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第3話~素直になれない気持ち~

「はぁ…………何でこんなことになったんだろ……」


所長室の机で項垂れる青年が一人、深刻そうな顔をして頭を抱えていた。それもそのはず、青年は一夜にして使用人を何百人と抱える屋敷の責任者となってしまったのだから。しかも“本人の気持ちは無視して”である。机の上には、大小様々なバインダーやファイルが山のように積み重ねられていた。それらは全て、このHOE所長の業務内容や資料の書かれたファイルである。暁彦はそのファイルを数冊手に取った所で止まっていた。


「……やめやめっ。駄目だ、こんな迷った気持ちじゃ手につかないや。気分転換しよう」


暁彦は机から立ち上がると所長室を後にした。暁彦が最近始めたこと、それは屋敷内を散歩することだ。前回屋敷に迷って以来(二話?参照)、暁彦は散歩がてら屋敷内を歩き回るようになった。そうして屋敷内の地理を把握しているのだ。といってもこの広い屋敷だ。せいぜい散策した地域は全体の3分の1程度だろう。屋敷完全踏破まではまだ時間がかかりそうだ。


「……あれ?」


ふと、ある部屋の前で立ち止まる。扉からいい香りがする。これは芳香剤の香りだろうか。


「ここってまさか…………風呂?」


所長室にはバスルームが設置されており、暁彦はそれを利用していた。しかしこの豪邸だ、大浴場があったとしても何らおかしくはない。そしてなにより、暁彦はその大浴場を目にしてみたかった。


「(これだけの豪邸なんだから、風呂もさぞ立派なんだろうなぁ。ライオンの口からお湯が出てたりして……)」


逸る気持ちを押さえきれず、暁彦は扉を開けた。一層濃くなった香りと独特の湿気、暁彦の予想は当たっていた。ここは間違いなく浴場である。さらに硝子張りの引き戸が現れるが、それも暁彦は躊躇なく開ける。


「豪華風呂ーっ!!」


《ガララッ!》


「…………?」


「あ……」


引き戸を開けると目が合った。少女だった。何のことはない、ただ少女と目が合っただけなのだ。思う点があるとすればひとつ、その少女が全裸に近かったということ。


「ッ!!」


彼女はショーツに手をかけていた。尾てい骨あたりにはふさふさと毛に覆われた尻尾が生えており、彼女が亜人種だということを証明する。宝石のサファイアのような青い瞳が暁彦を映し出した。


「☆#¥♀!!??」


人間とは不思議なもので、あまりにも突発的事態が起きると、脳が対処仕切れず活動が停止してしまうことがある。今、暁彦はまさにその状態であった。彼女は暁彦に気付くと、すぐさまバスタオルで体を覆い隠す。そしてしどろもどろになっている暁彦をキッと睨み付けた。


「…………」


「あっ!いや、これは……その……ごめんなさ…………」


両手で必死に目を覆い隠し少女の裸体を見ないようにする暁彦なのだが、指の隙間からばっちり覗いていた。手で覆い隠すよりもそこから離れるという選択肢を何故選択しないのか。


「…………あれ?」


ハッと我に返ると正面にいたはずの少女が消えている。「そんな馬鹿な、さっきまでそこにいたはずだ」と辺りを見回そうとした瞬間。


「(えっ?)」


天地がひっくり返った。と同時に背中に衝撃が走る。


―ズダンッ!!


「がはっ!!」


気が付くと仰向けに倒れながら天井を仰いでいた。背中の鈍痛を押し殺し辺りを見回すと、暁彦の腕を取る少女が立っていた。どうやら少女に投げられたようだ。


「つつっ……」


「……人の裸を覗くとは随分いい趣味をしているな。覚悟は出来ているんだろうな?」


彼女の威圧的な眼と声が暁彦を突き刺す。先ほどの宝石のような綺麗な瞳は欠片も感じられない。


「ご、誤解……です……覗く、つもりじゃ」


背中を叩きつけられたせいか、上手く喋る事が出来ない。信じてもらえるはずもないが、覗くつもりではなかった事だけ弁解しておきたかった。しかし少女は額に青筋を走らせながら、笑顔で一言。


「問答無用」


「ひ、ひぃぃぃ……」


暁彦はこの世の地獄を見たと言う。





◇ ◇ ◇ ◇





「よいしょ……よいしょ…………うん?」


洗濯物の入った籠を持って廊下を歩いていると、人だかりを見つけた葉月。何事だろうかと思い、人だかりに加わる。けれど葉月の身長では人だかりの中の様子を見ることが出来ない。見知った顔があったので、その娘に聞いてみる。


「何かあったの?」


「大浴場で女性入浴時間中に覗きが出たんだって」


「の、覗き……?」


今のご時世に“覗き”をする人間なんているのだろうか。今までここHOEで生活してきて“覗き”なんて聞いたことがない。けれど何故だろう、葉月は胸騒ぎがした。


「ちょっとごめんね、通してください」


人だかりをかき分けもみくちゃにされながらも、なんとか中心部へと到達することが出来た。その中心部の光景は葉月を驚愕させる。


「何……これ……?」


葉月は目を疑った。それは異様な光景だった。縄でぐるぐる巻きに縛られた暁彦が正座させられ、一人の少女に怒鳴り散らされている。暁彦は申し訳なさそうにただただ俯くだけだ。それをこの人だかりに晒し者にされているのだから、気が気でないはずだ。すぐさま葉月は暁彦の下へ駆け寄った。


「暁彦様っ、大丈夫ですか!?どうなさったんですか!?」


「は、葉月さぁん……」


暁彦は情けない姿を晒されて半ベソをかいていた。まるで捨てられた子犬のようにプルプルと震えている。


―きゅぅうんんっ!


「(か、かわいいっ……)」


葉月は不謹慎にも母性本能をくすぐられてしまった。抱き締めて優しく頭を撫でる。


「もう、大丈夫ですよ。安心してくださいね」


「ぐすん……」


「……その“ろくでなし”はお前の知り合いか、葉月?」


声をかけてきたのは葉月が十分見知った相手だった。


椿(つばき)さん!」


「(……つばき?たしか、孝章叔父さんの手紙に書いてあった……この娘がそうか)」


先ほどまで暁彦を怒鳴り散らしていた椿の瞳がふっと緩んだ。状況を飲み込めていない葉月は椿に事情を聞く。


「椿さん、一体何があったんですか?どうして暁彦様が簀巻きにされなくちゃならないんですか?」


「こいつはな、葉月。浴場の脱衣所で覗きをしていたんだ!……幸い、犠牲者は……その……私だけで、済んだからよかったものの……」


椿は急にしおらしくなり、顔を紅潮させながらゴニョゴニョと口を紡いだ。先ほどまでの勢いはどこへやら。暁彦は「こんな表情もするのか」と感心していると椿と目が合った。


―ぎゅぅぅうう。


「貴様は何をニヤついているんだ……?」


「ひゅみまへん!ひゅみまへん!」


椿に頬を思いきりつねり上げられ悶絶する暁彦。パチンと放されると涙目になっていた。


─コンッ。


「……ぅん?」


後から金属音が聞こえたので振り返ってみる。


「……それ、本当ですか?」


ダークオーラを纏う葉月が獲物(フライパン)を片手に暁彦を見下ろしていた。暁彦は本日二度目の命の危険を感じ取った。


「ひいぃぃっっ!!ごっ、誤解なんですぅーっっ!!フライパン出さないでぇえっっ!!」


何処から取り出したのか、フライパンを構える葉月に暁彦は悲鳴をあげる。前回の一撃がトラウマになっているらしい。葉月はそんな暁彦を見て、フライパンをしまった。


「椿さん、何かの間違いじゃないでしょうか?暁彦様がそんなことするなんて……私には考えられないんです」


葉月は暁彦を庇う。そんな葉月に椿は怪訝な表情をした。


「そう言われてもな、この男が覗きをした事は間違いなく事実だ」


「だから、それは誤解……」


「貴様には聞いていないッ!!」


「っ……」


凄い気迫でピシャリと言い切られ、暁彦は全く反論すること出来なかった。大声に葉月も怯みそうになるが耐えた。


「葉月、それでもこの男を信じるのか?」


「…………」


葉月の瞳を真っ直ぐ見つめる椿。葉月は黙ってしまった。暁彦はその沈黙に耐えきれなかった。


「(もとはと言えば自分が撒いた種だ。これ以上、葉月さんに迷惑はかけられない)」


暁彦が声を出そうとしたその時。


「……それでも私は暁彦様を信じます。やっぱり、私には暁彦様がそんなことしたなんて考えられません!」


「葉月、さん……」


「…………」


椿は目をそらさず、葉月を見つめ続ける。椿の無表情が冷たさを強調する。葉月も必死に負けじと踏ん張る。


「……ふふっ、わかったよ。私の負けだ」


「ふぇっ?」


先ほどまで冷たかった椿の表情が明るくなる。彼女は優しく微笑んだ。


「葉月がそこまで言うんだ、今回は葉月に免じて水に流してやる」


「椿さんっ!ありがとうございますっ!」


「別にお礼を言われることではないんだがな」


笑顔でお礼を言う葉月に、椿は苦笑いした。


「お前達も見世物じゃないんだ、さぁ散った散った」


椿はそう言って野次馬達を追っ払った。三人だけがその場に残る。


「おい、男」


「はいっ」


「勘違いするなよ?今回は目を瞑るが、次このような事があれば、すぐにここから叩き出す。忘れるな」


「は、はぃ……」


椿は暁彦を縛る縄をほどく。しかし葉月に微笑んでいた時が嘘のように、鋭い眼光で暁彦を睨み付けていた。暁彦も素直に頷くことしか出来なかった。椿はそのままその場を後にした。


「はぁ〜〜……緊張しましたぁ〜」


ぺちゃんとその場に座ってしまう葉月。余程疲れたのだろう。


「葉月さん、本当にありがとう。助かったよ」


「いえいえ、これくらい使用人として当然の務めです」


暁彦は葉月に手を差し伸べる。葉月はその手を借りてその場に立った。


「それでも、ありがとう」


「えへへ……何だか照れちゃいますね」


「でも、どうして俺なんか庇ったの?そうすればこんないざこざに巻き込まれることもなかったのに……」


「『どうして』ですか?んー……」


葉月は不思議な顔をして、考える仕草をする。そして笑顔でこう答えた。


「暁彦様がそんなことするわけないって……本当にそう思ったから。えへへ……すみません、上手く言えないです」


「葉月さん……」


葉月からこの言葉を聞いた時、暁彦は堅く決意する。「この娘達の為に自分が出来ることをしよう」と。






廊下を一人歩く椿。先ほどまでの険しい表情はなく、むしろ嬉しそうな表情をしているように見える。


「(ふふっ、あの引っ込み思案の葉月が、まさか私に反論してくるとはな。あの娘の中で何らかの変化が起きてるということか……)」


葉月の変化を喜ばしく思う椿。彼女のことは少なからず心配していたが、杞憂だったようだ。


「(ただし、あの男はいけすかない……絶対に追い出してやる)」


すぐにまた険しい表情に戻る椿。その切っ掛けをつくったのが、まさかあの覗き犯だとは夢にまで思わない椿だった。

次の日の午前、茉奈の私室にて。茉奈と椿はティータイムを楽しんでいた。実はこの二人はとても仲が良い。こうして二人だけで茶会をする事も少なくない。紅茶を注いだカップと切り分けられたケーキを椿に手渡す茉奈。


「はい、椿ちゃん」


「すまない、茉奈」


茉奈が自分の分の紅茶を注ぎ終えるまで待つと、椿はカップに手を付けた。


「そういえば、茉奈。“あの男”はどうなっているんだ、お前の担当だろう」


「“あの男”じゃないわ。“暁彦様”よ」


「覗き犯に様付けできるほど私は人が出来ていないからな」


そう言うと一口紅茶を啜る椿。茉奈もやれやれといった顔だ。


「話は聞いたわ。確かに許せないかもしれないけど、暁彦様だって故意に覗こうとしたわけじゃないと思うわ」


「何故、そう言える?」


若干苛立ちを含めた言い方で椿が言う。


「『何故』って……だって暁彦様がそんなことするわけないもの…………ほんの少しエッチですけどね」


「お前も“あの男”庇うんだな……」


葉月だけでなく茉奈まで“あの男”を庇う。椿的に面白くない。明らかに不服そうな表情を浮かべる椿。そんな椿を見て茉奈はニコッと微笑んだ。


「椿ちゃん、良い事を思い付いたわ」


「……?」



◆ ◆ ◆ ◆



「……で、何故こうなる?」


「よ、よろしくお願いします……」


午後、何故か所長室で暁彦と二人きりな椿。その真相は。








《椿ちゃんも暁彦様とふれあいたかったのねっ!》


《はっ?》


《そうよね、直接話さないとお互い誤解してる所もあると思うし》


《おい、何を言って……》


《わかったわ!午後からの予定を変えて、椿ちゃんには暁彦様の指導係をお願いするわ》


《ふざけるなっ!誰があんな奴と……うっ!?》


うるうるとした瞳で椿を見つめる茉奈。


《私っ……椿ちゃんと暁彦様が、もっと仲良しさんに……なってくれたらって……》


《お、おい……》


《ごめんなさいっ!いい迷惑よね……私ったら……なんて事を……》


《わかった!わかったから!》


今にも泣き出しそうな茉奈に、アワアワおろおろする椿。椿は茉奈の涙にめっぽう弱かった。


《本当っ!?ありがとう!椿ちゃん!“善は急げ”よねっ!すぐに調整するから!》


《なっ!お前今嘘泣きしてただろ!おいっ!》








と、茉奈が予定を半ば強制的に変更して、暁彦の所長業務教育係として椿を任命したのだ。引き受けてしまった以上、仕方ないと割り切る椿。


「おい」


「はいっ」


「私はお前に干渉する気はない、だからお前も私に干渉するな。それ以外好きにしろ」


「う……はい……」


冷たく突き放す発言に暁彦もしょんぼりしてしまう。昨日の今日では仕方ないことなのだが。


「……」


「…………」


沈黙が支配し、聞こえてくるのは時計の針が動く音のみ。その沈黙に耐えかねる者が一人。


「(う、おおお……何だ、この状況は……!?この状況で勉強なんて出来るわけないだろぉ……)」


手にとったファイルで顔を覆い隠し、小刻みに震える暁彦。椿が気にならないわけがなく、ファイルから顔をだしてちらりと覗いてみる。


「…………」


椿は本棚の本を一冊手に取り、本棚によしかかりながら立ったまま読書をしていた。白い胴着に群青色の袴、背中まで伸びたダークブルーのロングヘア、そして宝石のような青く輝く瞳。頭には尖った対の獣耳、腰にはふさふさの尻尾、とても触り心地が良さそうだ。


「(もう少し愛想よくしてくれたら可愛いのに……)」


「……また、覗きか?」


「(バレてたっ!!)」


本に視線を向けたまま、椿が一言。暁彦は体をビクッとさせて驚いた。


「言ったろう、私に構うな。お前は自分のやるべきことをしろ」


「…………」


暁彦は椿の言葉を聞いてとても悲しい気持ちになった。


「せっかく出逢えたのに……それってすごく悲しいことじゃない?」


「……何が言いたい?」


椿は暁彦に目だけを向けた。椿の青い瞳に暁彦が映る。


「俺は椿さんの事知りたいし、椿さんには俺の事知ってもらいたい」


「私に覗き犯の何を知れと言うんだ、覗きの仕方か?」


椿は嘲笑しながら皮肉を言う。


「昨日の事は本当にごめん、わざとじゃないんだ」


「そんな言葉信じられるか。大体初めから気に食わなかったんだ。余所者のクセにいきなりここにやって来て、孝章の代わりだ?何も知らないお前に何が出来る?」


椿は段々と熱くなっていく。暁彦も真剣だからこそ熱くなる。


「……確かに俺は何も知らない……自分に迷いすら覚えてる……」


「そんな奴が所長に……!!」


「だけど!!」


暁彦は椿の言葉を遮った。椿は一瞬呆気に取られる。


「……葉月さんはこんな俺を信じてくれたんだ。会ってまだ間もないこんな俺を!」






《暁彦様がそんなことするわけないって……本当にそう思ったから》






「ひとつだけ決めた事があるんだ。葉月さんの為に……いや、ここにいる人達みんなのために自分が出来ることをしようって……」


「(こいつ……)」


どうしようもなくて、いい加減で、迷ってばかりの暁彦がひとつだけ決意したこと。その決意だけは迷いは微塵も感じられなかった。


「……だから、俺は椿さんにも……」


「お前が言っている事は綺麗事に過ぎない……」


「待っ……」


そう言うと椿は所長室から出て行ってしまった。大量のファイルと暁彦だけが取り残された。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「ふぅ……」


中庭のベンチに座って溜め息を漏らす椿。心なしか、その背中は寂しげである。


「……驚くくらい、真っ直ぐな人だったでしょう?」


「茉奈」


後から声をかけられ振り向くと茉奈が微笑んでいた。


「お前、隠れて聞いてたな?」


「何の事かしら?」


嘘か真か、知らないふりをする茉奈。椿の隣に腰を下ろした。


「あの人は“私達”にも隔てなく接してくれるわ」


「ああ、だろうな。話してみて何と無くわかったよ。……あいつは馬鹿だな」


「ふふ……けれど素敵な人よ」


悪口を言っているにもかかわらず、椿は笑っていた。


「だから、椿ちゃんにも知ってもらいたかったの。外にも私達を認めてくれる人がいる事を」


「それなら初めからそう言ってくれれば良かっただろう」


「あら、私が言ったら椿ちゃんは素直に信じてくれたかしら?」


「うっ、それは……」


痛い所を突かれたなと椿、茉奈はそれを見て微笑む。


「葉月ちゃんもね、暁彦様と出会ってから変わったわ。沢山笑顔を見せてくれるようになったの」


「葉月が変わったのはあいつの影響だったのか……?」


「そうよ、気付かなかった?」


そんなこと考え付きもしなかった椿。なんだか素直に認めたくないというか、悔しい気持ちになる。


「……“風”」


「『風』?」


一言そう呟いた茉奈。オウム返し聞き返す椿。


「暁彦様は“風”ね、このHOEに新しい風を運んでくれる。その風は、葉月ちゃんに……そして私や……椿ちゃんにも……きっと、いい風を運んでくれるわ」


茉奈は少しロマンチストが入っている。しかし今回茉奈が当てはめた描写は、しっくりあてはまっている気がした。


「椿ちゃん……その“風”を……信じてみない?」


「“風”……か」


「ほら、風が吹いてきた」


「……!?」


茉奈が指差す先を向くとそこには見知った人物が立っていた。


「はぁ……はぁ……見つけた……」


「お前……」


そこには肩で息をする暁彦が立っていた。きっと椿を探して走り回ったのだろう。


「…………」


「ほら、椿ちゃん」


「ま、茉奈!押すなっ!」


いつまで立っても黙ったままの椿に対して、茉奈はそっと背中を押した。椿は暁彦の前に押し出された。


「な、何をしに来た?お前にはやるべきことが……あったはずだ」


「うん、でも勉強は後でも出来るから……今は椿さんが大事だと思ったんだ」


「(こいつはぬけぬけと、恥ずかしい事ばかり言って……羞恥心がないのか)」


といいつつも椿もほんのり頬を赤くしていた。


「その……さっきは、変な事言ってごめん。でも、絶対嘘じゃないから……信じられないかもしれないけど……」


「あーあー!グダグダ言葉ばかり並べて!!」


いつまでたってもはっきりしない暁彦の態度に椿は声を荒げた。


「私はな!口先ばかりの奴が大嫌いなんだ!男なら黙って態度で現せ!」


暁彦に向かってずんずん歩いていく椿。その迫力に押され暁彦は後退りそうになる。暁彦の目の前に来ると椿は立ち止まった。


「……それで、お前の気持ちが伝わったその時は……」


急にしおらしくなる椿。後ろを向いて腕を組んだ。そして小声でつぶやくように言った。


「お前の事、認めてやる……」


「椿さん……」


「かっ、勘違いするなよ……少しでも期待を裏切るような真似をしたら……いやっ!別にお前に期待しているとか、そういうのでは……!!」


どんどんしどろもどろになっていく椿。頬を赤くしてぶんぶん手を振る。


「とにかくっ!少しでも私達を裏切るような真似をしたら、すぐにここから叩き出してやる!肝に命じておけ!」


「はいっ!」


「(結局、それって”期待してる”って事よね。……本当は認めているくせに……素直じゃないんだから)」


椿の照れ隠しの表情と、暁彦の嬉しそうな顔、それを見守って微笑む茉奈の顔。


「ほら、さっさと持ち場に戻れ。少しでも早く仕事を覚えろ」


「えっ、今から?」


「当たり前だ、仕事できない奴はいらないからな」


「ふふっ、すっかり仲良しさんですね」


そのあと暁彦は所長室で椿にみっちりしごかれたそうな。




 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇






《カポーーン……》


その日の夜、大浴場にて。


「椿さん、暁彦様と仲直り出来たんですね!?」


「私がいつ、あいつと喧嘩した?」


「恥ずかしくて照れていただけよね?」


「誰がだっ!!」


大浴場の大理石に囲まれた広い湯船に浸かり、葉月、椿、茉奈の三人は疲れを癒していた。周囲には他にも女性の使用人が入浴していた。もちろん、現在は女性入浴時間である。


「暁彦様って不思議な方ですよね。会って間もないはずなのに……親しみやすいというか、昔から知っているような」


「それが暁彦様の魅力なのね、きっと。私はとても優しくて誠実な方だと思うわ」


「あっ、私もそう思います!」


「葉月も茉奈も買い被り過ぎだ。あいつはそんな男か?」


暁彦のことで、きゃっきゃっと喜ぶ二人に釘を刺した椿。


「あら、椿ちゃんだって暁彦様の真剣な姿を見た時、満更でもなかったんじゃない?」


「そんなわけ……」








椿は昼間の暁彦の言葉を思い出す。


《ここにいる人達みんなのために自分が出来ることをしようって……》


―キラキラ……。


椿の思い浮かべた記憶は何故か美化されていた。暁彦のバックには星がキラキラと輝いている。しかしながら、当の本人は美化していることにまったく気が付いていなかったりする。








「ッ!?」


一瞬にして顔が紅潮する椿。素早く湯船に沈み込んだ。


《ザブンッ!》


「ブクブク……」


「つ、椿さんっ!?」


何があったのか理解出来ない葉月は、椿の行動を見て焦る。茉奈はそれを見て微笑む。


「ふふふっ、あらあら」


《ザバッ!》


「きゃっ」


沈んだ椿は浮上し立ち上がる。もはや顔が赤いのは湯のせいなのか、それともその他の要因なのか、わからない。椿は拳を握り、わなわな震え始めた。そして叫んだ。


「……認めない……絶対、認めなーいッ!!」









「へーっくしっ!!」


所長室の浴室で入浴している暁彦。大きなくしゃみが浴室にこだまする。


「あの大浴場、いつか入ってみたいなー」


大浴場で噂されているとも知らず、マイペースな暁彦だった。


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