相席
やぁやぁ、君、何をそんなに惚けた顔をしているのかね。
なに? なぜ僕がここに座っているのかって? 逆に尋ねるが、なぜだと思う? 周りに席が空いていて、しかも君と僕は知り合いでもない赤の他人なのに。はは、そんなに不審そうな目で見ることはないだろ。答えは簡単。僕が人と話したかったからさ。
でも、他はファミリーや恋人ばかり。一対一の会話を望んだ場合、僕はどうしたって、一人で座っている君の前に座るしかないわけだ。屁理屈? 自己満足? 何とでも言いたまえよ。だって僕と話せる君は幸運なのだし、僕は人と話せて満足なのだから、これぞウィンウィンというやつさ。
面倒なことになったと思いながらも僕を邪険にできないでいる君、見た目から考えて、僕より少しだけ年下かな。学生だろ? 書いているのは論文? ちゃんと進んでいるようで感心だ。
大変だよなぁ、学生も。僕は講義が大嫌いだったよ。権威のある教授なのは分かっているが、どうにも相性が悪くてね。聞けばその教授も、学生時代は教授のことが大嫌いだったと言うし、因果はめぐるってやつかな。感慨深い。
で、君は大学で何を? …ほほう、やるね。ふむふむ、君のような者が大学に通い、そして学ぶとは、ついに我らが祖国も革新に向けて邁進してきたかな。とはいえ、世の中の人間はまだまだ固定観念に囚われたまま西洋文化を毛嫌いしているのだから、僕らとしては頭が痛いが。
…何? 僕は何をしているのか? はは、そんなことは些事だ。強いていえば、君のような優秀な学生ならば、聞けば握手を求めるぐらいの人間だな。
握手、するかな?
する? 素直で可愛らしいことだ。僕の正体が分からないうちに握手をしたって、大して意味はないのにね。
ふふ、そう睨むな。はいはい、握手握手。
や、君、よく手を綺麗にしているね。感心だ。この前の奴は手がインクで真っ黒だったから、ちょっと嫌だったんだよな。
…そう。僕はおしゃべりが好きだから、相手が知らない人間でも話しかけるんだ。これな、案外有意義な話が聞けたり、有益な情報が転がってきたりするものなのだよ。しかも互いに名前を知らないから、相手に嫌われようが相手を嫌おうが関係がない。これほど心軽やかな会話はないだろ。
仕事のときの商談ときたら、いつも逼迫し過ぎていて、誰も彼もイライラして相手を出し抜こうとしているんだから、地獄みたいな空気というのは言い得て妙だと思うね。君もあの場に居合わせたら顔を青くして、助けを得るために僕の様子を窺っただろうよ。それくらい酷い。
君も経験がないかね? 講義のときに教授が隣のやつに意地の悪い質問を当てて、でも、隣のやつは答えが分からないからいつまでも答えられなくて沈黙が絶えないあの感じ。
あの空気にそっくりだ。当てられた学生はもれなく教授のことを嫌いになるし、そんな無意味な時間をただ待っているだけの他の学生たちも教授のことを嫌いになる。ついでに、いつまでも答えないその学生のことを教授は嫌い、嫌がらせで問いをぶつける。
あのときの教授の顔と言ったら、ここで再現するのが難しいほどの…、そう、あれは選民と苛立ちが混じったしたり顔というやつだ。思い出すと隣で知らん顔をしていた僕でさえ嫌な動悸がしてくるね。
あーいやだいやだ。
返答を求めるのは議論の初動だが、相手が答えられないのを分かっていて尚も返答を求めるのは一方的な糾弾だ。失敗は忌避すべきことではないけれど、それを誰かに晒されたときの精神的負担は、失敗によって得られる成長とは切り離して考えるべきだな。隣の席で青い顔をしていた彼、退学したんだよ。何がが違えば彼が国を動かす要人となっていたかもね。過ぎたことだが。
ところで、君は紅茶を好むのかな。
へぇ、僕も、コオヒイより紅茶派なんだ。同じだね。
もちろん緑茶や抹茶なんてのも久しぶりに飲んでみると実家の自室のような安心感があるけれど、普段は専ら紅茶ばかり飲んでしまう。
こう…華やかな香りが大変によろしい。その香りを嗅ぐだけで、疲れがいくらか朗らかに流れ去っていく心地がする。
世の中意外とコオヒイが好きって人は多いから、食後なんて僕だけ紅茶を頼むハメになるんだよな。おまけにコオヒイが飲めないだなんて子共舌だなどと言われる始末なのだからタチが悪いよ。
え? 何? へぇ、君もコオヒイが苦手なんだ。
うんうん、わかるよ。あの口の中にいつまでも居座っている感じがね。コオヒイを飲んだあとに別の飲み物を飲みたくなる、僕はね。
しかし、だったら何も無理をしてコオヒイを飲むことはないのさ。たとえ先生にコオヒイは西洋における一般的な云々の小言を言われようが、堂々と紅茶を飲めばいい。そもそも紅茶だって西洋の飲み物だしね。
それに、苦いものが苦手だからといって恥じることもない。人の味覚は人それぞれ。子供がケェキを好まないからといって、その子供が酢の物を食べられるとは限らないのさ。年齢とともに食べられるものが増えるのはまさにそうだが、食べられなくなるものもある。つまりはやはり、個人差、というものなんだね。僕は案外この言葉が好きだよ、便利で。
…まぁ、全ての物事を個人差で片付けてしまってはつまらないが。
そういえば、いたな。何でもかんでも人それぞれだのと言って自分の主張に何も責任を持たない奴が。彼が酒に酔ったときなんて散々だった。人それぞれだからそんなものだろうなどと揶揄をして優越感に浸るのはいかがなものかと思うよ。
それはそれとして、僕は酒に飲まれる奴はお子さまだと思うがね。そ、揶揄だよ、揶揄。僕は皮肉屋なのさ。
はてさて、お客さんが増えてきたな。ふふ、今僕らは、最初から二人で入店して来たかのように仲良さげに見えるだろうね。
うん? 君と話していて楽しいか? 楽しいよ。
君は口数が少ないが話し下手じゃない。欲しいところで的確な相槌や反応、質問をくれる。それに、君は表情もさほど変わらないけれど、その分その視線は雄弁に君の心情を僕に伝えてくれる。実際のところ、君がほとんど言葉を発していなかったとしても、僕は君との会話を存分に満喫しているとも。
今までには、あまりいなかったタイプだ。中には僕と同じくらい喋る人もいたし、逆に全く喋らない人もいた。
会話に対する向き合い方一つで相手がどんな人間なのかそれなりに分かるものだけど、そこに言葉数は大して関係ないってわけ。人見知りすぎて黙っているにしても、早くどこかに行ってほしいからくだらない話を捲し立てているにしても、雰囲気や語気、抑揚なんかで容易にその空気を察することができる。
まあそうだね。分かっているね。たとえ僕がその空気を察しても、僕は自分が満足するまで居座り続けるよ。
楽しいし、面白いからだ。迷惑そうな人も、怒っている人も、楽しそうな人も、それが僕によってもたらされる感情なのだと思えば、相手の反応によって僕自身が傷ついてしまうことはない。むしろ、どうしてそういう感情になるのかを考えながら様子を見るのは、やはり、大変に面白いのさ。
図太いと言いたげな目をしているが、僕はもう随分前から開き直っているよ。
しかし、勘違いしないでほしいのは、いつでもどこでもこんな態度をとっているわけではないということだ。その辺、僕はちゃんとやるよ。でなければ、とっくに集団から排斥されているさ。僕が好き勝手に行動するのは、誰かが休暇中にダンスを習いにいくのと同じくらいありきたりなことってわけ。
君、趣味は? ちなみに僕は幼いときからピアノやヴァイオリンを嗜んでいるよ。
…ふぅん、まぁ、そうか。君の場合はそれらは教養に入るのであって趣味とは言えないわけか。ふぅむ。むしろ学問こそが趣味、と。
立場が違えば物事の捉え方も変わるとは、こういうことだね。僕にとっての仕事が君の趣味。君にとっての教養が、僕の趣味。興味深いね。二人で一緒にやったら、僕らはそれらに対する印象をどう変化させるだろうか。
ねぇ、今度一緒に連弾をやってみるつもりはない? 僕の家に招待してあげるよ。
問題ないさ。君は学生。同じ大学に通っていた僕が君を招くのは、先輩としてなんら不思議なことではない。君が優秀であるならば尚更ね。やあ、楽しみだ。ふふふ。
あ、気がついたね。そう。僕は学問に関する活動に携わっている。
これ以上言うと自慢になってしまうから、詳細については言わないけれどね。君も、推測だけにとどめておいてくれたまえ。安易に答え合わせをすると、途端にそれがちんけなものに見えてしまうこともあるから。嫌だろう? そういうのはさ。
さぁて、君の紅茶も僕の紅茶もなくなったことだし、そろそろ解散といこう。
さほど長くはなかったが、なかなかに楽しい時間を過ごせたとも。なにより、時代の革新を実感した。素晴らしいことだ。
あぁ、ちなみに、君のような学生さんは他にいるのかな?
へぇ! もう一人! それは重畳。君たちの姿を見た者が、来年にはまた倍になって入学するかもわからないね。実に楽しみだ。
さて、そろそろ行くか。
喜びたまえ君。僕の奢りだ。うら若き学生に金をせびるほど貧乏ではないのでね。
ふふ、素直にお礼を言えるのはいいことだ。
あぁ、それと、僕の連絡先を渡しておこう。
惚けた顔をしてどうしたの。
はは、さっき言っただろ? 君と僕で連弾。
想像するだけで胸躍るね。さぞかし優美で洗練された音楽が生まれることだろう。日にちは僕が決めるから、君はその日講義を休んででも僕に付き合ってくれたまえ。なんだったら教授に口利きして公欠にしてやってもいい。
なんてね。
では僕はこれで。実はこのあと打ち合わせがあるんだ。遅れると大目玉を喰らうからのんびりしていられなくてね。
君の論文はあれから全然進まなかっただろうけど、くれぐれも提出期限だけは守るように。
ではね。ごきげんよう。




