非常に反応の困る言い訳をしてくるので性質が悪い。
そんな困ったメイドであるが、リュウにとって彼女が愛らしくあるのも確かなのであって。
「……ご主人様は、私の御奉仕がお嫌なのですね」
しゅんっとするルシィ。
半分以上演技に違いないと分かっていても、リュウにはそれ以上責めることはできなかった。ルシィの破廉恥行為は恥ずかしくはあっても、迷惑ではないのだから。
リュウはポンッとルシィの頭に手を置いた。
「ほら、行くぞ」
頭を2,3度、擦り撫でる。
それだけでルシィは喜色満面になった。
「……ん、気持ちいいです。さすがご主人様、戦いのコツだけでなく、女のツボも心得ていらっしゃるのですね」
「はいはい。ああ、そうだ。お仕置きってわけじゃないが、頼みたいことはある」
「なんなりと」
「……赤い顔でこっち見られると照れるな……あー、ここでいくつか本を買ったから、それを整理しといくれ」
「かしこました。が、そろそろ本棚が満杯です。本格的に引っ越しをするか、家を改築することを推奨いたします」
「あー、それは帰ったら考える。とにかく宿屋に戻ろう。コーヒーも頼むぞ」
「はい」
リュウが先に一歩を踏み出し、ルシィがその後ろに控えて歩き出す。
リュウがいつになく安心して歩けるのは後ろにルシィがいるから。
ルシィがとても嬉しそうな表情をしているのは、久しぶりにリュウの後ろを歩けるから。
付かず離れず、主人とメイドとしての距離を保つ2人は、しばらくして、離宮から漏れ出る兵士たちの歓声を耳にするのであった。
※
この日の明け方、アルトレ王国の全大臣と全貴族に1つのお布令が出される。
『アルトレ王が復活なされた。今よりカンドル宰相の全権を取り上げ、王の復帰を宣言する』と。
こうして1つの国の騒動が終結するのであった。