第2話~Welcome to the Happy of establishment~
この世には「亜人種」という生き物が存在する。それは一体、何なのか?
良く言えば「生体技術の発達」、悪くいえば「人間のエゴイズムの象徴」だろう。どちらにせよ、人間という生き物が、傲慢で自己中心的だということを証明している。
文明の発展は生活をどんどん豊かにしていった。その中で飛躍的に進化した医療文化、それには大きな要因があった。「クローン技術」である。
最初は動物から始まった。小型のマウスを初めに、次は大型のウシを複製する。実験は成功し動物の複製は完了した。
そして、次にクローン技術を用いたのは「人間」であった。人が人を複製する、しかし「人間」の実験は一度たりとも成功することはなかった。人間とは繊細な臓器が幾つも結びついて成り立っている。部分的な臓器を複製する事ができても、人間一体まるごとを複製するのは不可能だった。だが、この臓器の複製が医療技術を進化させたのだ。「人工臓器」である。
おかしな話、“治す”というよりも“取り換える”といったほうが正しいかもしれない。悪いなら“治療する”のではなく“取り換え”ればいい。いつ現れるかわからないドナーを待つ必要もなく、専用に造られた臓器なので拒絶反応を心配することもない。これが大きな要因がであった。
しかし「人間」とは欲深い生き物だ。欲を満たせば次の欲が現れる。いつまで経ってもその欲が費えることはない。人間はこのクローン技術を医療以外にも利用した。
「生体兵器」である。
意のままに操る事のできる駒が欲しい。だからと行って機械では性能が限られる。では、このクローン技術で生きた兵器を作ってみよう。多種属の動物を掛け合わせた合成獣や人工臓器に武器を埋め込む生体武器を造り始めた。
「もっと有能な兵器を」
「もっと強力な兵器を」
「そうだ。人間を造ることが出来ないのならば、人と動物を掛け合わせた全く新しい生物を作ってみよう」
目を覆いたくなるような暗黒の歴史が生まれてしまった。その「生体兵器」の失敗作として生まれたのが「亜人種」である。失敗作の行き着く先は決まっていた。利用価値が無くなるまで使役されるか、廃棄物として処分 されるかだ。
この実験が公になると民間の批判が激しくなり実験は全て中止とされた。が、その頃には何百、何千の亜人種が生まれていた。政府は亜人種の扱いに困り、全てを処分するつもりだったが、ほぼ自分らと姿形の変わらぬ亜人種を見て、極度の罪悪感に苛まれた。しかも言語を話す亜人種までいる。政府は恐怖を感じ、亜人種を全て保護し、数年後には亜人種保護法を設立した。しかし、保護法が制定された後も、人間は異形な生物である亜人種を認めようとせず、酷い差別化が行われていた。そして数十年の月日が流れて、世の中が落ち着きを取り戻した頃。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ほら、もう泣くのはおしまい」
「ぐしゅ……すびばせん……」
まだ赤い鼻をぐしゅぐしゅと擦る葉月。一通り泣くと落ち着きを取り戻したようだ。
「大変、お恥ずかしい所を……お見せして、申し訳ありません、でした……」
「気にしなくていいよ」
「……はい」
項垂れる葉月、落ち込んでいないわけがない。
「それでは、屋敷まで、ご案内させていただきます……」
「うん、お願いするよ」
葉月の案内で、暁彦は田舎道を歩き始めた。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
終始無言のまま歩き続ける暁彦と葉月。その沈黙に耐えかねる者がひとり。
「(うぉおお……何だこの沈黙は……めちゃめちゃ空気重たいぃぃ……)」
「(いきなり泣き出して、絶対変な娘だって思われてる。お話したいけど、私みたいな亜人じゃ嫌がられちゃうよね)」
各々に思いを馳せながら沈黙は続き、二人は道を歩く。
「(でも、一体何を話せばいいんだ。下手な事を言ったら傷付けちゃうかも……)」
慎重になればなるほど考えがまとまらず、時間だけが過ぎていく。取り敢えず相手の様子を伺おうと視線を送ったその時。
「っっ!?」
「ッッ!」
暁彦と葉月の視線が重なった。直ぐに二人は視線を反らした。
「(俺の馬鹿!なんで目を反らすんだよ!?余計空気が重くなったじゃないか!!)」
「…………あのっ」
「!」
暁彦が自己嫌悪に陥っていると、あろうことか沈黙を破ったのは葉月の方だった。
「“軽蔑”……しないんですか?」
「えっ……?」
葉月の質問は暁彦の予想だにしないものだった。
「なんで?」
「『なんで』って……私“亜人種”なんですよ?恐くないんですか……気持ち悪くないんですか……?」
葉月の言葉は震えていた。きっと勇気を出して一生懸命捻り出した言葉なのだろう。暁彦は出来るだけ優しく宥めるように話し始めた。
「葉月さんは自分のことそう思ってるの?」
「……私達がそう思われているのは、事実ですから……」
消え入りそうな声だった。
暁彦が実際に亜人種を見たのは葉月が初めてだった。今まで亜人種の存在はテレビや新聞で知っている程度で、自分には関係ない話だと割り切って聞き流してた。だが、こうして葉月と向かい合うとそうも言ってられない。現に、亜人種の扱いは、亜人種保護法が制定されて数年経っても、差別が無くならないという。
彼女がどう答えて欲しいのか、暁彦にはわかっていた。彼女は自分に自信を持つことが出来ないだけなのだ。暁彦は口を開く。
「ならさっ、そんな奴らには勝手にそう思わせとけばいいじゃん。何も知らないくせに、人から聞いたことをただ鵜呑みにして、信じきっているような奴はろくでなしだよ」
「……」
葉月は驚いたように目を見開いた。
「だって、俺初めて葉月さんに会ったけど、全然そんな風に思わないもん。過去に辛いことがあったかもしれないけど、“今”を大切にしようよ。ねっ、葉月さん!」
にぱっと笑った暁彦。彼の笑顔を見て、葉月は小刻み震え始めた。またもや、彼女の目に大粒の涙が溜まり始め。
「……っ……っ」
「すとーっぷ!言ったでしょ?泣くのはおしまいってさ」
「はい……はいっ……」
涙をボロボロ溢しながら、目を擦る葉月。ただいつもと違っていたのは、彼女の表情が笑顔だったこと、嬉し涙だったのだ。
「(会って間もないのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろ?人に優しくされるのがこんなに温かいものだったなんて……外にもこんな人がいるんだ)」
暁彦の優しさに包まれながら、葉月は心が軽くなるのを感じた。
それからというもの、葉月は持ち前の明るさで、今朝の朝食から趣味のぬいぐるみ集めまで幅広く話してくれた。暁彦もそれが嬉しくて、さっきまでの沈黙が嘘のように会話が途切れることはなかった。
「そういや、叔父さん元気にしてる?」
「はい、変わらずお元気ですよ」
「そっか。叔父さんと会うのは久しぶりだから、嬉しくてね」
「あっ、孝章様なんですけど……」
葉月の表情が曇った。
「ええっ!!叔父さんいないの!?」
「申し訳ありません、てっきりご存知だと思ってました」
「どうりで、叔父さんじゃなくて葉月さんが迎えに来たわけだ」
「安心してください。直ぐに戻って来られると思いますので」
残念そうな暁彦、叔父との再開を心待ちにしていたに違いない。葉月も苦笑いするしかなかった。
「暁彦様っ、屋敷が見えてきましたよ」
緩やかな坂を駆け上っていく葉月。暁彦も葉月の後を追って坂を登る。そこには雄大な景色が広がっていた。鬱蒼と茂る森の中に大きく構える屋敷、その大きさは野球ドームをすっぽりと収めてしまうほど。
「あれ、おかしいな?こんなに大きかったっけ?」
叔父の屋敷に来たのは幼少の頃以来だったが、その頃に比べ屋敷明らかに大きくなっていた。
「何年か前に改築したんです、中を見たらもっと驚きますよ」
「これ以上驚くなんて想像つかないよ」
この屋敷を建てたのは孝章叔父さんだ。叔父さんは昔、クローン技術の偉大な研医だったらしい。研医を引退してからは叔父さんとその奥さんである美依叔母さんとで屋敷に暮らしていた。でも、美依叔母さんは十年前に亡くなった。元々体の弱い人で、俺も何度かしか会ったことはなかったけれど、すごく優しい人だったのを覚えている。それから叔父さんは再婚することなく、屋敷でお手伝いさんを雇って生活していたというわけだ。
暁彦と葉月は屋敷の門に辿り着いた。ブロンズ製の強固な外柵が屋敷を囲む。ふと看板に書かれている文字に気が付いた。
【Happy of establishment】
「は、はっぴー、おぶ……えすてぃ?」
「ああ、それですか?ハッピーオブエスタブリッシュメント(以後HOE)『幸せの施設』って意味なんですよ?」
「へぇ、葉月さん物知りなんだね。(でも、なんで“施設”なんだろ?)」
「そうですかっそうですかっ♪」
《もふもふっ》
「(また帽子、もこもこさせてるし……)」
誉められて嬉しいのか照れ笑いを浮かべる葉月。帽子の中でまた獣耳を動かしていた。どうやら彼女の獣耳は感情に合わせて動くようだ。
「えへへ、といっても私も茉奈さんに教えてもらったんですけどね」
「『まな』さん?」
「とっても優しくて綺麗な人です、すぐに会えますよ」
そう言うと葉月は門の呼び鈴を押した。すぐに門のスピーカーから女の人の声が聴こえてきた。
《はい、どちら様でしょうか?》
「茉奈さん、葉月です。暁彦様をお連れしました」
《お帰りなさい、葉月ちゃん。わかったわ、今扉を開けるわね。迎えも出すからそこで待っていて》
どうやら、今スピーカー越しに葉月が話していた相手が「茉奈」という女性らしい。スピーカーが切れると、強固なブロンズ製の外柵は左右に開かれた。
「玄関って……あそこ?」
目を細めると、辛うじて屋敷の扉らしき物が見える。門から屋敷の扉までが非常に長い。
「はい。でも、大丈夫ですよ。今お車がお迎えに参りますから」
葉月の言った通り、程なくして黒い車がやって来た。自動車は暁彦と葉月の前に停止した。運転席から一人の男性が現れる。
「君が、暁彦君か?大きくなったなぁ、見違えたよ」
「えっと……」
車の男性は暁彦の事を知っているらしい。暁彦は記憶の引き出しを開け閉めして思い出そうとする。やがてひとつの記憶を引き当てた。
「もしかして……トシ叔父さんっ!?」
「ああ、元気そうだね、暁彦君」
二人は肩を抱き、再開を喜び合った。
「んと、二人はお知り合い?」
【田口俊樹】
愛称「トシ」さん。昔からここで専属運転手として働いていた。優しく温厚な男性。
「トシ叔父さん、ずっとここで働いてたんだね」
「中々居心地が良くてね。『カジ』や『ハル』も変わらずここで働いているよ」
「本当ですかっ!?うわぁ、懐かしいなぁ!」
「あの泣き虫小僧だった『暁坊』が、こんな立派に成長した姿を見たら、二人とも驚くぞ〜」
俊樹は子供の頃の暁彦と重ね合わせているようだった。
「暁彦様、トシさんだけでなく、カジさんやハルさんまで、お知り合いだったんですね?」
「叔父さん叔母さん達には、子供の頃によく面倒見てもらってたんだ」
「さて、立ち話もなんだ。乗って乗って」
俊樹なりに気を使ってくれたのだろう。「積もる話は寛げる場所で」と、乗車するよう促した。
「屋敷までお送りしますよ、“暁坊っちゃん”」
「や、やめてくださいよぉ」
「あははっ」
三人が乗った車は屋敷に向けて発進した。
屋敷の入口で俊樹と別れると、葉月に扉の前まで案内される。門も巨大ならば扉も巨大だ、ざっと暁彦の身長の三倍はあるだろう。葉月は扉に歩み寄ると、何度かノックをする。両開きの扉は内側に開かれた。
「さぁ、どうぞ、暁彦様」
「あ、うん」
屋敷に入って度肝を抜かれた。凄すぎる、「開いた口が塞がらない」とはこう言うことを言うのだろうか。
まず、その広さだ。そこには室内と思えぬ空間が広がっていた。次に、室内に施される美しい建築様式、豪華なシャンデリア。飾られる絵画や美術品の数々、床に敷かれた真っ赤な絨毯。暁彦は「場違いな所に来てしまった」と後悔した。
「(ここ、どこ?おうち、帰りたい……)」
屋敷のあまりの凄さに、暁彦の頭はショート寸前である。そんな暁彦にひとりの女性が歩み寄った。
「遠路遥々、お疲れ様でした。貴方様が霧ヶ崎暁彦様ですね」
「……っ……っ」
ぶつぶつと口元を動かし、明らかに様子のおかしい暁彦。
「あ、暁彦さ……」
「葉月ちゃん、大丈夫よ。私にまかせて」
暁彦の異変に気付いた葉月が暁彦に話しかけようとした時、女性はそれを止めてにっこりと微笑んだ。
「(こんな時はアレだ、素数を言って心を落ち着かせるんだ!1、3、5、7……)」
《スッ》
「ひゃっ!」
いきなり左頬に温もりを感じた暁彦、突然の事だったので間抜けな声を上げた。
「どうかされましたか?御体の具合が優れないのですか?」
目の前には心配そうな女性の顔。左頬の温もりは彼女の右手が暁彦に添えられていたからだった。
アンダーフレームの眼鏡から覗く、宝石のように透き通った灰褐色の瞳。少し垂れた目尻が、彼女の優しげな雰囲気を際立たせる。三つ編みに束ねられた漆黒の長髪も、彼女の淑やかさを表現しているようで、とても似合っていた。
「だっ、大丈夫ですっ!!」
すぐに女性から飛び退いた暁彦。彼女は不思議そうな顔をしていた。が、すぐにまた微笑んでくれた。
「そうですか、それならば良いのですが」
暁彦は跳ね上がった心拍数を落ち着かせるのに必死だった。しかし、そんな暁彦を他所に、話は進んでいく。
「改めまして、お初に御目にかかります、暁彦様。孝章様の下で使用人をさせていただいています、『茉奈』と申します。以後お見知り置きを」
ふわりと丁寧に御辞儀する茉奈。顔を上げた時の笑顔が眩しすぎて、直視することが出来ない。
「よっ、よろしく、お願い、します……」
何とか捻り出した言葉。暁彦にとって、これが精一杯の挨拶だった。
「私達は暁彦様を歓迎致します。ようこそっ!!HOEへっ!!」
茉奈が音頭を取るといつの間に集まっていたのか、使用人と思われる何百人もの老若男女が、暁彦を囲むように拍手してくれた。恥ずかしさのあまり、暁彦は苦笑いを浮かべる事しか出来ない。
「暁彦様ぁーっ!ようこそーっっ!!」
「あらあら、葉月ちゃんたら……」
歓喜余ってはしゃぐ葉月、茉奈はそんな葉月を見て微笑んだ。
「あはは……どもっ……(歓迎されてるのはわかるけど、これじゃ晒し者だよぉ……恥ずかしい)」
皆、心から暁彦を歓迎してくれたようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あぅぁ〜〜……疲れたぁ〜〜……」
程なくして部屋に案内された暁彦。ソファで大の字に寝そべり、慣れない緊張に疲れ果てグッタリしていた。
《コンコンッ》
部屋の扉をノックされる。
「はいっ」
すぐに返事をして、ソファから飛び起きた。扉から聞き慣れた声がする。
「暁彦様、葉月です。シーツやタオルをお持ちしました、お部屋に入っても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「失礼します」
扉が開かれると、葉月が顔を覗かせる。手にはシーツやタオルなどの生活用品を持っていた。暁彦はあることに気付いた。
「服、着替えたんだ」
「はい、ここの作業服なんですよ」
エナメルのブーツに、膝下まであるスカート。上着はアンダーシャツの上にブレザーを羽織るような形のデザインだった。頭には何も付けておらず、時おり彼女の獣耳が顔を覗かせていた。少し地味な気がするが、余計な物はなく動きやすさを追求した作業服と言える。
「へぇ、似合ってるよ」
「本当ですかっ♪」
葉月は嬉しかったのか、その場でくるっと回転した。スカートからはみ出た尻尾には鈴がついているらしく、ちりんと可愛い音が鳴った。
「(尻尾まで生えてるんだ……)」
「あっ!?すみませんっ!その、私ったら……」
暁彦の視線に気付いたのか、すぐに葉月は獣耳と尻尾を手で隠した。罰の悪そうな顔をする。暁彦はそんな葉月に優しく言った。
「大丈夫だよ、葉月さん。俺の前ではそんな事気にしなくていいから。むしろ、もっと見せて欲しいかな……」
「えっ!?」
驚いたように目を真ん丸に開いた葉月。自分の言動がおかしかった事に、暁彦は言い終えた後に気付いた。
「えっ!?あっ!!いやっ、その……ごめん、今のナシ……忘れてっ!」
「いい……ですよ?」
「ええっ!!?」
葉月からの返事は意外なものだった。恥ずかしそうにもじもじしている。
「暁彦様が、見たいというなら……いくらでも」
「えっと……じゃあ、ちょっとだけ……」
暁彦は情けない事に好奇心に逆らえず、葉月の言葉に甘える事にした。葉月に歩み寄った。
《ぱたっ、ぱたたっ》
葉月は獣耳を小刻みに動かす。そわそわして、落ち着かないようだ。
「(近くで見ると、猫みたいな耳なんだな)」
「(何だか、恥ずかしいな……)」
「触っても、いい?」
「はい……」
暁彦は葉月の獣耳に向かって手を伸ばす。暁彦の指先が獣耳へと触れる。
《ふにゅっ》
「んっ……」
指先が触れた瞬間、葉月の体がピクッと跳ねた。暁彦は慌てて手を引っ込める。
「ごっごめん……痛かった?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、くすぐったかっただけ……」
敏感なのか、先端に触れただけで反応してしまうようだ。暁彦は再度手を伸ばした。
「(次は優しく、そっとそっと……)」
《ふにゅ、ふにふにゅ……》
「はっ……あっ、んんっ……」
「(あったかい……)」
暁彦は葉月の頭を優しく撫でる。
「ん、んぅ……」
葉月の顔はほのかに紅潮する、暁彦に頭を預けていた。
《スッ》
「あっ……」
「ありがとう、葉月さん」
暁彦は葉月の頭から手を引っ込めた。心なしか残念そうな顔の葉月。
「……あの、もう……終わり、ですか?」
「んっ、何か言った?」
小さな声でぽそぽそ話す葉月、暁彦には聞こえなかったようだ。
「あっ!いえっ……お役に立てたのなら、幸いです……」
「うん、ありがとう」
「(もっと、撫でて欲しかったな……)」
暁彦の手の温もりの心地好さを知った葉月。暁彦をしばらく見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夕食は暁彦の歓迎会も含め、盛大に行われた。ちなみに歓迎会の行われた食堂もやっぱり広かった。テーブルに乗りきれない程の様々な料理が所狭しと並べられる。どれもこれも美味しそうだ。
「うわぁ〜♪今日はまた、一段と豪勢ですねっ!」
「ふふっ、カジさんもハルさんも『倅が来るんだ』って、相当張り切っていましたから」
「『倅』か……」
トシ叔父さんもカジ叔父さんもハル叔母さんも、俺の事を本当の息子のように可愛がってくれた。茉奈の言葉を聞いた時、擽ったさを覚えると同時に愛情を感じる事が出来た。
「さぁ、召し上がって下さいませ、暁彦様」
「どれがいいですか?お取りしますよっ」
「凄く旨そうっ!!いただきますっ!!」
多種多様な料理、そのどれもが暁彦を悶絶させるほどの味だった。しかし、暁彦が料理に夢中になっているその時。
「暁坊ぉぉおおっ!!」
「ふぐッッ!!?」
後ろから伸びてきた筋肉質の腕に、ガッチリとネックホールドされた暁彦。食べ物及び空気の通行を強制遮断される。
「こんなに立派になりやがってぇ!全然顔見せやがらねぇから心配したんだぞっ!!」
「ッッ!!ッッ!!?」
青い顔で必死にタップする暁彦。そんな彼に救いの手が差し出される。
「カジ、そんくらいにしときな。暁彦が白目ひんむいてるよ」
「おぉおっ!?誰だっ!!暁坊にこんな事しやがった奴ぁ!!」
「おめぇだよ」
やっとのことで、ネックホールドから解放された暁彦。肺への空気の通行、胃への食べ物の通行を許可された。
「げほっ……カジ叔父さんっ!ハル叔母さんっ!」
【梶原茂雄】
愛称「カジ」さん。屋敷の料理副長で厨房を一任されている。料理の腕前は折り紙付、江戸っ子染みた男性。
【江口春実】
愛称「ハル」さん。全ての厨房を管理する総料理長。男勝りな性格だが、根は誰よりも慈愛に満ちている。
ちなみに、孝章、俊樹、茂雄、春美の四人は幼なじみの同級生で、とても仲が良かったりする。
「大きくなったね、暁彦」
「ハル叔母さんもカジ叔父さんも元気そうで何よりです」
微笑む春実、暁彦の成長を心から喜んでくれているようだ。
「かーっ!嬉しいねぇ!あの鼻垂れ坊主だった暁坊が、こんな立派に成長しやがって……よっしゃ!!今日は宴会だっ!暁坊、飲むぞ、付き合えっ!!」
「うぇっ!?」
暁彦の肩に腕を回す茂雄。少し強引かもしれないが、それは茂雄なりの愛情表現なのだ。
「おぅっ!嬢ちゃん達っ、暁坊借りるぜ」
「あ、はい……(もっとお話したかったのに……)」
「カジさん、くれぐれも飲み過ぎには注意してくださいね」
「わーってら!ハルっ!おめぇも飲むだろ?」
「そうさね、今日ぐらいは付き合ってやるよ」
「うっし!あとはトシの野郎だなっ!」
嬉しそうにする茂雄、昔からこの人は酒好きだった気がする。
「孝章も今日ぐらいはどうにかならなかったのかね……暁彦が来るって言うのにさ」
「彼奴は彼奴なりの考えがあるんだろうさ、昔からそういう奴だったろ?」
「帰って来たら“駆け付け一升”だ」
「がはははっ!!そりゃあいいわっ!!」
「(孝章叔父さん、二人が恐ろしい事言ってます……そして俺も生け贄に……)」
そんな事を思いながら、暁彦は茂雄に引き摺られて行く。葉月と茉奈はその光景を苦笑いを浮かべていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おぇっ……き、気持ち悪……」
何とか茂雄達から脱け出す事が出来た暁彦。茂雄達の宴は未だ続いているに違いない。案の定、体内に許容範囲以上のアルコールを摂取した……いや、させられた暁彦。肉体の全ての機能は、摂取したアルコールを分解するためフル稼働中であった。意識を保つのが精一杯の状態である。
「う、みず……」
今、暁彦は水を飲むため、洗面所を目指していた。しかし、暁彦は今日ここへ来たばかりで、さらにこの屋敷は物凄く広い。その上、暁彦は泥酔しきっていた。洗面所にたどり着けるわけもなくその場に力尽きて倒れてしまった。
「ぅ……すぅ……すぅ……」
すぐに睡魔に襲われ、寝息を発て始めた。そこへひとつの人影が通りかかる。
「……あらあら」
床に寝そべる暁彦を 見つけ、にっこりと微笑んだ。
「んっ……」
額に何か冷たい感触を感じて意識を取り戻す。
「(冷たくて、気持ちいい……)」
それが濡れタオルだと気付くのに時間はかからなかった。誰かが乗せてくれたのだろう。
「(うっ……あ、頭痛ぇ……)」
まだまだアルコールは分解はされておらず、二日酔いの症状が現れていた。
「お目覚めですか?」
ふと、聞こえた声。うっすらと目を開けると、そこには見知った顔があった。
「良かった。気が付かれましたね、具合はどうですか?」
「あれ……茉奈、さん」
暁彦と視線が合うと彼女は微笑んでくれた。
「暁彦様は廊下で倒れていたんですよ。御部屋に御運びしようと思ったのですが、暁彦様の御部屋は遠くでしたので、私の部屋へ運ばせて頂きました」
「そっか、俺叔父さん達と飲んでて……」
廊下で倒れていた暁彦を、偶然通りかかった茉奈が介抱してくれたらしい。
「すみません、茉奈さん……ご迷惑、お掛けしました……」
「ふふ、お気になさらないでください。具合が良くなるまで、ここで休んでいくといいですよ」
月明かりに照らし出された茉奈の顔は、下ろした長髪や眼鏡をしていないせいもあって、昼間会った時よりも大人びて見えた。彼女の髪は湿っており、柑橘系の甘い匂いがする。風呂上がりだったのだろう、寝間着姿だった。
「(茉奈さんは、いつもニコニコ微笑んでて、近くにいると癒されるな……ん?)」
何かに気付いた暁彦。先ほどから後頭部に温かくて柔らかな感触を感じるのだ。そして暁彦の真上にある茉奈の顔、やけに近くに感じる。
「わっ!!」
慌てて飛び起きた暁彦。それもその筈、暁彦は茉奈に膝枕されていたのだから。
「いけませんっ、そんなに慌てて起きては御身体に障ります。もう少しこのまま横になって……」
「いやっ!あのっ!でもっ!」
「いいですから」
必死に抵抗するも茉奈の押しに負け、元の位置へと戻った暁彦。今日会った女性に膝枕され、恥ずかしくて堪らない。もはや、酒で紅潮しているのか、羞恥で紅潮しているのかわからなかった。
「すみません……本当に……」
「いいんですよ」
「あっ……」
暁彦の頭に手を触れて、優しく撫でる茉奈。心地好い感覚に包まれる。
「暁彦様は、不思議な方ですね」
「えっ、そうかな?」
「ええ」
茉奈は肯定して続ける。
「葉月ちゃんがあんなに嬉しそうにしているの、久しぶりに見ました」
「葉月さん?」
何故、葉月の名前が出てきたのだろうか。暁彦には思い当たる節がなかった。
「葉月ちゃんは普段、明るくて頑張り屋さんなのですけれど……時々、無意識に“壁”を作ってしまうんです」
暁彦は茉奈の言葉の意味が、何となくわかった気がする。確かに、葉月は自分が亜人種だと暁彦に気付かれた時に酷く怯えていた。
「特に“人間の方”相手だと異常なまでに臆病になってしまって……」
「うん……」
「亜人種」は「人間」に差別され、迫害され、虐待され続けていた。考えられないような酷い仕打ちを受け、命を落とした者も少なくない。亜人種保護法という法律もほぼ無意味であった。
人でも動物でもないモノ。それが「亜人種」。人間の都合で勝手に“生み出され”、用済みになれば勝手に“廃棄”する。人間のエゴイズム以外の何物でもない。「知らなかった」「気付かなかった」「関係ない」では済まされないのだ。
「そんな葉月ちゃんがあんなに嬉しそうにしているんですもの、私も嬉しくなってしまって」
自分の事のように喜ぶ茉奈。暁彦では気が付かない些細な変化も、長年付き合っている茉奈だから気付く事が出来る。そんな二人の強い絆を感じる事ができた。
しかし、暁彦は茉奈の物言いに“違和感”を感じていた。
「葉月ちゃんに笑顔が戻ったのは、暁彦様のお陰です」
「いや、俺は何もしてないしさ……」
「暁彦様は“私達”としっかり向き合ってくれるのですね」
「『私達』って、それってどういう……」
“違和感”は確かなものとなった。何も言わず漆黒の長髪を掻き上げる茉奈。
「なっ!!?」
「……申し訳ありません。隠すつもりは毛頭なかったんです」
暁彦は心底驚く。茉奈の長髪から現れたものは、白と黒の毛で斑模様に覆われた細長い獣耳だった。今まで感じていた“違和感”とは、茉奈は「人間」でなく「亜人種」の視点で話していた事だったのだ。
「(そうか……だから茉奈さんは、あんな言い回しをして……)」
茉奈に先程前の笑顔はもうない。ただ悲しそうに目を伏せ、俯くだけだ。
「ここへ来るまでに会ってきた人間の方々は、私達亜人種の事を全く認めようとはしてくれませんでした。しかし、孝章様とこのHOEの人々だけは違いました。私達を認めて、温かく迎え入れてくれたんです」
「(葉月さんも……)」
《……優し、く……された事……ない、から》
葉月の言葉を思い出す。
「茉奈さん、困っている人がいたらどうする?」
「えっ?……あの」
「いいから答えて」
暁彦があまりに突拍子もない事を言うものだから茉奈は戸惑う。それでも渋々と答えてくれた。
「『困っている方』ですよね?私が手助け出来る事であれば助けようと思います」
「だよね?それと同じだと思うんだ」
「『同じ』……ですか?」
茉奈は不思議そうな顔をする。
「茉奈さんは困っている人が、金持ちだとか貧乏だとか気にする?」
「いいえ」
「でしょ?“理由”なんか要らないんだ。茉奈さんがいて、葉月さんがいて、俺がいる。たったそれだけの事なんだ。人間だとか亜人種だとか、そんなの関係ない!……孝章叔父さん達もきっとそう思ってるよ」
「暁彦様……」
そう言って無邪気に笑った暁彦。茉奈は目を見開いて驚いた。
「……本当に、貴方様は……不思議な、方なんですね……」
すぐにいつもの微笑みを浮かべてくれた彼女。ただいつもと違っていたのは、その目から光る滴を流していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「暁彦様、ここが何故『HOE』と呼ばれているか御存知ですか?」
「えっと、確か『幸せの施設』だったよね?」
「そうです。ここには私や葉月ちゃんの他に、数十人の亜人種達が生活しています。孝章様は私達のような亜人種達を、世界を回りながら保護する活動をなさっているんです。そして保護された亜人種達はここで生活しているという訳です」
「なるほど、だから『幸せの施設』なんだね」
疑問がひとつ解決した。この「HOE」とは亜人種を保護する施設だったのだ。
「それだけじゃありません。この屋敷を名付けてくれたのが孝章様の奥様である美依様なんです」
「美依叔母さんが……?」
【霧ヶ崎美依】
孝章の妻。生まれつき身体が弱かったが、そんなことを感じさせぬほど優しく包容力のある女性。十年前に他界している。
「孝章様と美依様には感謝してもしきれない程です」
「そうだったんだ。俺もここで働くからには、皆の力になりたいな」
「えっ?観光に来られたのではなかったんですか?」
「……うん、俺もここに来てからそういう素振りを全くみせていなかったけど、実は働きに来たんです……」
現実に戻り落ち込む暁彦。彼は無職なのである。ぶっちゃけ、仕事に来た事を忘れそうになっていたのである。
「ふふっ、冗談ですよ。暁彦様にはしっかり働いて頂きますっ」
「お手柔らかにお願いします」
「(貴方様にも感謝しています。今日お話して力になって頂けましたから)」
苦笑いする暁彦に、茉奈はいつものように微笑んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ん……」
眩しさを感じて、目元を手で覆う。どうやらカーテンから漏れる陽射しを浴びていたようだ。
「(もう、朝……?うっ……あー、頭痛い……酒抜けてないな)」
横に寝返りをうって二度寝しようとする暁彦。すると顔に何か当たった。
《ぷにっ》
「んむっ……(何だ?)」
顔に当たる、暖かくて柔らかな感触。暁彦はその物体を指先で触れてみた。
《ぷにぷにっ》
「んっ……」
「(柔らかい……何なんだ、これ……?)」
次は手のひら全体で触れてみる。手では覆いきれぬほど、大きく温かで柔らかな物体。
《むにっ、もにもにっ》
「はっ……あっ……」
「(あれ、何か聞こえたような?)」
「あ、暁彦……さま……」
「へっ?」
名前を呼ばれて寝ぼけ眼を開けた暁彦。視界に映ったものを見て凍りついた。
「い、いけませんよ……?昨日、お会いしたばかり、で……まだ、心の準備が……」
茉奈の寝間着の上衣をずらし、黒い下着の上から豊かな胸を鷲掴みする暁彦の手。戸惑う表情の茉奈は顔を紅潮させ、心なしか息を荒げていた。
―ピシッ!
暁彦は石化したように硬直、思考も停止してしまった。
《タタタタタタッッ》
足音が聞こえてきたかと思うと、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「大変ですっ!茉奈さんっ!!暁彦様がどこにもいな…………あれ、暁彦様?」
「は、葉月ちゃん……」
「……」
慌てて茉奈の部屋に入ってきた葉月。暁彦がいない事を茉奈に伝えようと思ったが、その暁彦が茉奈の部屋にいることに気付いた。暁彦の首はゼンマイがきれた玩具のように、金切音を発ててこちらを向いた。
葉月の視点からこう見えただろう。茉奈を押し倒し、不埒な行為に及ぼうとする獣の姿が。
「いやぁぁぁあああッッ!!」
葉月は屋敷中に響き渡るような悲鳴を上げる。そして何処から取り出したのか、フライパンを両手で構え、強烈なフルスイングを暁彦の顔面に叩き込んだ。
《パッカァァアアンッッ!!!》
「ぶべらっっ!!」
葉月のフライパンフルスイングは暁彦の顔面を直撃、暁彦は部屋の窓を突き破り空彼方の星へとなった。
「はぁっ……はぁっ……」
「あらあら……葉月ちゃんたら、朝からお元気さんね」
その光景を微笑ましく見守る茉奈であった。
「す、すみません……勘違いしてしまって……」
何度も申し訳なさそうに頭を下げる葉月。何とか空彼方から屋敷に帰って来られた暁彦。説得をして誤解を解くことに成功していた。
「らいひょうふ、らいひょうふ……ほっひもわふはっはんはひ(大丈夫、大丈夫……こっちも悪かったんだし)」
顔面を陥没させたまま喋る暁彦、見た目的に大丈夫ではない。葉月のフライパンフルスイングの威力が伺える。
「暁彦様っ」
「茉奈さん」
「孝章様の机にこんなものが……」
茉奈の手には封筒らしきものが握られていた。封筒を受け取る暁彦。表裏を確認すると、孝章から暁彦への手紙らしい。
「手紙ですか?」
「そうみたいだ」
暁彦は封筒から手紙を取り出して読んでみる事にした。
《暁彦へ
屋敷でお前を迎えてやりたがったがすまない、仕事で叶わなくなってしまった。
お前を呼んだのは他でもない。ここで彼女達と共に生活をし、彼女達の傷付いた心を癒してやって欲しい。それはお前にしか出来ない事だ。難しく考える必要はない、暁彦が思った通りやればいいんだ。
それと、暫く私は屋敷を留守にする。その間、私の代わりとして所長代理を頼む。心配するな、トシやカジ、ハルだっている。わからないことがあれば、葉月や茉奈、椿に聞くといい。
唐突に頼んでばかりで申し訳ないな、だが暁彦以外頼めない事なんだ。よろしく頼む。
孝章より》
筆跡は間違いなく孝章のものだった。暁彦は直ぐに手紙を握り潰した。
「(孝章叔父さん、無茶振りしすぎです。絶対無理なので帰らせて頂きます)」
「何て書いてあったんですか?」
「うん、大した事じゃないよ」
隣からひょっこり顔を出した葉月、暁彦は感付かれぬよう平静を装った。
「失礼します」
《ピッ》
「ちょっ、茉奈さん!?」
しかし直ぐに化けの皮が剥がされてしまった。茉奈に手紙を奪われる。茉奈は素早く手紙に目を通し始めた。
「……なるほど、確かに孝章様の筆跡で間違いないですね」
「い、いくらなんでも、いきなり所長代理なんて……叔父さんも冗談きついんだからぁ、ははは……」
ひきつった笑みを浮かべる暁彦。さすがに、昨日今日来た奴がこんな大きな屋敷の所長になるはずがないと強がって見せた。
「孝章様が仰った事ですもの、今日から宜しくお願い致しますね」
「ええぇーーッッ!!?」
手紙に書いてあった内容があっさりと受け入れられ、暁彦は驚愕した。
「どうしたんですか?」
「孝章様が留守の間、暁彦様が所長代理になって頂けるそうよ」
「そうなんですかっ。では、改めましてよろしくお願いしますね、暁彦様っ」
「ちょっと待ってよ!?いきなり所長なんて、絶対無理だからっっ!!」
茉奈だけでなく葉月にまであっさりと受け入れられた暁彦。必死の抵抗も空しく、主導権は彼女達が握る。
「安心してくださいませ、暁彦様。私達がしっかりとサポートさせて頂きますから」
「わからない事があれば、遠慮なく何でも聞いて下さいね」
「いやっ、あの……」
「「ねっ、御主人様っ♪」」
葉月と茉奈の二人は小悪魔のような笑みを浮かべ、暁彦を困らせるのだった。