第5話:指示待ち騎士(アイアン・パペット) 〜「言われてません」は、魂の欠席届だぜ〜
「自由とは、重い外套だ。それを脱ぎ捨て、誰かの操り人形になる方が、どれほど楽か……。だが、糸を引く者がいなくなった時、その人形はただの木屑に成り下がる」
喫茶店『ジャックポット』。窓の外では、思考を停止させた群衆が、信号機の指示に従って規則正しく流れていく。俺はトレンチコートの襟を立て、鏡の中の自分を冷徹に見据えた。
今日の俺の横顔は、彫刻のように硬質だ。シガレットチョコを噛み砕く音さえ、運命の歯車が噛み合う響きに聞こえるはずだった。
だが、コートの裏側に潜む「不都合な真実」が、俺の胃壁をチクリと刺す。
今日のTシャツは、爽やかなパステルブルーの生地に、丸文字でこう書かれている。
『自由人』
昨夜、SNSで「ゼンさんって、定職に就いてるんですか? 将来不安じゃないですか?」という親切心の皮を被った「クソバイス」を受け、動悸が止まらなくなった俺が、必死の思いで「俺は自由なんだ!」と自己暗示をかけるために選んだ、防衛本能の産物だ。この布一枚が、俺の放つ「孤高のオーラ」を、単なる「現実逃避」へと変換していく。
「ゼンさーん! またお顔が『将来への不安』で真っ青ですよ? ほら、特製の『明日が見えるオレンジジュース』です! ビタミン摂って、シャキッとしてください!」
ミチルが、太陽の輝きを凝縮したような笑顔でグラスを差し出す。
「……ミチル、俺に必要なのはビタミンじゃない。全人類が『将来』という概念を忘却することだ」
「ふふ、ゼンさんは相変わらず、スケールの大きな現実逃避が得意ですね!」
彼女の「ホワイトアウト(純粋な善意)」に貫かれ、俺のハードボイルドな虚勢が、音を立てて崩落していく。
その時、店の扉が、油の切れた機械が軋むような音を立てて開いた。
現れたのは、40代のベテラン社員、田中。
彼の背後には、社会の闇――「思考停止」という名の錆びついた鎖が、重々しく引きずられていた。
「……いやあ、困ったなあ。部長から『適当にやっといて』って言われたけど、『適当』の指示がないから動けないよ。まあ、指示がないんだから、僕がやらなくても僕のせいじゃないよね……」
田中の独り言は、期限切れの保存食のように無機質だ。
俺の視界が、瞬時にモノクロームの「観測モード」へ反転する。
田中の胸のど真ん中。そこに、分厚い鉄板に覆われた、鈍く光る真っ赤な「痛点」が見えた。
それは【責任からの逃走】【思考の放棄】、そして「自分はただの部品である」と言い聞かせることで、失敗の痛みから逃れようとする【卑怯な安寧】だ。
「 Sweetest Dream... 」
甘く、脳の髄まで痺れさせるような誘惑の声。
ハニーが、田中の背後に立ち、その鉄錆色をした肩を優しく撫でた。
彼女が指をパチンと鳴らすと、田中の周囲に、責任という名の嵐を遮る「虹色の防空壕」が出現する。
「いいのよ、田中さん。あなたは『忠実』なだけ。指示がないのに動くなんて、越権行為だわ。……大丈夫、何も考えなくていいの。あなたはただ、誰かが糸を引いてくれるのを待つ、綺麗な人形でいればいいのよ……?」
「……そうだ。言われてないことは、やらなくていいんだ……。責任を取るのは、指示を出さない上の人間だ……。僕は、何も悪くない……」
ハニーの【脳内補完】が、田中の職務放棄を「従順という名の美徳」へと塗り替えていく。このままでは、彼は自らの意志を完全に喪失し、文字通り「生ける廃材」へと成り果てるだろう。
「ハニー……あんたの作る綿あめは、中身が空っぽだぜ。……地べたを這いずるような泥臭い意志だけが、人を唯一立ち上がらせるんだ」
俺は立ち上がり、トレンチコートの前を――勢いよく全開にした。
「なっ……!?」
ハニーの優雅な微笑が、一瞬で引きつった。
彼女の視線の先。俺の胸元で、パステルブルーの**『自由人』**という文字が、虚しくも鮮やかに踊っている。
「田中! お前が守っているのはルールじゃない。責任を取らされることから逃げ続けている、その醜い臆病心だ! 『言われてません』という言葉は、お前が自分の人生のハンドルを投げ捨てた、敗北の証明なんだよ!」
俺は右手の指を、運命を断ち切るハサミのように交差させた。
少年誌のセンターカラーを飾るような、残酷なまでのカタルシス。
「俺にアイツを笑う資格はない。……俺だって、将来という名の指示から逃げ出したくて、このTシャツを着ているんだからな。……だが、だからこそ、その鉄板の隙間は見える!」
独白が重厚に響き、店内の空気が、真空状態になったかのように緊張する。
「――お前の意志は、ここで止める。JACKPOT執行!!」
パチンッ!!
衝撃波が店を震わせ、田中の頭上に巨大なスロットが出現する!
リールが爆速で回転し、揃った図柄は――【置・物・確定】!
「ぎゃあああああああ!! 本当は! 指示がないのをいいことに、三時間ずっとシュレッダーのゴミを眺めて時間を潰してましたあああ! 責任を取りたくない! 自分で決めて間違えるのが、死ぬほど怖かったんだあああああ!!」
田中が、衝撃波と共に店の窓ガラスを突き破り、向かいの広場の噴水まで吹き飛んでいく!
ハニーが作り上げた「防空壕」が粉々に砕け散り、剥き出しの「当事者意識」が田中の魂を貫いた。
彼は噴水でずぶ濡れになりながら、号泣し、「僕がやります! 僕が考えて、僕がやりますからあああ!」と、通行人の視線も構わず端末に向かって吠え始めた。
「……ふん。ようやく、自分という名のエンジンに火が入ったようだな」
俺はシガレットチョコを一本、ハードボイルドに噛み砕く。
決まった。今この瞬間、俺は間違いなくこの世界の舵取り(ジャックポット)だった。
だが。
「ゼンさーん! 今の、今までで一番格好良かったです!」
ミチルが、両手を叩いて満面の笑みで駆け寄ってきた。
「そのTシャツ! 『自由人』……! つまり、**『誰の指示も受けず、自分の意志で動くことの厳しさと誇り』**を、田中さんに身をもって示していたんですね! ゼンさん、本当は将来が不安で怖いはずなのに、あえて『自由』を背負って戦うなんて……!」
「……え?」
「さすが、真の自由を知るゼンさんです! その、あえて将来不安という地獄に飛び込んでまで人を救おうとする『開拓者の精神』……私、一生尊敬しちゃいます!」
ミチルの、一点の曇りもない「聖母の祝福」。
それが、俺の豆腐メンタルに核爆弾級の致命傷を与える。
俺は別に、開拓者精神なんて持っていない。ただ昨夜、SNSのコメントにビビり倒して、必死で自分を励ましていただけだ。
「……あ……いや……ミチル……それは……高評価……しすぎだ……」
「あ、ゼンさん? また顔が真っ白になって、自由を通り越して『無』になってますよ? ほら、次は『明日へ羽ばたく鳥さん』の特大パフェ、持ってきますからね!」
ミチルが鼻歌を歌いながら奥へ引っ込む。
俺の視界から色が消え、ただ、自分のTシャツの『自由人』という文字が、虚しく宙を舞う幻影が見えた。
「……J-JACK……POT……」
俺は、自由の重みに耐えかねて、床に沈没した。
ハニーが隣で、「あはは! 本当に、あなたって最高の観察対象ね!」と、テーブルを叩いて笑っていた。




