第9話:ハラスメントの正義執行(パニッシュメント) 〜愛のムチなんて、ただの打撃(暴力)だぜ〜
「温故知新。……だが、現代社会に蔓延しているのは、過去の遺物を盾にして、未来の芽を摘み取る『経験という名の暴力』だ」
喫茶店『ジャックポット』。カウンターに落ちる午後の陽光は、もはや温もりを失い、残酷な検分のように埃を照らし出している。俺はトレンチコートの襟を立て、鏡の中の自分を冷徹に射貫いた。
今日の俺の瞳は、あらゆる欺瞞を焼き尽くす審判の炎を宿している。シガレットチョコを噛み砕く音さえ、旧時代の壁を破壊する轟音になるはずだった。
だが、コートの裏側で震える「臆病な本能」が、俺の自尊心を容赦なく蝕んでいく。
今日のTシャツは、ふわふわのパステルピンクの生地に、これ以上ないほど甘ったるいフォントでこうプリントされていた。
『優しくしてね(はあと)』
昨夜、ネットで「ゼンの言動って、ちょっと威圧感あって怖くない?」という匿名コメントを見つけてしまい、ショックで寝込んだ俺が、「俺は怖くない、愛されるべき存在なんだ」と全方位に慈悲を乞うために選んだ、究極の防衛宣言だ。この布一枚が、俺の「孤高の狙撃手」という威厳を、単なる「怯えた迷い猫」へと堕落させていく。
「ゼンさーん! またお顔が『捨てられた子犬』みたいにプルプル震えてますよ? ほら、特製の『誰からも愛されるバニラシェイク』です! 飲み口ソフトですよ!」
ミチルが、銀河の慈愛をすべて注ぎ込んだような笑顔でグラスを置く。
「……ミチル、俺に必要なのはソフトさじゃない。この世から『威圧』という概念が消滅し、全人類が俺に優しくなることだ」
「ふふ、ゼンさんは相変わらず、可愛がられ上手な冗談を言いますね!」
彼女の「ホワイトアウト(純粋な善意)」に当てられ、俺のハードボイルドな外装が、砂糖細工のようにミリ単位で崩れ落ちていく。
その時、店の重い扉が、時代錯誤な咆哮を響かせて開いた。
現れたのは、某企業の部長、猪狩。
彼の背後には、社会の闇――「愛のムチ」という名の、錆びついた鉄鎖が立ち上っていた。
「……最近の若者はなっとらん! 我々の頃はもっと厳しかったぞ! 厳しくするのは期待の裏返しだ、感謝しろ! 泣くのは甘えだ、もっと歯を食いしばれ!」
猪狩の言葉は、ひび割れた拡声器のように耳障りで不快だ。
俺の視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へ反転する。
猪狩の胸。そこに、鋼鉄の鎧で固めたつもりで、実はボロボロに腐食した真っ赤な「痛点」が見えた。
それは【自己肯定の強要】【時代への不適合】、そして「自分が受けた苦しみを他人にも味わせなければ、自分の過去が無意味になる」という【負の連鎖の執着】だ。
「 Sweetest Dream... 」
甘く、脳細胞の抵抗を無効化するような毒蜜の声。
ハニーが、猪狩の背後に立ち、そのガチガチに凝り固まった肩を優しく揉み解した。
彼女が指をパチンと鳴らすと、猪狩の周囲に、古き良き(と錯覚させる)「虹色の熱血教室」が出現する。
「いいのよ、猪狩さん。あなたは『情熱的な教育者』。厳しさは愛、怒号はエールだわ。……大丈夫、あなたのやり方は正しい。若者は皆、あなたという大きな壁にぶつかって成長したいと願っているのよ……?」
「……そうだ。僕は、彼らのために鬼になっているんだ……。僕の指導に耐えられない奴が、落ちこぼれなんだ……。僕は永遠に、厳しさという名の愛を与え続けるんだ……!」
ハニーの【脳内補完】が、猪狩の暴君ぶりを「伝統的な熱血指導」という幻想に塗り替えていく。このままでは、彼は周囲の人間が全員壊れるまで、壊れた蓄音機のように同じ暴言を吐き続けるだろう。
「ハニー……あんたの作る綿あめは、中身が空っぽだぜ。……地べたを這いずるような泥臭い『共感』だけが、人を唯一真の導き手にするんだ」
俺は立ち上がり、トレンチコートの前を――真実を白日の下に晒すごとく全開にした。
「なっ……!?」
ハニーの余裕に満ちた口角が、驚愕で痙攣した。
彼女の視線の先。俺の胸元で、**『優しくしてね(はあと)』**という魂の懇願が、猪狩の虚勢を貫く。
「猪狩! お前が振るっているのは愛のムチじゃない! 過去の自分が受けた傷を癒やすために、若者を犠牲にしているだけの『八つ当たり』だ! 厳しさを免罪符にして、相手の尊厳を蹂躙するのは、教育でも指導でもない……ただの、臆病な自慰行為なんだよ!」
俺は右手の指を、時代の鎖を断ち切るカッターのように交差させた。
少年誌の大ゴマで、古い価値観を粉砕する執行の瞬間。
「俺にアイツを笑う資格はない。……俺だって、昨夜のコメントに怯え、世界中に優しくしてほしいと願っている、情けないチキン野郎だからな。……だが、だからこそ、その『傷つけられることへの恐怖』は誰よりも理解できる!」
独白が重厚に響き、店内の空気が、新時代の風に洗われるように震える。
「――お前の時代は、ここで定年だ。JACKPOT執行!!」
パチンッ!!
衝撃波が店を揺るがし、猪狩の頭上に巨大なスロットが出現する!
リールが爆速で回転し、揃った図柄は――【老・害・確定】!
「ぎゃあああああああ!! 本当は! 今の若者が眩しくて、自分が取り残されているのが怖かったんだあああ! 厳しくしないと、自分の存在価値が認められない気がしてたんだああああ!! 僕はただ、誰かに認めてほしかっただけなんだあああ!!」
猪狩が、衝撃波と共に店の壁を突き抜け、裏の公園の「保育園の砂場」まで吹き飛んでいく!
ハニーが作り上げた「熱血教室」が粉々に砕け散り、剥き出しの「孤独」が猪狩の魂を貫いた。
彼は砂まみれになり、子供用のスコップを握りしめながら号泣し、「ごめんなさい……優しくなりたかった、僕も優しくされたかったんだあああ!」と、人生で初めて、自らの「弱さ」を認めて叫び始めた。
「……ふん。ようやく、自分という名の鎧から脱皮できたようだな」
俺はシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。
決まった。今この瞬間、俺は間違いなくこの歪んだ世界の救急だった。
だが。
「ゼンさーん! 今の、今までで一番『究極の慈愛』を感じました!」
ミチルが、感動で瞳をうるうると輝かせ、俺のパステルピンクのTシャツを聖遺物のように拝んでいた。
「そのTシャツ! 『優しくしてね(はあと)』……! つまり、**『暴力で人を支配する時代は終わった。これからは痛みを知る者が、弱さに寄り添う慈悲の時代である』**っていう、猪狩さんへの、時代を超えた愛の教典だったんですね! ゼンさん、本当は最強の狙撃手なのに、あえて『弱者』を自称して相手に優しさを教えるなんて……!」
「……え?」
「さすが、全人類を包み込むマザー・テレサのようなゼンさんです! その、あえてドMに見える格好をしてまで、憎しみの連鎖を断ち切ろうとする『自己犠牲のラブ&ピース』……私、一生ついていきます!」
ミチルの、一点の曇りもない「女神の全肯定」。
それが、俺の豆腐メンタルに、宇宙開闢以来最大級の致命傷を与える。
俺は別に、愛の教典なんて説いていない。ただ昨夜、匿名コメントにガチで傷ついて、世界が怖くてブルブル震えていただけだ。
「……あ……いや……ミチル……それは……高評価……すぎて……心が持たない……」
「あ、ゼンさん? また顔が真っ白になって、存在がピンク色の雲に溶けてますよ? ほら、次は『全人類が優しくしてくれる魔法のパフェ』、持ってきますからね!」
ミチルが愛の歌を口ずさみながら奥へ引っ込む。
俺の視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『優しくしてね』という文字が、虚しく宙を舞う幻影が見えた。
「……J-JACK……POT……」
俺は、愛の重みに耐えかねて、床に沈没した。
ハニーが隣で、「あはは! 本当に、あなたって世界一の『愛されキャラ』ね!」と、机を叩いて爆笑していた。




